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4.3.1 イスラーム勢力の進出とインド 世界史の教科書を最初から最後まで

北インドを統一したヴァルダナ朝が滅びると、インドは各地にさまざまな勢力が並び立つバラバラ状態に。



各地の政権はヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教などを保護し、大きな宗教的モニュメントを建てて人々をまとめ、農業生産を拡大させていった。

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そこへやって来たのが、イスラーム教徒だ。
彼らは10世紀末(今から1000年ほど前)になると、中央アジア方面から軍事的に進出。

特にアフガニスタンのガズナ(現ガズニ)

という都市を拠点としたトルコ人のガズナ朝(962〜1186年)と、ガズナ朝から独立してゴールという都市

を中心としたゴール朝(1148年頃〜1215年、おそらく支配層はイラン人)は、ひんぱんにインドへの侵攻を繰り返した。



当時バラバラに抗争していたヒンドゥー教徒の勢力は、一致団結して対抗することはできず。


インドのヒンドゥー教や仏教のお寺や大学は、この時期に壊されてしまったものも少なくない。

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徹底的にぶっ壊されたヴィクラマシーラ大学


ただ、彼らが現実的な支配において、インドの人々を強制的にイスラーム教に改宗させることはなかった。


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やがて13世紀初め(今から700年ほど前)には、ゴール朝にインド支配を任された武将が、そのまま独立してデリーで建国。
建国者のアイバクはなんと奴隷出身だ。

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これにちみ、この国を「奴隷王朝」(1206〜90年)と呼ぶよ。

奴隷王朝の後も、デリーを本拠地にしてイスラーム教徒の君主(スルタン)がインドを支配。
ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝→ロディー朝の順に、デリーの都を取り合った。
現在では、これらをあわせてデリー=スルタン朝(デリーのイスラーム政権)という。




特に南インドにまで領土を広げたのはハルジー朝。彼らの導入した、土地税をお金で納めさせる制度、のちのちの諸王朝によるインド支配へと引き継がれていった。

インドを旅していると、デリー=スルタン朝の建てた建造物は、あちらこちらに残されている。

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奴隷王朝のアイバクが建てた超高層ミナレット(当時は推定100m!)
クトゥブ・ミナール


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トゥグルク朝ゆかりのダウラターバードは霧に包まれると幻想的



ちょうど戦国時代のお城が、日本各地に残っているのに似ているね。


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デリー=スルタン朝の支配者は、アフガン系

のロディー朝を除き、トルコ系の民族だった。

しかし、古来イラン人の暮らすエリアでもあった中央アジア出身のトルコ人たちは、イラン系の言語(ペルシア語)を使用する人も少なくない。

そういうわけでインドに移動した中央アジアの支配者たちは、サンスクリット語で書かれたインドの文学をペルシア語に翻訳した。
また、ペルシア語の文学の要素がインドの文化に影響と与えたりと、中央アジアとインドの文化がブレンドされていったよ。

イスラーム教とヒンドゥー教の文化のブレンドも進み、両者の特徴を併せ持つ建築や絵画もつくられるようになる。

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イラン風の絵の描き方(細密画)はインドの絵画にも取り入れられ、
いかにもカレー屋さんに飾られていそうな、こんな絵画へと発展していく


最後に、イスラーム教がインドに与えた影響として見逃せないのが、バラモンを頂点とするインド古来の宗教(ヒンドゥー教)に対する刺激だ。

ヒンドゥー教では、バラモンを頂点とする身分の区別が厳しかったよね。そんな中、低い身分の人たちがカースト制による差別から抜け出そうと、自分から進んでイスラーム教徒になる例も現れたんだ。


しかも、イスラーム教を受け入れる”ベース”がまったくなかったわけじゃない。

インドには、神に対して自分を犠牲にするほどの愛を捧げようとする「バクティ」という信仰があった。

バクティというのは「神に対する絶対的服従」という意味。
それを示すため、ラブソングを歌うように「神への愛」を歌ったり踊ったりするのが、南インドを中心に流行ったのだ。


こうして「イスラーム教の唯一神(アッラー)に対する信仰」は、バクティ信仰のほかにも苦しい修行を通して神と合体することで“悟り”を得ようとするヨーガという信仰など、もともとあった信仰をベースにして、インドの人々にも受け入れられていったわけだ。

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