見出し画像

”世界史のなかの”日本史のまとめ 第13話 ユーラシア大陸の変動と、天皇と畿内氏族の勢力拡大(600年~800年の世界)

Q. 畿内の王権はどのようにして日本各地に支配を及ぼしていったのだろうか?

この時代はどんな時代ですか?

―この時代のユーラシア大陸では、いったんバラバラになった国が、新しい秩序によって再びまとまっていく


「新しい秩序」ってなんですか?

―「できるだけ多くのさまざまなバックグラウンドをもつ人々が「納得」するような仕組み」のことだ。
 経済的な争い、社会的なを緩和することができるようなね。

そのためには民族とか生活スタイルの違いにはこだわっていられなそうですね。

―そうだね。それに内容も「わかりやすい」ほうがいい。

 前の時代から、ユーラシア大陸やアフリカ大陸、オセアニアなど、世界中で大規模な人間の移動が起きていたよね。

どうして移動したんでしょうか?

―ユーラシア大陸では遊牧民の移住した先には定住民が農業をやっていたから、遊牧民は各地で定住民を支配する必要にせまられたんだ。

トルコ系のウイグル人も、この時代にモンゴル高原からユーラシア大陸中央部に大移動しているwikicommonsより。現在のホータンで撮影)

 ケンカばっかりしているわけにはいかないし、お互いそれぞれ強みも弱みもある。新しい支配の仕組みをつくっていくにあたっては、従来の遊牧民の常識も定住民の常識も通用しない。どちらも「納得」するような新しい仕組みが必要になる。「不公平だ」と感じる人が多くても社会はギクシャクするし、支配するのに都合が悪くなっても困る。


異質なキャラをミックスするって、なかなか難しいですよね。

―そうだね、特定の民族や文化だけに限られるような仕組みでも困るしね。
 民族や場所に関わりなく、なるべく多くの住民が「共感」するようなストーリー(=設定)が必要になるわけだ。
 その例が、キリスト教、イスラーム教、マニ教、仏教といった宗教だよ。


ユーラシア大陸の3つの普遍宗教

上の図の青エリア① ヨーロッパには、騎馬戦術を充実させた国々が立ち並び(フランク王国とビザンツ王国とスラヴ人の国々)、しだいにキリスト教の価値観を受け入れていくこととなる。キリスト教とは、すべての人間は人種や民族の違いを超えて「神の愛」を受ける資格があると説明した。

上の図のオレンジエリア② アラビア半島の遊牧民も、ついに大移動を始めた。地中海の周りで発達した従来の考え方に異を唱え、すべての人間が神の前では「ちっぽけな存在に過ぎない」ということを、もっともっとシンプルで明快な考えへと組み替えた。この、人間を超えた存在である神に自分の生き方を委ねることをイスラームという。

上の図の黄色エリア③ 中国では、インドから伝わった仏教が、さまざまな人々の違いを越える「考え方」として信仰されたけど、儒教と道教も尊重された。唐は道教を保護したけど、いずれかが独占的に正しいという決定が下されることはなかった(注:三教(さんぎょう))。

(地図の注釈)唐は領土を拡大していくが、西方との交易ルートをめぐり、A: ハザール人。東西の交易ルートを独占し、首都にはさまざまな宗教の人々が集まった。
B: 突厥(とっけつ)は分裂し、のちにウイグルの勢力が強まった。どちらもトルコ系の言葉を話した人々である。唐は、ユーラシア大陸の東西交易の中心である : ソグディアナ地方に至るルートをめぐり、チベット(吐蕃)B:ウイグルと厳しい戦いを続けることとなる。


― で、ユーラシア大陸の東端にある東アジアでは長い間分裂状態のつづいていた中国に「隋」(ずい)という統一王国ができたもんだから、大慌て。

 従来は「大王(おおきみ)」を中心に、畿内エリアの豪族が連合して日本各地の有力者にいうことを聞かせていたけど、もはやそんな「ゆるい体制」では中国の脅威に立ち向かうことはできるはずもない。

 そこで、このヤマト政権で代々高い位を与えられていた豪族の一族(注:蘇我馬子(そがのうまこ))が政権を握ったものの、政治が混乱。

 そこで、その対立をゆるめることのできる立場にいた人物が「クッション役」となって、女性の天皇(注:推古天皇)を支える体制が急ピッチでつくられた。

想像図。

中国との関係は?

