5.1.4 ローマ=カトリック教会の成長 世界史の教科書を最初から最後まで
かつて西ローマ帝国の領土だったエリアが、「西ヨーロッパ」というまとまった地域となっていくプロセスを、今度はキリスト教の教会に注目してみてみよう。
そもそもキリスト教の教会とは、イエスが神であり人類全体の「救い主」であることを信じ、神との契約やイエスの教えを守る信徒たちのグループのこと。
当初は現在のパレスチナ/イスラエルで誕生したキリスト教は、信徒による熱心な布教活動によってあっという間にローマ帝国のエリア各地に拡大。
教会の数が増えるに従い、しだいに各地に教会の間に力関係が生まれるようになっていった。
①現イタリアのローマ
②現トルコのコンスタンティノープル(現イスタンブル)
③現トルコのアンティオキア
④現パレスチナ/イスラエルのイェルサレム(エルサレム)
⑤現エジプトのアレクサンドリア
これら5つの有力教会を日本では「五本山」(ごほんざん)といい、力を及ぼす管轄地域を競い合うようになっていった。
キリスト教は”ヨーロッパの宗教”っていうイメージがあるかもしれないけれど、西アジアのトルコや北アフリカのエジプトにも有力な教会があったんだね。
このうち次第に教義解釈の上でも主導権を握っていったのはローマとコンスタンティノープルの教会だ。
ローマ教会は、その司教であった人物「教皇」(きょうこう、パパ)こそが、イエスの使徒であったペテロの“後継ぎ”にあたるのだと主張。
それに対してコンスタンティノープルの教会指導者であるコンスタンティノープル総主教は、キリスト教を初めて公認したローマ皇帝コンスタンティヌスによって築かれたコンスタンティノープルの教会こそが、キリスト教徒の首位に立つにふさわしいと主張して真っ向から対立した。
両者は、325年のニケーア公会議や451年のエフェソス公会議などで、「アタナシウス派が正統の教義である」という点では一致した。
しかし、儀式の方法や教義の解釈において、しだいに違いは開いていく。
結果的にローマ教会は、コンスタンティノープル教会離れを加速させ、6世紀末にはローマ教会のトップ(教皇)のグレゴリウス1世が、大々的にゲルマン人たちにアタナシウス派を布教していった。
さらに6世紀からは、田舎で真面目な修行に励むための施設である修道院の活動が活発化。
都会から離れて自給自足生活を送るために農業にも精を出し、聖書を書き写したり教義を研究するための運動(修道院運動)を繰り広げていったんだ。
ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が激化するきっかけとなったのは、726年に東ローマ(ビザンツ)帝国の出した聖像禁止令(せいぞうきんしれい)だった。
そもそも初期のキリスト教徒は、『旧約聖書』で預言者モーセが神と契約した内容を受け継ぎ、偶像を崇拝することを認めていない。
しかし、しだいにキリストそのものや、聖母、さらに聖人と呼ばれる“神の恩寵”(おんちょう)を受け奇跡を起こしたり命がけで教会を守った人たちも“信仰の対象”とされるようになっていったのだ。
しかも、ローマ教会は、ゲルマン人布教のために「文字」よりも断然わかりやすい「偶像」を使用。
それに批判的なビザンツ皇帝レオン(レオ)3世が726年に発布したのが、聖像崇拝令だ。
これを受け、ローマ教皇は「ビザンツ皇帝にこれ以上口出しされるのはごめんだ。別の政治権力に守ってもらう必要がある」と、当時急成長していたゲルマン人のフランク王国に飛びついた。
その頃、ちょうどイスラーム教徒のイベリア半島への侵攻に立ち向かっていたカール=マルテルの子ピピンが、フランク王国の王位を継承することを承認。
さらにピピンは、ローマ教会を圧迫していた異端のアリウス派を信仰するランゴバルド王国を討伐し、ラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進した。
これはのちにいう教皇領のルーツだ。
現在のヴァチカン市国は、ちっちゃくなってしまった教皇領の最後の名残だよ。
このような経緯をたどり、ローマ=カトリック教会とフランク王国両者の利害は一致し、タッグを組むことで「西ヨーロッパ」の特質を生み出していくことになるんだよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