14.2.5 ソ連の社会主義建設 世界史の教科書を最初から最後まで
1922年に成立した「ソ連」(ソヴィエト社会主義共和国連邦)では、1924年に “建国の父” レーニン が亡くなると後継者争いが表面化。
その頃、ライバルを巧妙に叩き落として急速にのし上がっていったのは、グルジア(現ジョージア)出身のスターリン(1879〜1953年)だった。
1922年に共産党の書記長に就任していたスターリンは、大したポストではなかった「書記長」という役職にに権力を集中。
成功したロシアの革命方式を「世界に“輸出”しよう!」という世界同時革命を主張するトロツキー(1879〜1940年)を追放した。
これに対しスターリンの意見は、「世界中で同時に革命を起こそうとしなくても、まずはソ連1国だけで社会主義を建設することに集中したほうがよい」とする「一国社会主義論」だ。
1928年、一部資本主義をとりいれたネップ(NEP)の政策に代わり、スターリンは「個人事業を制限し、国主導で重工業を推進しよう」とする第一次五カ年計画を推進する。
まずは国を豊かにしなければ、「みんなが豊かで平等な国」なんてつくれない。
国が貧しいままでは「みんなが平等に貧しい国」になっちゃうからね。
まずはソ連が社会主義を実現しなければ、”お手本“ にもならない。
「開発」をトップダウンで進めて生産力をアップし、社会主義と、その”ネクストステージ“である共産主義の実現に向けて頑張ろうと主張したのだ。
同じように農業現場でも、個人の畑が次々に没収。
レーニンの新経済政策のときに、土地経営をして成功した地主たちは、”反革命分子“として弾圧の対象となった(お仕置きの典型は、”シベリア送り“だ)。
至る所にあった収容所(グラグ)
土地は集団のものとされ、広い畑を耕すために機械化が命じられた。
すでにガソリンやディーゼルエンジンで動く自動車の技術が、耕運機(トラクター)にも導入され、大量の肥料が投入される大規模な農業がはじまった。
じつはこれ、ベルトコンベヤーによる流れ作業方式を開発したことで知られるアメリカ合衆国のフォード・モーターの生産したトラクター(フォードソン・トラクター)。
ソ連は国家主導でアメリカ合衆国の企業とも普通に貿易をしていたんだよ。
なお、土地・農具・家畜をシェアするように命じられた農民たちの共同農業経営組織をコルホーズ(集団農場)といい、農業経営のモデルとして農民たちを国の司令通りに働かせる国営の大規模農場はソフホーズ(国営農場)と呼ばれた。
「何をどれだけつくるべきか」は国の司令にもとづいて決められ、収穫物は国の決めた値段で納められる決まりだ。
政府は「集団化」に抵抗する多数の農民を逮捕・投獄。むりやり生産物をとりあげたため、1932〜33年には農民に多数の餓死者が発生。
多大な犠牲をはらいつつ、農業の集団化はほぼ完了した。
ソ連一国での社会主義化をめざすスターリンの主張が優勢となると、世界中の革命運動をサポートするための第3インターナショナル(コミンテルン)も、「まずはソ連という国を、立派な社会主義の国にしなければ」という主張に変化していく。
「スターリンの牛耳るソ連共産党の指導部が何を考えているか」ということが、しだいにコミンテルンの活動だけでなく、ソ連全体を縛るようになっていったんだ。
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