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6.2.2 中国北方の諸勢力 世界史の教科書を最初から最後まで

トルコ人が西の中央アジア方面へ移動し、唐が滅亡したことで、モンゴル高原周辺の民族の活動は活発化していった。


モンゴル系のキタイ人


まず、朝鮮半島のちょっと西に突き出た遼東半島(りょうとうはんとう)の西に注ぐ「遼河」(りょうが)の上流部で、農業と遊牧を組み合わせていたキタイ契丹(きったん))という民族が、モンゴル高原東部を中心に建国。



遊牧民と農耕民を含む広大なエリアを支配することになった。

国名は時期によって「契丹」や「遼」を用い、初代の耶律阿保機(イエルーアーバオジー;やりつあぼき、在位916〜926年、太祖)から中国の「皇帝」という称号を使用した。
唐が滅亡して弱り切った状況において、自分たちが「中国」の文明をのっとるチャンスと考えたわけだ。

契丹(遼)は、926年に中国東北地方のツングース系の民族による国家渤海(ぼっかい)


を滅ぼし、936年には中国北部(河北・山西)の農耕エリア(燕雲十六州)をゲット。

中国が宋によって統合されたのちも、華北に侵入して宋を困らせた。

宋には契丹(遼)に立ち向かうだけの余裕はなく、1004年に毎年決まった量の物資を差し出すこと合意。多額のがおくられることとなったよ。この取り決めを澶淵(せんえん)の盟という。


これまでの騎馬遊牧民たちは、北方の根拠地に腰掛けながら中国に手を伸ばすという統治方式をとったけれど、契丹(遼)の新しいところは、北方の根拠地と中国内地の支配方法を分けたことにあった。

北方エリアは部族制、中国内地は中国式の州県制がとられ、それぞれ北面官(ほくめんかん)と南面官(なんめんかん)が支配した。のちの学者は、これを二重統治体制と呼んでいるよ。

契丹ははじめのうちはウイグル文化の影響を強く受けていたけれど、しだいに仏教を含む中国文化を受け入れた。ウイグル文字と漢字の両方に影響を受けた契丹文字も作成している。



チベット系のタングート人



さて、中国が宋によってまとめられた頃、シルク=ロードへの通り道にあたる陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)の

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西北辺境エリアでは、チベット系のタングート人の勢力が強大化。



チベット高原のチベット系国家である吐蕃や、トルコ系のウイグルを打ち破って独立し、李元昊(りげんこう、在位1038〜1048年)が「皇帝」を称し、中国の宋の「皇帝」に朝鮮した。

国号は「大夏」(たいか)としたけれど、中国側からは「西夏」(1038〜1227年)と呼ばれるよ。
ここでは「大夏」を使うことにしよう。




大夏は、中国とタリム盆地を結ぶ物流ルートの重要地点をしめ、しばしば宋を攻撃。
契丹(遼)が締結させた澶淵(せんえん)の盟と同様に、中国から毎年物資を送ってもらえるという約束を結ばせている。

仏教が盛んで、漢字の「へん」と「つくり」などの構造にインスパイアされた、複雑な大夏文字(西夏文字)によって、仏典がタングート語へと翻訳されていった。

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ツングース系のジュルチン人


キタイの勢力エリアの東部のほうには、北海道北西のオホーツク海に面する「沿海州」とも呼ばれる地域が広がっている。

天気予報で聞いたことがある人もいるんじゃないかな。

モンゴル高原方面から、アムール川(中国語:黒龍江)や、

それに注ぐ松花江

といった大河川が流れる雄大な地域で、大興安嶺(ダーシンアンリン;だいこうあんれい)という険しい山々と、

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寒冷な気候に耐えうる森林地帯が広がっている。




季節により狩猟と農業を組み合わせた生活を営むツングース系の民族のうち、ジュルチン(女直(じょちょく)または女真(じょしん))と呼ばれる民族が、いくつかのグループに分かれて勢力を増していった。

そのうちの一つの指導者であった完顔阿骨打(ワンヤンアグダ、在位1115〜1234年)が1115年に契丹(遼)から独立。

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国号を「金」と定め、みずからを「皇帝」と称し、契丹(遼)・宋・大夏に挑戦した。

宋は、契丹(遼)を攻撃するためにと協力し、1125年に契丹(遼)を滅ぼすことに成功。



しかし、契丹(遼)はその後もあきらめない。

その皇帝一族であった耶律大石(ヤルート=タイシ;やりつたいせき、在位1132〜43年)はリベンジを機して、タリム盆地方面に逃亡。

ここにあったトルコ系イスラーム王国のカラハン朝を滅ぼし、遼を復活させた。これを「カラキタイ」(西遼、1132〜1211年)と呼ぶよ。なかなか良いところにはまりこんだものだね。


女直が次に狙いを定めたのはもちろん宋だ。

金は華北に軍を進め、宋の都であった商業都市 開封(かいほう)を占領。





遼(契丹)と同じく、遊牧民と農耕民の支配方法を区別した。
遊牧民は部族性に基づく行政制度。
グループ分けがそのまま軍隊のユニットとなるミンガン・ムケ(中国語で猛安・謀克(もうあんぼうこく))と呼ばれるシステムだった。

また農耕民に対しては、宋の施行する州県制をそのまま採用。契丹文字や漢字を参考にした、女真文字がもつくられているよ。

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このように遊牧民と農耕民など、異なるライフスタイルを送る人間集団を統治しようとした遊牧民国家は、同時期のユーラシア大陸各地に見られる。
カラハン朝、サーマーン朝、セルジューク朝などが当てはまるね。
これらをまとめて「中央ユーラシア型国家」と呼ぶ学者もいるよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