―中国との外交を確立するため、倭(。中国側の日本の政権の呼び名)が、この時期の初めに使者をつかわしたという記述が、歴史書の『隋書』に残されている。

 その間、ほかの豪族から権力をうばい、本拠地を奈良県の斑鳩(いかるが)というところに置きいろんな改革をしていった。

 603年には冠位十二階の制を,604年には憲法十七条というルールを定め国家としての制度を整えた。どれも、いままで力をもっていた豪族のパワーを削ぎ、中国から「一人前の国」として認められるためのものだ。


この時代に「憲法」をつくるなんてすごいですね!

―現代でいう国の暴走を防ぐために、国民が政府との間に結ぶ「約束」という意味での憲法とは意味が違うけどね。

 ここでいう「憲法」っていうのは、どちらかというと役人としての心構えを定めたものだ。

 中国の儒教や仏教の考えの影響がみられ、「すべての人々は、大王を主人とすること」(くにのうちのおおみたから、きみをもってあるじとす)という箇所からわかるように、大王のいうことをきくことの大切さについて述べられている。


中国からの影響が強かったんですね。

―中国の隋は倭(わ)にとって「最先端」の国だからね。進んだテクノロジーや知識を得るための留学生やお坊さんを派遣させたわけだ(注:遣隋使)。
 でも、隋の第2代の皇帝(注:煬帝、ようだい)は、倭(わ)が「対等な外交」を求めたことに立腹。

 マズかったのは、「太陽の昇るところの国から、沈むところの国(中国)にお手紙差し上げます」っていうところからはじまる文面だ。

 皇帝は「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる有らば、復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ」(注:野蛮人の書いた手紙には無礼な内容が含まれている。二度と手紙をよこすな!)とスルーしたようだ。


困りましたねぇ。

―でもめげずに翌年にもう一度派遣し、「東の天皇から、つつしんで西の皇帝に申し上げます」という文書を送っている(『日本書紀』に記されている)。

 このへんから、倭(わ)の王(大王)は「天皇」(てんのう)という称号を使うようになったんだよ。

称号ひとつで揉め事になるなんてたいへんですね。

―気を使わないといけなかったんだね。
 このころに百済のお坊さん(注:観勒(かんろく))が、「カレンダーのつくりかた」や天文学についての知識を伝えたことで、「年代の記録」も始まるようになる。
 縁起の良し悪しを判断するための中国のカレンダー計算が採用され、初代天皇の即位の年が定められた(注:紀元前660年の辛酉の年ということになっている)のもこのころのことだ。

 中国で知識を得た学者(注:高向玄理(たかむこのげんり))や仏教のお坊さん(注:(みん))らの力もあって、このようにして天皇を中心とする畿内の政権はしだいに国の組織を整備していったわけだ。


仏教は信仰されていたんですか?

―当時はまだ有力者が中心だね。
 7世紀前半には都の飛鳥(あすか)を中心に仏教文化が栄えている。

 仏教は教義を理解した上で信仰されたとはいえず、一種のまじない的な要素が重視されていたようだ。祖先の冥福を祈るとか、病気の回復を願うとか。

 豪族は権威を示すために仏教に関係するあるものを建設するようになった。
 何だと思う?


今までは前方後円墳でしたよね…。うーん。

―そうそう。今までの前方後円墳だったけど、それに代わって「お寺」が建てられるようになったんだ。
 当時の倭(わ)にとって、中国のお寺は「高層ビル建築」のように映ったのだろう。

 例えば、当時の権力者は法興寺(ほうこうじ;飛鳥寺(あすかでら))、四天王寺や法隆寺(ほうりゅうじ;斑鳩寺(いかるがでら))を建設した。
 法隆寺の西院(さいいん)は世界で最も古い時代につくられた木造建築だ(ただし、現存する建物は670年の焼失後に再建されたものだ)。

法隆寺の西院。
五重塔は、ブッダの遺骨をおさめる仏塔
(ストゥーパ(下図)
中国化したものである。

 いずれも,従来の掘っ立て柱(地面に直接立てられた柱)と板葺き・桧皮葺(ひわだぶき)といった建築様式ではなく,礎石の上に建築され屋根は「瓦(かわら)葺き」の中国風の建築様式となっている。

これが伝統的な「ひわだ葺き」。


じゃあ、仏像もつくられるようになっていくんですね?

