15.3.1 第三世界の連携と中東戦争 世界史の教科書を最初から最後まで
これまでさまざまな形で欧米・日本に従属していた国々は、戦後もアメリカまたはソ連の陣営に取り込まれる状況が続いていた。
しかし、スターリンの死去後の世界では「アメリカにもソ連にもつかないぞ」というふうに表明するアジア・アフリカの新興独立国の連携が強まったのだ。
彼らは、フランス革命のときの「第三身分」(=平民)を意識して、みずからを「第三世界」(第三勢力)と呼んだ。
第一・第二世界が米ソの世界であるとすると、これからの時代の主役は自分たち第三世界であるというわけだ。
現在では「第三世界」という呼び方は一般的ではなくなってしまったけれど、1950年代〜1980年代までの国際社会では頻繁に使われていた呼び方だ。
第三世界の存在感はアジア=アフリカ会議で高まった
「雪解け」ムードの高まる中、1954年4月26日にスイスのジュネーヴで、インドシナ戦争の和平交渉が始まった。
旧宗主国(きゅうそうしゅこく。もともと植民地の“親分”だった国)が主導して和平交渉を進める中、「それじゃあ第二次世界大戦前と全然変わっていないじゃないか」と、インド、スリランカ、インドネシア、パキスタン、ビルマが立ち上がる。
それに目をつけたのは、同じく新興国の「中華人民共和国」だ。
4月28日~5月2日に、1954年に中華人民共和国の〈周恩来〉(しゅうおんらい)首相が、インドの〈ネルー〉首相(任1947~64)に働きかける形でスリランカのコロンボで5か国首脳が会談。これをコロンボ会議という。
ここで発表された「平和五原則」は、なんだか当たり前の内容のように聞こえるけれど、ついこの間まで植民地だった国々が発する力強い声明は、当時としては物議を醸すシロモノだったんだよ。
要するに、19世紀以降、欧米がさんざんやってきた所業を、真っ向から批判したわけである。
「ここは、アメリカ合衆国の勢力圏でも、ソ連の勢力圏でもないぞ!」と。
アメリカ・ソ連のどちらの陣営にもつかなかった国を、そのどちらにも属しない、つまり第一でも第二でもないという意味で「第三世界」(サード=ワールド)と呼ぶようになったのは、このあたりからのこと。
5か国は、インドシナ戦争の早期停止や、仏領インドシナからのヴェトナム、カンボジア、ラオスの完全な独立を主張した。
5月には、3月から起きていたディエンビエンフーの戦いでフランス軍が大敗。
「アジアがヨーロッパに勝った」記念碑的な戦いだった。興奮冷めやらぬままジュネーヴ休戦協定が7月21日に締結されインドシナ戦争は停戦、フランスは仏領インドシナから撤退することになった。
ヴェトナム、カンボジア、ラオスの独立は認められたけれど、ヴェトナムは南北に分離することとなり、1956年7月に自由選挙が実施され統一されることが定められた
しかし、フランスの撤退を機に東南アジアに社会主義化が広まることを恐れた西側諸国は、1954年9月にアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイが東南アジア条約機構(SEATO、シアトー(英語ではシートー) 、1954~77解消)という反共産主義の軍事同盟が結成されることになった。
アメリカ合衆国による「囲い込み」だね。
当時のアメリカ合衆国の政府内では、一度社会主義の国が地域内にできたら、ドミノ倒しのように周辺に波及するという「ドミノ理論」が信じられていたんだ。
そんな状況の中、1955年にはアジア・アフリカの独立国が、インドネシアのジャカルタにほど近いバンドンという都市で、反植民地主義のために一致団結するためのアジア=アフリカ会議(バンドン会議) が開かれた。
中国の周恩来、インドのネルー、さらにエジプトのナセル大統領も参加している。
日本も含めて29か国の参加国で、平和五原則をベースとした平和十原則(世界平和と協力の促進に関する共同宣言)を宣言。
アジア、アフリカ諸国は「みんなでまとまれば怖くない」という形で、大国に対抗しようとしたわけだ。
なかでも当時のエジプトは血気盛んだ。
どういうことかは、ちょっと前にさかのぼろう。
エジプトはムハンマド=アリー朝の〈ファールーク1世〉(位1936~52)が支配していたが、その親英的な姿勢には、批判が集まるようになっていた。
そんな中、自由将校団という政治グループを結成した〈ナセル〉(1918~70)が、第一次中東戦争で活躍して人気となっていた〈ナギブ〉(1901~84)を自由将校団の団長に推し、〈ナセル〉とともに1953年に王政を倒すことに成功。
これをエジプト革命という。
〈ナギブ〉は初代首相・初代大統領を兼任するのだが、〈ナセル〉は〈ナギブ〉を“独裁”と批判してクーデタを起こし、首相、次いで大統領に就任。
権力を手にした〈ナセル〉は、ナイル川上流にアスワン=ハイ=ダムを建設する計画をすすめ、穀物の増産を進めようとした。
当時の世界では、先進工業国のように「巨大なダムを作って開発すること」は、「国を豊かにすること」の象徴だったのだ。
イギリスとフランスは、エジプトを支配下にとどめようと資金援助を画策するのだが〈ナセル〉はそれを拒否。代わりにソ連を頼って、英仏をビビらせる。
さらに1956年にはイギリスの駐留していたスエズ運河を国有化。
