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14.5.2 ヨーロッパの戦争 世界史の教科書を最初から最後まで

ドイツ軍の侵入を受けたポーランドは、これを食い止めることができず、1939年9月半ばにはソ連軍の侵入も受け、結果的にドイツとソ連によって分割されてしまいました。


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その後の流れを見ていきましょう。


ソ連はフィンランドに侵攻

ソ連は1939年11月にはフィンランド共和国に宣戦、激戦の末、1940年には国境地帯にあった軍事基地を獲得するにとどまりました。

フィンランドはヴェルサイユ条約によってできたばかりの国。


ソ連はバルト3国を併合

1940年には、バルト海に面するエストニア、ラトヴィア、リトアニア(バルト3国)を併合。

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左が1939年の独ソ不可侵条約での秘密のとりきめ(リトアニアはドイツがとる約束でしたが、右の実際の支配エリアではソ連がバルト三国を総取りするかたちとなりました)


どれもヴェルサイユ条約によってできた国々でした。


ソ連はルーマニアからベッサラビア地方を割譲

ソ連は、ルーマニアを攻撃し、ウクライナ側にあるベッサラビア地方を割譲させました。
これは、かつてナポレオン戦争後にロシア帝国が失った領土でした。


ドイツは、ソ連と提携することで、は東部の安全を確保することができたわけですね。

しかし、開戦後しばらくの間、フランスとイギリスに対する「西部戦線」にはあまり変化が見られません(まやかし戦争)。


しかし1940年4月、ついに事態が動きます。


ドイツがデンマーク、ノルウェーに侵攻

1940年4月に、ドイツは北欧のデンマークとノルウェーに侵入します。

ドイツはかつてプロイセン王時代の1864年に、国境を接するデンマークとの間に戦争をしたことがありましたね。またもや戦争勃発です。


ドイツはオランダ、ベルギーに侵攻

1940年5月にはオランダ王国とベルギー王国に侵攻します。

第一次世界大戦に続き、ベルギーはまたもやドイツの侵入をうけることになりました。


第一次世界大戦のときに中立を宣言していたオランダも、今回はドイツの攻撃にさらされました。

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ドイツの空爆をうけたロッテルダム

ルクセンブルク大公国も占領されています(政府と大公は亡命)。


ドイツはフランスに侵攻

1940年6月には、ドイツはフランスのパリの占領に成功。


フランス全土を占領したほか、援軍のイギリス軍もフランス北西海岸のダンケルクに追い詰められます。
激戦の末、イギリス保守党のチャーチル首相(ヒトラーに甘い政策をとっていたネヴィル=チェンバレン首相に代わり、代打に難航する中、5月に戦時内閣の首相に任命されていました)は、6月に約40万のイギリス兵を撤退させる決断をしています。


フランスでは1870年代に発足した第三共和政が崩壊。

代わりに、ドイツに従った軍人のペタン(第一次世界大戦の英雄です)を指導者とする政府を、フランス中央部のヴィシーに成立させました。
これをヴィシー政権といいます。

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ヴィシー政権は色の濃い緑(フランスのおおよそ南半、コルシカ島とアルジェリア植民地)の部分を支配。北部はドイツ軍が占領しました。


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当時のフランス植民地は地図の濃い青の部分
世界のフランス植民地の中にはヴィシー政権に加わるところも現れます。西アフリカのアルジェリアやセネガル、西アジアのシリア(委任統治領)、マダガスカルと東南アジアのインドシナ(日本軍の進駐を受け入れます)、中国の上海租界(そかい)などは、ヴィシー政権派となりました。
一方、フランス領赤道アフリカ一帯(チャドなど)や、ポリネシア地域のタヒチなどの南太平洋の植民地、中国の広州湾(租借地。のちヴィシー仏軍と日本軍により倒される)は、ナチス=ドイツに反対する亡命政権である自由フランス支持を表明しました。



フランスの軍人がロンドンで亡命政権を建てる

ドイツの侵攻をうけ、軍人ド=ゴール(1890〜1970年)は降伏を拒否。49歳という史上最年少で少将に任命(国防次官と陸軍次官を兼任)されたド=ゴール は、政治統合も含めたイギリスとの強いレベルの提携に賭けてチャーチル首相と接触。


しかし、ドイツへの対応が政局に発展し、次官を更迭(こうてつ)された後、パリが陥落(6月15日)。

ド=ゴールはイギリスに導かれる形でロンドンに飛び、亡命政権を樹立します。

この亡命政権を「自由フランス政府」といいます。

亡命政権というのは、ある国の政府が他の国・勢力によって倒されて主権を奪われた場合、政府首脳が安全な国外に逃れ、「主権はわれわれにある」という立場をとり政府機能を存続させようとする政権のことです。


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自由フランス政府の旗

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指揮をとるド=ゴール。左に並ぶのは植民地兵です。

ド=ゴールはイギリスのBBCラジオを通して国内外の情報を流し、ドイツに対する抵抗をフランス国民に呼びかけました。



ドイツはイギリスを空爆する

とはいえ、ロンドンはドイツによる激しい空爆にあい、大きな爪痕を残しますが、本土上陸だけは避けることに成功しました。


ドイツは北アフリカに侵攻する

1941年2月には、すでにイタリア領になっていたリビアのイタリア軍を支援するため、ドイツはロンメル率いる軍を派遣。

リビアの西側のアルジェリアはヴィシー政権に従っていましたが、リビアのエジプト側からのイギリスのアレクサンダー(部下にモントゴメリーがいます)率いる連合軍の攻撃に対抗します。

1941年7月、10〜11月の“砂漠の戦い” エル=アラメインの戦いで、連合軍側が勝利。



さらに翌年1942年2月アメリカ合衆国(【→進む】14.5.4 太平洋戦争)のパットン将軍率いる攻撃もあり、最終的に結果は連合軍の勝利に終わります。

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ドイツとイタリアの北アフリカにおける敗戦は、第二次世界大戦の一つの転換点となりました。



ドイツはバルカン半島に侵攻する

1941年4月には、ドイツはバルカン半島に侵攻。

ユーゴスラヴィア王国ギリシア王国を占領しています。

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破壊されたベオグラード(現セルビアの首都)

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こうしてドイツとイタリア率いる「枢軸国」(すうじくこく)は、1941年春の時点で、ヨーロッパとその周辺部の広いエリアを占め、枢軸国派となった国外の元・フランス植民地も含めると、かなりの勢力に発展しました。



ドイツの支配を逃れるには、南フランスのマルセイユからアルジェリアのオランにわたり、モロッコのカサブランカ(ヴィシー政権支配下)経由でポルトガルのリスボンに飛び、そこからアメリカに逃れるといった限られたルートしか、残されない状況となっていきました。

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しかし、ドイツによるバルカン半島進出は、おなじくバルカン半島に進出する野望を持っていたソ連政府のスターリンを強烈に刺激。

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それが、この戦争を「世界大戦」に発展させる大きなターニング・ポイントとなっていくのです。













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