―その通り。
 この時期の仏像の様式には2つある。
 一つめは、中国の北朝の影響を受けた「厳しい表情」の様式がみられ,法隆寺金堂釈迦三尊像が代表例だ。

中国の北朝のときに彫られた巨大仏像(臨済宗妙心寺派保寧寺ウェブサイトより)

法隆寺の仏像(ブッダと左右の菩薩


 2つめは百済や中国の南朝の影響を受けた、「やわらかく丸っこい」穏やかな仏像もつくられ,広隆寺・中宮寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)や法隆寺の百済観音像(くだらかんのんぞう)が有名だ。

半跏思惟像(はんかしいぞう、中宮寺ウェブサイトより)

 墨、紙、絵の具(注:彩色(さいしき))が、高句麗のお坊さん(注:曇徴(どんちょう))によってもたらされたのもこの時期。
 この時期に伝わった、従来の倭(わ)になかったような模様(注:忍冬唐草文(にんどうからくさもん))は遠くユーラシア大陸の西アジア由来の文様だ。

忍冬唐草の模様(平城京で見つかったもの。文化遺産オンラインより)。もともとはユーラシア大陸西部で生まれた模様である。現在でも使われる風呂敷の模様のルーツである。


隋の制度を導入した政権は長続きしたんですか?

―天皇の補佐役をしていた人(注:聖徳太子)が亡くなると、また混乱してしまう
 中国で隋が滅び、新たな勢力としてという統一王国が誕生したことが背景にあった。

 唐は隋よりももっと強力な統一国家で、朝鮮半島の国々にとって「とてつもない脅威」となったんだよ。

朝鮮半島の国々はどうやって対処したんですか?

半島の南西部の百済(くだら)では、王(注:義慈王(ぎじおう))が貴族の力をおさえ、ライバルであった南東部の新羅(しらぎ)を攻撃した。
 危機の打開のため、まずは朝鮮半島南部の支配権をかためようとしたんだね。
  一方で北方の高句麗(こうくり)では、貴族(注:泉蓋蘇文(せんがいそぶん))が国王ら支配層にクーデターを起こし、百済と組むことで、内乱状態であった新羅を倒そうとしていた。


それぞれの地域で唐に対する体制を整えようとしたわけですね。

―整理すると、百済+高句麗 vs 新羅の状態になっていたわけ。
 そんな中、新羅が唐にSOSを求めたことで、唐は軍を朝鮮半島に派遣した。

唐の最大領域

 「このままでは倭(わ)も危ない」と、有力豪族の一人が立ち上がった(注:蘇我蝦夷(そがのえみし))。
 彼は、天皇の跡継ぎ問題「女性の天皇」(注:皇極(こうぎょく)天皇)を立てることで解決し、ほかの豪族をおさえて権力を集中させた。
 同時に、備えるべき敵である唐に留学生やお坊さんを派遣して、最新情勢や知識を導入させたんだ。

 しかし、この方針に反対するグループが「中国風の強い国づくり」を一層推し進めるためにクーデターを起こした。


大化の改新ですね!

―そうそう(この事件自体は「乙巳(いっし)の変」という)。

蘇我氏が悪かったんですよね。

「悪者の蘇我氏が倒された」っていうストーリーは、のちの世に藤原氏という一族によってつくりだされたもの


 唐に対してどんなふうに対処するかをめぐる、政権内の対立であったと考えたほうがよさそうだ。蘇我氏はその後も天皇家に近い存在であり続けているからね。

 のちに書かれた歴史書の内容が、当時の改革を正確に伝えているとは限らないことがわかっているけど、新しい天皇(注:孝徳天皇(こうとくてんのう))の下で大改革(注:大化の改新(たいかのかいしん))がおこなわれたことは確かだ。

天皇の系図宮内庁ウェブサイトより)

 改革の内容をみてみると、唐の国の組織を「そのまんま輸入」したわけではなく、「倭(わ)の実情」にあわせて「アレンジ」されていたこともわかるよ。
 ただし一気に新しい制度が導入されたわけではなく、この後ゆっくりとしたペースで整備されていくことになる。


でも朝鮮半島への唐の脅威はまだ続いていますよね。

―そうそう。

 倭(わ)と友好的だった百済(くだら)が唐にほろぼされてしまったんだ。
 百済の王族は都を占領されると、倭にSOSを求めるとともに、日本にのがれていた王子に帰ってくるように要請した
 そこで倭は百済を助け、唐の進出を食い止めるために軍を送る。

 でも当時の倭の軍隊は実にしょぼい
 豪族の軍の「寄せ集め」に過ぎなかったからね。

 結局大敗し、新羅は北の高句麗(こうくり)を唐とともに滅ぼし、さらには唐を朝鮮半島から追い出すことに成功。
 朝鮮半島は新羅によって統一されることになったのだ。


惨敗した倭(わ)はどうしたんでしょう。

―唐の日本襲来に備え、日本各地に防備が築かれた。

 「一刻も早く強力にまとまった国」をつくることが必要と考えた天皇家の人物(注:中大兄皇子)は、西日本と東日本、瀬戸内海と日本海をつなぐ「交通の重要ポイント」である現在の滋賀県(注:近江大津宮)にうつし、ここで天皇中心の強い国づくりをすすめることを決意した。


そのためにどうしたんですか?

