64753975-敦煌壁画の莫高窟

3.2.4 魏晋南北朝の文化 世界史の教科書を最初から最後まで

三国時代がはじまってから、中国が南北にほぼ二分割される時代までのことを、ひとくくりに「魏晋南北朝時代」という。

この動乱時代においては、国がトップダウンで全土を統一することはなかなかできず、また、漢人のみならず周辺の諸民族がやって来て、「中国」文化がアップデートされていった。

さまざまな思想が花開く中、「あっ、これは中国っぽい文化だな」と思えるような文化が花開いていくことになるんだよ。

中国っぽく変化した仏教

まず仏教から。

紀元前後(今から2000年ほど前)に、西域から伝わった仏教。

魏晋南北朝時代に中国に入って布教したのは、西域出身のブトチンガというお坊さん。中国ネームは仏図澄(ぶっとちょう)だ。

しかし、お経がインドのサンスクリット語で書かれていたので、中国人にとっては呪文にしか聴こえない。
これを美しい中国語に翻訳したのが、西域出身のインド人のお坊さんであるクマラジーヴァだ。中国ネームは鳩摩羅什(くまらじゅう)。

2人ともなかなかインパクトのある名前でしょ。

ブトチンガもクマラジーヴァも、中国に入って「皇帝」を称した五胡十六国の君主に歩み寄って、仏教を布教する。
漢人ではない君主たちにとって仏教は、同じく漢人にルーツを持たない宗教だったから、中国発祥の道教や儒教よりも親近感があったわけだ。

でも、翻訳によって失われてしまうニュアンスもあるよね。

東晋の時代には法顕(ほっけん)というお坊さんが、遠路はるばるインドに「本場インドの本当のお経」を求めに旅に出ている。
当時のインドはグプタ朝という王朝が支配していた頃。
あまり歴史書を残さなかったインド人に代わって、彼の書いた『仏国記』(ぶっこくき)のおかげで当時のインドの様子がわかるんだ。


異民族出身の五胡十六国の中でも、鮮卑(せんぴ;シェンベイ)の建てた北魏(ほくぎ;ベイウェイ)は、仏教の持つ権威を支配に利用しようとした。

たとえば、都には文成帝(在位452~465)以来35年をついやして、1kmにわたって崖をくりぬいて作った巨大な石仏がある。
雲崗(うんこう)の石窟寺院だ。


その様式にはインドのガンダーラ様式グプタ様式の影響も見られるとされる。

また、のちに洛陽に都がうつされても、龍門(りゅうもん)に石窟寺院が建造された。



なお、この時期4世紀(今から1700年ほど前)頃から、西域への”玄関口”にあたる敦煌にも、莫高窟(ばっこうくつ)という石窟寺院が建設され始めている。長い砂漠を超えて中国入りした人たちは、敦煌のお寺の豪華絢爛な仏像や絵を見て思わず息を呑んだにちがいない。

画像4

画像3


こうして仏教は河北では庶民の間に広まったのだけれど、漢人がうつり住んだ長江下流域では、ちょっと違った受け入れられ方をしている。

貴族にとって当時の仏教の教えは、異国インドで発展した哲学的な知的営み。
難解な教義の解釈をめぐって、貴族同士がマウントをとり合うことで流行した。


道教も負けてはいられない

しかし、中国の伝統的な思想といえば、道教がある。

もともとは、老子(ろうし)や莊子(そうし)の唱えた老荘思想をベースに、占いや民間信仰がまざって自然にできあがっていった信仰だったのだけれど、仏教ブームによって信者が激減。

道教のお坊さん(道士)の中には、「仏教の教えはまちがっている!」「かつて老子は孔子を論破したことがある!」などと、仏教や儒教と張り合う動きも見られるようになっていった。

そして、仏教のお寺に対抗し、道教のお寺を組織化したのが、寇謙之(こうけんし;コウチェンジー)という道士。
彼は、老子が"神様"化された「太上老君」からお告げを受けて活動をスタートさせたとされる。

画像1



石仏を建てるなどして仏教を国家安寧のために利用していた北魏の君主である太武帝(たいぶてい)にすりよって、保護を得ることに成功。
立派なお寺(道観)を各地に建立した。
こうして消滅の危機を脱したのだった。


自由な文化が花開く

秦や漢の時代には、国のお墨付きを得ていない「自由な思想」を唱えようものなら弾圧は避けられなかった。

でも、中国を統一的に支配する王朝がなく、バラバラな状態になっていたからこそ、逆に「自由な文化」が花開いていくこととなった。

その代表例が「清談」(せいだん)という"哲学トーク"。
老子や莊子の難解で複雑な思想をベースに、いかに"深くてうまい"ことが言えるかが競われた。
現実の政治と結びつきやすい儒教から距離を置こうとしたエリートたちにとって、「清談」は新たな力の見せどころとなっていったんだ。

画像2

さらに、そもそも「政治さ疲れた」「都の暮らしさ疲れた」と、悠々自適な田舎暮らしに憧れる"都会人"も急増。
戦乱や陰謀うずまく中央を去り、理想のユートピアを求める詩がヒットした。
例えば陶潜(陶淵明)の『桃花源記』とか、謝霊運のよんだ山水詩シリーズが有名だね。



一方、都の貴族は貴族で、自らの地位の高さを証明してくれるような洗練された文化を求めた。

部屋に書を飾ってみたり、絵を客人に見せたりすることで、"アートがわかる"自分の教養の高さをアピールしたがったわけだ。
まあ、基本的にいつの時代も人間がやることはおんなじ。

詩についても、対句をもちいたはなやかな「四六駢儷体(しろくべんれいたい)」というフォーマットがパターン化され、"プレバト"を勝ち抜いた詩人の作品は、南朝のの皇太子(皇帝の息子)であった昭明太子(しょうめいたいし、501~531)によってまとめられている。

この詩のアンソロジーである『文選』(もんぜん)は、のちに日本にも伝えられ、詩の教科書としてリスペクトされた。
なじみ深いところでは、元号「令和」の元ネタには『万葉集』(759年頃、今から1300年ほど前)とされているけれど、実はそのまたさらに元ネタは『文選』に収録されている「帰田賦」(きでんのふ)の一節と考えられる。



ただね、全体的にはさほど豪華なものは好まれず、質素でシンプルなものに人気が集まる傾向があった。
そもそも、飾り気を排した「筆文字」自体が「アート」になるっていう文化自体、世界的にみてもかなり特徴的だよね。
ちなみに中国の書画作品を見ると、よく赤いスタンプが押されているのを見るはずだ。これは、鑑蔵印といって、コレクターが入手した記念に「スタンプ」を押すものだよ。






このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