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"世界史のなかの"日本史のまとめ 第5話西日本における「稲作農耕社会」の衝撃(前1200年~前800年)

Q. 誰が稲作を伝えたのか?

前回は稲作文化が西日本に入り込みつつある時代でしたね。

―そうだね。

 違う個性がぶつかり合って、新しいものが生まれるのがこの時代の特色だ。

 今回の時代になると、西日本では本格的に農業に基づいた人間の群れ(=集落)が出現するようになるよ。

 狩猟採集をベースにしたライフスタイルから、農業をベースにした社会に変わるわけだから、これをもって新たな文化の時代、「弥生時代」がはじまったとみなす考えが主流になりつつある。

ん? どういうことですか?

―いままでは、「弥生土器を使う文化」を「弥生文化」と見なしていたんだけど、前回にも言ったとおり、それじゃちょっと単純過ぎるという見方が生まれたんだ。

 それに、最新鋭の科学的な年代分析で当時の遺物に付着する炭素という物質を調べたところ、農業を基盤とする集落ができていたのは「弥生土器」に分類される土器の出現よりもずっと前だってことが明らかになった。


なるほど。まあ要するに、「稲作で食べていく集落ができた」ってところがポイントなわけですね。

ちなみにその頃、世界ではどのようなことが起きていますか?

―やはり同じように異質な文化がぶつかり合っている時代にあたる。

 アメリカ大陸でも農業エリアが広がっているし、世界各地でいろんなライフスタイルの人たちの住み分けができつつあるね。


例えばどんなライフスタイルがありますか?


 ◆ユーラシア大陸の北の方の寒冷エリアでは,狩猟・採集をしながらの移動生活。主食はオットセイやアザラシだ。

 ◇乾燥草原地帯では、おなじみ騎馬遊牧民が活動している。

 ◆内陸の乾燥地帯では、オアシス(湧き水を利用した町)で定住農耕・牧畜を営む人々。

 ◇大河流域にでは,移動せずに暮らす人々が定住農耕を営む。

 ◆海に近いエリアでは、釣りや貝採り、運送業や商売をする人々が活動している。

いろんなバリエーションがありますね。

―ただ、それぞれ「固定的な職業」のようなものではなく、人々は気候に対応して柔軟にライフスタイルを変更していった。
 例えば気候の乾燥化が進むと、農業ではなく遊牧に転換する人々も現れているよ。


みんなが同じような歩みを進めていったわけではないんですね。

歴史:“ 違い ”があるからこそコミュニケーションが生まれ、コミュニケーションが生まれるからこそ、人類の新しい可能性が互いに引き出されていったわけだね。

 もし全部が同じ条件だったら、そもそも交流交換なんて起きないよね。
 自分に足りないものを相手に求めるからこそ、交換がうまれるんだ。


軍事的な強さにも差はありますよね? 遊牧民には馬の力がありますし―

―その通り。
 この時代には、ユーラシア大陸の中央部で「雨のあまり降らない草原地帯」が拡大し、遊牧民が馬に直接またがり武装するようになっていった。

Photo by Greta Schölderle Møller on Unsplash


南北アメリカ大陸では遊牧民は現れないんですか?

―馬がいないし、鉄器もないからね。
 ただ、この時期には大規模な神殿をともなう文明が、中央アメリカ(注:オルメカ文明)、南アメリカのアンデス山脈西の海岸沿いに出現するようになっている。
 定住して農業・牧畜を営む群れ(=集落)が大規模化して都市となり、内部の人間の優劣が生まれ、社会が複雑になっていったことが背景にある。


そのへんはユーラシア大陸とおなじなんですね。

―ユーラシア大陸では、馬にまたがった遊牧民は鉄でできた武器を持ち、「騎馬遊牧民」(武装した馬に乗った遊牧民)にバージョンアップしていく。今でいったら戦闘機に核ミサイルを搭載しているようなもの。定住民にはとてもかなわない。

 ユーラシア大陸の西部(北を上にして左側)の“ヨーロッパのお隣”ではスキタイ人というグループが騎馬遊牧民のルーツともいえる文化を編み出していた。

 騎馬遊牧民の活動もあって、この時期には各地で今まで栄えていた文明が崩壊し、新しい文明が生まれている。

スキタイ人の武装乗馬技術の、草原地帯の遊牧民にとって大きなイノベーションとなったwikimediaより。前7~前6世紀のスキタイ人の想像図)


どうして遊牧民は移動したんでしょうか?

―この時期のはじめと終わりごろに特に寒い時期があったようだ。太陽の活動が弱まったことが原因だという説もある。
 一方、経済的には圧倒的に定住民のほうが豊かだから、遊牧民は定住民と協力する必要があったんだ。

お隣の東アジア(≒中国)ではどうですか?

―当時の黄河流域は森林が鬱蒼と茂っていて、ゾウもいたらしい。

 しかし開発が進むと、次第に森林が伐採され、川に黄色い土が交じるようになっていく(まさに「黄河」になっていく)。

 この時期になると(いん)とよばれる都市国家群が衰退し、西の方の周が都市国家群を支配するようになる。
 銅の産地のコントロールをめぐって、殷や周、それに南方の長江流域の都市国家群との間に対抗関係があったようだ。


南の長江流域にも都市国家があったんですね。

―黄河流域とは別のルーツをもつ文明があったことが明らかになっているね。


まさか、ユーラシア大陸から、この頃の日本に移住した人々が「弥生文化」をつくったんでしょうか?

―たしかに移住者はいた。
 長江の下流から直接海を渡ったわけではなく、北上して朝鮮半島を経由して日本に稲作を伝えたのではないかと想定されている。

 ただし、彼ら「弥生人」が日本列島の文化を「リセット」して、今までの「縄文人」を絶滅させてしまったというわけではない。
 彼らもともといた「縄文人」とも交流し、特に九州北部から西日本にかけては混血の子どもたちも多く生まれたようだ。

 その影響をまぬがれた北海道、東北、九州南部、沖縄の人々には、この時期に移住した「弥生人」とは異なる遺伝子的な特徴が残っているという説もある。



 もちろん日本にはその後もいろんな形でユーラシア大陸から移り住む人たちがいたから、この時期の移動だけですべてが決まったわけじゃない

 でも、「「稲作農耕文化」を伝えた人々の大移動」により、在来の「縄文人」の文化を基盤としつつも、日本列島の社会の多様性が高まっていったことは間違いないね。「弥生人」はすでに「縄文人」がつくりあげていた物の交易ネットワークを利用し、稲作や新しいテクノロジーを広げていくことになる。


じゃあ、「縄文文化」は消えてしまうんですか―?


―東日本ではその後も「縄文文化」の影響は色濃く残っていくことになる。スジのついている貝殻でガリガリして模様を付けた土器(注:条痕文系土器(じょうこんもんけいどき))が特徴的だ。


 この違いは、のちのちの日本の「東西文化の違い」の背景ともなっていく。


今回の3冊セレクト

"世界史のなかの"日本史のまとめ 第4話 西日本における稲作農耕社会の衝撃(前1200年~前800年)は以上です。
 次回は第5話前800年~前600年)です。

 


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