―初の全国の戸籍(注:庚午年籍(こうごねんじゃく))が作られた。
 畿内エリアの豪族を天皇の下に結集させ、畿内の外(畿外)である日本各地の豪族を従わせるために、まずは豪族のランクをしっかりと定め、どこにだれが住んでいるのかをハッキリさせる必要があったわけだ。


でもそんなことしたら、「なんで俺はそんなに低いランクになったんだ!」って文句いう豪族も出てきそうですね。

―昔から天皇につかえてきた豪族ほど、文句をいいそうだよね。

 次の天皇の時代になると、後継者争いが「豪族同士の争い」に結びついてエスカレートしてしまい、「滋賀県の都に拠点を置く、前天皇の息子に従った豪族」 vs 「東日本中心の豪族」の争いになってしまった(注:壬申(じんしん)の乱)。

 結局、東日本の豪族らの支持を受けた勢力(注:前の天皇のである大海人皇子(おおあまのみこ))が勝利し、この後はグイグイ改革がすすめられていくことになる。


天皇のパワーがアップしていったわけですね。

―そう。天皇イコール「神」っていう「設定」が強まっていく。

 「どうして天皇が偉いのか?―それは太陽の神(注:アマテラスオオミカミ)の子孫だから」
 っていう設定だ。神話を読み解いていくと、おそらく先ほどの大きな内乱(注:壬申の乱)をおさめるために挿入されたとみられるエピソードも含まれていて面白い。


その後は?

―その頃、お隣の唐では貴族の「コネ」を排除しようとする改革がおこなわれていた。
 中国ではとても珍しい女性の皇帝がいったん「新しい王朝をひらく」っていう「設定」にして唐を滅ぼし、従来の貴族を排除し、科挙(かきょ)という難しい試験によって選ばれた官僚による国づくりをすすめようとしたんだ。


まあ、そのほうがいいですよね。皇帝に力を集めるなら。

―この女性皇帝(注:則天武后(そくてんぶこう))は、自分の顔に似せた「巨大な仏像」も建造させている。

 「仏教のもつ「ふしぎな力」によって、国の混乱をおさめようとした」(注:鎮護国家思想)んだよ。

 ちょうどその頃の日本列島では、内戦に勝って即位した天皇(注:天武天皇)の妻(注:持統(じとう)天皇)が、天皇に即位。
 中国の都を模倣した都(注:藤原京(ふじわらきょう))を奈良盆地の畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)に囲まれた平野につくり、仏教を保護して権威を演出した。

同時代に中国と倭(わ)で、女性のリーダーが生まれていたんですね!

―彼女のときに定められた国のきまり(注:飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)。またはその後の「大宝律令」)において、「日本」という国名が使われ始めているから、これからは「日本」の畿内エリアを本拠地にする政権のことを「日本」って呼ぶことにするね


「日本」っていう名前はこの時期からなんですね。

―この時期の中頃に唐に派遣された使節も、「日本」出身であると名乗っている。

 中国での発音はのちにヨーロッパに伝わって、ジャパンとかジャポンって呼ばれることになる。
 「もう今までの「倭」(わ)ではないんで」っていう意志を、対外的にアピールする意味合いがあったのだろう。
 これからは、「日の出づる処(ひのいずるところ)」(日の本(ひのもと))、つまり、太陽の神様(注:アマテラスオオミカミ)の子孫である天皇が、ちゃんとした国づくりをすすめていくんだっていう決意も感じられる。


「ちゃんと治める」って、どうやって治めていたんですか?

―天皇の支配の下、神様に対する儀式をおこなうリーダー(注:神祇官(じんぎかん))と、政治的な決定をおこなうリーダー(注:太政官)が置かれていた。
 太政官にはいくつか役職(注:左大臣、右大臣、大納言)があって、彼らが話し合うこと政治が動いた。


なんだ、ヤマト政権のときと同じ感じですね。

―うん。
 いままでは天皇を中心に、畿内の有力豪族出身者が話し合って、畿内の外の地方豪族たちを支配する体制だったよね。
 この時代は、その支配体制に「中国風の組織づくりの方法」が加わったと考えればいい。

 具体的な仕事は唐の制度をまねて「八省」(はっしょう)がもうけられ、軍隊(注:五衛府(ごえふ))も整備されていった。刑法も定められているよ(注:五刑(ごけい))。
 すべての役職にはランク(注:位階)がつけられていて、それに応じて特別な権利が与えられたんだ。

 とくに「五位」以上のランクの支配層のことを「貴族」というんだよ。たいていは昔から天皇とのかかわりの深かったヤマト政権の幹部クラスの一族で占められている。
 なお、中国と違って日本では科挙という試験は導入されず、「親の七光り」で自動的に昇進することもできたんだ(注:蔭位の制(おんいのせい)。


それにしても、いろいろと思い切った改革をしていますね。

―だよね。
 この時期の中頃は新たな国家建設に向けた勢いを反映し、唐の文化や仏教の影響を受けた若々しく力強い文化 (白鳳文化,はくほうぶんか)が栄えた。
 代表例は薬師寺東塔薬師寺金堂(こんどう)薬師三尊像興福寺仏頭(もとは飛鳥の山田寺の本尊でした)だ。

前の時代に比べると、仏像がふくよかだ。

 法隆寺金堂(こんどう)壁画には、インドのアジャンター石窟寺院の壁画(注:下図)の影響もみられる。


 奈良県でみつかった古墳(注:高松塚古墳の壁画)には、中国や朝鮮風の衣装を着た人々も描かれている。


どうしてそんな遠いところの文化が?

―当時の中国(注:唐)はユーラシア大陸の中央部にまで領土を広げていたからだよ。

 当時の西アジアで拡大していたアラブ人のエリア(注:イスラーム教のアッバース朝)とも、境を接するようになっていたくらいだ。


アラブ人は中国にもイスラーム教の寺院(モスク)を建設した(広州の懐聖寺こちらより))。同じ頃、日本にイスラーム教徒がやってきたという記録は残されていない。


地方はどうやって支配されていたんでしょうか?

―北海道を除く日本列島は畿内・七道(しちどう)の行政区画に分けられ,さらにその下には国(こく)・郡(ぐん)・里(り)が設置された。

 で、中央からは国司が派遣され、国府( 国衙(こくが) )を支配拠点とした。地方に派遣された国司は,「現地の有力者」(豪族)を郡司(ぐんじ(こおりのつかさ))という役職に任命した。
 さらに軍事の支配下の住民を50戸からなる里(さと)に編成し,里長(さとおさ)を責任者として支配をすすめようとした。


昔からの有力者の勢力が残されたわけですね。

―そう。
 彼らの協力がなければ、住民の「納得」も得られなかったからね。

 人々には田租・庸・調などの税や,雑徭(ぞうよう)・兵役(へいえき)などの労役が課された。
 動力が人と家畜に限られていた当時、「人力」は不可欠な動力のひとつだった。税というのは「物」で払うだけではなかったんだ
 なかには都の警備である衛士(えじ)や,九州北部の防備のため防人(さきもり)として徴用されることもあったよ。
 人口の多くは良民(その多くが農民)だったけど,数%は官有または私有の賤民(せんみん。五色の賤(ごしきのせん)に分けられる)として扱われている。

 また、天皇は全国の神社に対する支配も強め、豊作を祈るお祭り(注:祈年祭)や収穫を感謝するお祭り(注:相嘗祭(あいなめさい)、新嘗祭(にいなめさい))のときに、神への「ささげもの」(注:幣帛(へいはく))を配っている。

 土地を支給された農民が支払った「租」(そ。収穫物の一部)も、もともとはその年の最初の収穫を神にささげるためのものなんだよね(ちゅうい:初穂儀礼)。


国の支配に「神様」への信仰が関係していたんですね。

―先ほどの女性天皇(注:持統(じとう)天皇)は、各地に大きな神社やお寺も建設している。
 なお、大陸に対する国防・外交のため,九州北部には太宰府(だざいふ)を設置した。


 東日本から人々が動員されたけど、税を支払わせたり人を集めたりするには、やはり各地の有力者(注:郡司)の協力も必要だったんだ。まだまだ天皇の支配が、各地に同じように及んでいたわけじゃなかったわけだ。


だんだん広がっていくわけですか?

―女性天皇の次には、その孫が即位した(注:文武(もんむ)天皇)。
 でも今度はややこしいことに、そのおじいちゃん(注:かつての天武天皇)のお兄ちゃん(注:かつての天智天皇)の娘さん(注:元明天皇)が即位したんだ。

 彼女のときに都が、奈良の別の場所(注:平城京)に移されている。

 外国人が多く居住した都では,唐の制度をとりいれた国際色豊かな要素が色濃く、日本の国家としての自覚を反映した文化が栄えた(天平(てんぴょう)文化)。

 例えば、中央には大学・諸国に国学という貴族・豪族向けの教育機関が置かれ、儒教の経典の研究が進んだ。

 碁盤の目に区切られた左右対称の条坊制(じょうぼうせい)をとった平城京には、大安寺(だいあんじ)・薬師寺・元興寺(がんごうじ)・興福寺(こうふくじ)、さらに東大寺(とうだいじ)・西大寺(さいだいじ)などの仏教寺院が建設されていった。法相(ほっそう)宗、三論(さんろん)宗、倶舎(くしゃ)宗、成実(じょうじつ)宗、華厳(けごん)宗、律(りっ)宗の南都六宗(なんとろくしゅう)の研究も進められていく。


やはり中国からの影響が大きそうですね。

―やっぱり無視できないよね。
 20年に1度のペースで大規模な使節(注:遣唐使)が派遣された。皇帝の式典に参加することでご機嫌をとり、知識や技術を吸収するだけでなく、貿易のチャンスもうかがっていたんだ。


日本は中国の皇帝の「家来」だったんですか?

―ううん、あくまで日本のトップは天皇だ。
 当時の朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)や、高句麗(こうくり)の滅んだあと朝鮮半島の北方で勢力をのばした渤海(ぼっかい)といった国、それに南九州や種子島・屋久島などの「南の島」を支配していた隼人(はやと)という民族や東北地方の蝦夷(えみし)のことを、「支配するべき対象」と見なしていた。

 あからさまに言っちゃうと怒られちゃうからね。
 あくまで中国の皇帝の即位の式典なんかには出席するわけだけど。

 朝鮮半島の国々も日本を敵に回すと怖いとみて、渤海なんかは唐や新羅に対抗する意味もあって、日本に頻繁に使節を送っているね。


どんどん力をつけているように見えますが、政治はまとまっているんでしょうか?

―天皇のまわりの有力豪族たちのバランスがとれていた時期はよかったんだけど、この時期の後半になってくるとだんだんくずれてくるね。

 この時期の半ばまでは、蘇我氏という有力一族に天皇と結婚できるほどのパワーがあったんだけど、次第に藤原氏という一族が勢力を伸ばしていくことになる。


どんな手を使って?

―天皇に娘を嫁がせて、その息子を天皇にすることに成功したんだ。

 さっき出てきた女性の天皇。なんか変だと思わなかった? 


前の天皇の 「おじいちゃん(注:かつての天武天皇)のお兄ちゃん(注:かつての天智天皇)の娘さん」(注:元明天皇)が即位したってやつですか?
さすがにややこしすぎですよね。

―でしょ。
 次の天皇もまた女性が即位しているんだよ。
 そこまでしてわざわざ女性の天皇を即位させたのには理由がある。

 自分の娘を天皇と結婚させ、その息子を天皇にさせることをたくらむ藤原氏(注:藤原不比等)は、中継ぎの「リリーフ」として即位させ、時間をかせいだんだ。
 その間、中央でライバル(注:長屋王(ながやおう))を倒し藤原氏の勢力をのばしていった。


たくみですね。

―藤原氏はついに自分の娘(注:光明子(こうみょうし))を天皇と結婚させることに成功。

 その後、この時代の後半には天然痘(てんねんとう)という重い病気が大流行し、藤原氏の勢力にも多くの犠牲者が出た

 藤原氏からパワーを奪おうとした有力な一族(注:橘氏(たちばなし))は、唐の滞在経験の長いお坊さん(注:玄昉(げんぼう))と学者(注:吉備真備(きびのまきび))とともに、天皇(注:聖武(しょうむ)天皇)を補佐しようとしたんだけど、結局パワーは藤原氏に戻ってしまう


天皇はこのゴタゴタをなんとかできないんですか…

天皇の奥さんは藤原氏の娘だからね…。口出しできないわけだ。
 で、天皇は都を何度も移動させ、全国にお寺を建てるよう命令した(注:国分寺、国分尼寺)。


かなり動かしてますね。どうにもならなくなって仏教の力で国をなんとかしようとしたんでしょうか。

―これも中国の影響だよね(注:鎮護国家思想)。
 東大寺の奈良の大仏もこの天皇のときにつくられたんだよ。

東大寺の行事には、たくさんの火を焚く行事(注:お水取り)も見られる。これを西アジア発祥の「ゾロアスター教の影響」とみる研究者もいる

天皇は心から仏教を信じていたんでしょうか?

 天皇自身、退位せずに出家するなど、仏教に完全に帰依(きえ)していた。

 天皇の妻(注:光明皇后)も、お経を書き写すプロジェクトを東大寺を中心に展開させた(注:写経事業)。
 一般の人々の生活を救うことで信者を増やそうとするお坊さん(注:行基(ぎょうき))などの活躍もみられている。

 唐からお坊さん(注:鑑真(がんじん))がやって来て、「お坊さんになるための正式な資格を与える施設」(注:戒壇)を建てたのも、この時代のことだ。


目が見えなくなるまで何度も日本への渡航に挑戦したというお坊さんですね。
どうして、そんなに危険な航海だったんでしょうか?

―この時代の半ば以降、朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)との関係が悪化し,遣唐使のルートは朝鮮半島沿岸部を航行する北ルートから,東シナ海を横断し明州(現在の寧波(ニンポー))に到る危険な南ルートをとる必要が出たからだ。

遣唐使の南ルートは上図の青いライン(wikicommonsより) 

 一方、日本から唐への使節派遣は続き、この時代の後半には,ベトナムの役所の長官に出世した日本人まで現れた(注:阿倍仲麻呂)。

 ちなみに新羅との外交関係悪化後も,新羅からは民間の商人の来航は続いていた。
 朝鮮半島北部の渤海(ぼっかい)という国も、外交使節をこの時代の後半から交換するようになり、しだいに貿易が中心になっていった。
 現在の福岡県の太宰府(だざいふ)と京都の平安京には鴻臚館(こうろかん)という「レセプション施設」が、また越前に松原客院、能登に能登客院が置かれ、渤海からの使者の滞在・接遇に用いられていたんだよ。


中国や朝鮮半島の影響は引き続き続くんですね。
でも、アマテラスオオミカミ(太陽の神様)の子孫の天皇が、仏教に帰依するって、なんか変ですね。

―だんだん信仰が「ブレンド」されていってるよね。
 日本の文化っていうのは、中国の文化の「アレンジ」「ブレンド」が大きな特徴だ。
 漢字を使って、日本語で詩が作られ始めるのもこの時代だ(注:万葉仮名(まんようがな)による『万葉集』)。


天皇は日本の神様のことは大切にしていなかったんですか?

―もちろん天皇の祖先は、日本の神々ということになっている。
 「どのようにして日本の神々が、天皇家に地上の支配権を与え、畿内エリアの豪族が日本各地を支配するにいたったのか? 」という経緯が、神様を登場人物として文字に書かれたのもこの時代の中頃のことだ(注:『古事記』『日本書紀』)。


一般の人はそれを信じていたんですか?

―それを知りたければ『風土記』(ふどき)のほうがいいね。
 各地の神話や物語、地理や産物について国ごとにまとめられているよ。

 このように日本各地で信じられていたさまざまな信仰の上に、仏教の信仰が重なり合いはじめていく(注:神仏習合)のがこの頃のことなんだ。
 でも、仏教と国との関係が「癒着」していくと、当然マイナス面も出てくる。そういうのがイヤな人は山にこもって修行するようになっていく。

* * *

その後はどうなったんですか?

 で、この「仏教大好き天皇」が亡くなった後も、その妻(注:光明皇太后)が大権を握り続け、政治のゴタゴタは続いた。

 天皇の跡継ぎ争いに、有力な一族である橘氏(たちばなし)と藤原氏の争いが合わさっちゃったんだ。このころの藤原氏(注:藤原仲麻呂)は、唐のように儒教の制度を導入している。

 そんな中、天皇(注:孝謙天皇)は、仏様だけではなく神様への祈祷の儀式もおこなうことができるお坊さん(注:道鏡)を「後ろ盾」に、藤原氏の勢力を排除しようとしたんだ。


あ、このお坊さんは「悪いやつ」ですよね。

―たしかに、昔から「権力を握るために天皇をそそのかした」っていわれることが多かった人物だね。

 でも、彼が積極的にとりたてられたのは、「仏教によって国を運営していこう」と、当時の女性天皇(注:称徳天皇(※先ほどの孝謙天皇が名前を替えて再即位))が考えていたからだ。仏教政策はこのお坊さんに任せられ、西大寺百万塔が建てられた。
 しかし、その動きに反対する勢力もいた。


藤原氏ですね。

―そう。藤原氏は、あくまで唐の律令政治にならった国づくりをすすめたかったんだ。
 このお坊さんは天皇の死後に追放されるのだけれど、その裏には現在の大分県にった神社の陰謀があったんじゃないかっていう説もある(注:宇佐八幡宮神託事件)。


 この時期のゴタゴタは、新しい国づくりのためにどんな「思想」をメインの「設定」にするかをめぐる争いともいえるね。

藤原氏は律令政治のしくみを利用して、政治の実権をにぎりたかったわけですね。

―そういうこと。

 でも、その基盤となる地方支配が、この時期の後半になると揺らいでいったことが大きな問題となっていた。


どういうことですか?

―税の負担が重すぎて、国の支給した土地から逃げ出す農民が現れるようになっていたんだ。

 そうなると税の負担が減っちゃうから、政府は「土地の開墾」を奨励した(注:百万町歩開墾計画)。
 さらに「あらたに開墾した土地は、国のものではなく自分のものにできる」っていうルール(注:墾田永年私財法)が定められると、貴族は各地の国司(こくし)に開墾を申請するようになった


そうしたら「国の土地」が減っちゃいませんか?

―あらたに開墾した土地からも税(注:租)を徴収することはできたし、荒れ地のままにしておくよりは収入を確保できた。
 それに国司への申請も必要だったから、国にとってはかえって「不法開発」をコントロールしやすくなった面もあるんだよ。


そうなんですね。

―つまり、この時期に田畑を開発していた貴族は、「国の許可」を得てやっていたわけだ。

 貴族のほかに土地を集めたのは寺社だ。
 これは世界どこでも同じだね。

 当時「仏教の力で国をよくしよう」っていう考えが流行ったでしょ。
 その中心となった寺院はどこ?


さっき出てきた東大寺?

―正解。「奈良の大仏パワー」が期待されたんだ。
 この時期、奈良の東大寺は米どころの「北陸地方の大開発」をすすめ、私有することに成功している。

そんなことしたら、その地の国司や郡司と対立しませんか?

―ううん。
 このころの開発は、その地に中央から派遣されていた国司と協力する形でおこなわれていたんだ。私有地(注:荘園)といっても、当時は税を払う義務があったからね(注:輸租田)。
 一方、その地の有力者が任命されることの多かった郡司(ぐんじ)は、この頃になるとしだいに国司によって実権が奪われていくことになった。


 こうしてしだいに、ヤマト政権以来の伝統的な地方の有力一族の力が、ようやく「畿内の天皇中心の有力一族」によって削られていくようになったわけだ。

 さらに、政治を一新するために都も京都盆地にうつされた。


平安京ですね! ようやく出てきた!

―そう。正確には、いったん長岡というところにうつしたあと、京都にうつした。

 改革を担った天皇(注:桓武(かんむ)天皇)は「唐の皇帝」のように強い権力をもった「天皇」を目標とした。強気の背景には、唐が「大規模な内乱」(注:安史の乱)で衰退していたことが大きい。
 ちなみに彼の母親は朝鮮半島の百済(くだら)の出身の家系にあたるんだよ。


「強い天皇」ですか。地方の有力者の反発も起きそうですね。

―それを封じ込めるために、国司へのコントロールを厳しくし(注:勘解由使(かげゆし)というチェック機関を置いた)、従来の軍団を廃止して地方有力者や豊かな人の子弟らをメンバーとする騎馬軍団(注:健児制(こんでいせい))を新設した。
 同時に東北地方の蝦夷(えみし)と呼ばれる民族を征服し、「東北地方の北部」へと支配エリアを広げていった。

城柵(じょうさく)によって蝦夷の活動エリアを北の方にせばめていった(『詳説日本史図録』(山川出版社))


このころ、北海道の人たちはどんな生活をしていたんですか?

―この時代の始め頃の現在の北海道の人々は、「本州の縄文文化」の影響を受け擦文式土器を特徴とする擦文文化を生み出していた。
 サケやマスなどの漁労や、狩猟を行っていたようだ。主に本州との交易により、鉄器も獲得していた。住居はカマド付きの竪穴式住居だ。

 一方、北海道沿岸を含むオホーツク海沿岸には、漁業やアザラシの狩猟を中心とする文化を生み出した人々が生活しているよ。樺太のほうから移動してきた人々のようだ。

オホーツク文化の人々はクマを信仰していたようだ(東京大学コレクションXIII『北の異界—古代オホーツクと氷民文化』展(会期・2002年5月18日〜7月14日、於:東京大学総合研究博物館、主催:東京大学総合研究博物館、共催:東京大学大学院人文社会系研究科・北海道常呂町)の展示図録ウェブサイトより)こちらも参照。

 本州の影響を受けた擦文文化と、北方のオホーツク文化が混じり合って、この時代には両方の特徴をもつ文化も生まれているよ(注:下のような土器(トビニタイ文化))。住居も竪穴式から平地の住宅へ変わっていき、カマドではなくが生活に使われるようになっていく。
 これがのちのちのアイヌ文化のルーツになっていくんだ。


今回の3冊セレクト


この記事が参加している募集

推薦図書

買ってよかったもの

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