それに対して英仏がイスラエルも交えてエジプトを攻撃して始まったのが「第二次中東戦争」だ。
当初から反対していたアメリカは、イギリスに経済制裁を発動。ソ連も英仏・イスラエルを非難することに同調した。
苦境に立たされた3か国はエジプトと停戦。こうしてナセルはスエズ運河の国有化に成功した。
名声の高まったナセルは「アラブ人を一つにまとめよう!」と声をあげるのだが、なかなかそういうわけにはいかない。
「封じ込め政策」の一環としてアメリカ合衆国は1955年にバグダード条約機構(中東条約機構、METO(メトー))を結成している。
参加国は、西からトルコ、イラク、イラン、パキスタン。
中東にソ連の影響力がおよぶことを防ごうとしたものだった。
しかし1959年にイラクで革命が起き(イラク革命)、ソ連寄りの政策となると、イラク抜きの中央条約機構(CENTO(セントー) 、1959~1979イラン=イスラーム革命により解消) という枠組みへと縮小することになる。
ソ連寄りの政権は、イラク、シリア、エジプトで、アラブ人の国々は、こうして米ソ冷戦の構図に巻き込まれていったのだ。
イラン国王はアメリカ寄り
イランでは、アメリカの資本がからんでいる石油会社と癒着した国王〈パフラヴィー2世〉(位1941~79)が、父の退位後に即位し、独裁体制をとるようになっていた。
アラビア半島諸国がイギリスから独立
また、西アジアではイギリスの保護下にあった地域が70年代初めにかけ次々と独立。
1961年には世界第2位の油田を持つクウェートが、67年に南イエメンが、そして71年にカタール、バーレーン、そしてのちに構成国の一つドバイが有名となるアラブ首長国連邦が独立している。
いずれも19世紀のうちに、イギリスがその土地の首長との間に保護条約を結び、沿岸ルートを確保しようとしていたものだ。
これらを維持し続けるのは「イギリス病」をかかえるイギリスにはすでに重荷となっていたのだ。
こうして中東は、石油の利権を通してアメリカ側につくサウジアラビア、イラン。そして、どちらかというとソ連側につくエジプト、シリア、イラクに分裂していったのだ。
泥沼化するパレスチナ問題
さて、戦後の西アジアにおける大問題として、「イスラエルの問題」は外せない。
1948年にイギリスの委任統治領であったパレスチナでユダヤ人が「イスラエル」を建国し、パレスチナ人のアラブ人の多くが難民となっていた。
このときに、イスラエルと、パレスチナ人側に立つアラブ連盟(エジプト、シリア、レバノン、トランスヨルダン(1949〜ヨルダン=ハーシム王国)、イエメン、サウジアラビア)との間に勃発したのが第一次中東戦争だ。
イスラエルは第一次中東戦争に勝利すると、その後1956年にはエジプトがスエズ問題でイギリス・フランスと戦ったときにも、イギリス・フランス側に立った(第二次中東戦争)。
2回目の戦争では、アラブ人側(エジプト)優位のうちに終わったけれど、イスラエルは存続した。
こうしてパレスチナでは、まるで「ユダヤ教徒のユダヤ人とイスラーム教徒のアラブ人(パレスチナ人)が宗教をめぐって戦っているかのような状況」が生まれていく。
本来は「アラブ人」のキリスト教徒もいるんだけどね。
対立はやまず、1967年にエジプトはイスラエル軍に奇襲され、これに対するエジプト、シリア、ヨルダンが敗北した(第三次中東戦争)。このときのイスラエルの占領地は、シナイ半島、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原におよんだ(地図を参照 コトバンクより)。
その後もパレスチナ人の急進派は、武力によるパレスチナの解放とパレスチナ国家の建設を目指し、パレスチナ解放機構(PLO)を中心としたゲリラ作戦を展開していく(1964年に設立)。
その議長となったのは〈アラファト〉(任1969~2004) だ。
アラブ諸国の石油戦略
その後のことまでここで一気に触れておこう(【進む→】15.3.2 中東アジアの地域紛争も参照)。
当時のアラブ諸国は「先進国の発展の基盤となっている石油価格を利用することで、先進国が応援しているイスラエルを揺さぶることができるのではないか」と考えるようになった。1968年にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC、オアペック)が設立され、先述のとおり、1971年までにはイギリスがアラビア半島に持っていた保護国も独立した。
1970年にエジプトの大統領を継承した〈サダト〉大統領(在任1970〜1981年)は、1973年にシリアと一緒にイスラエルに反撃。
まもなく停戦となった。
これを第四次中東戦争という(【進む→】14.4.1国際経済体制のいきづまり)。
このときOAPECは、アラブ諸国側に立たない国家に対して石油輸出を制限する「石油戦略」を実施したため石油価格が高騰しました。これを第一次石油危機(オイル=ショック)という。
動画:国連総会(1974年)で演説するアラファト
動画:国連総会(1974年)で演説する佐藤栄作
しかしその後、エジプトのサダト大統領にアメリカ合衆国が接近。
「戦争による解決はやめよう」と判断したサダトは、1979年になると、なんと敵国イスラエルと単独で平和条約を結び、西アジアのアラブ人諸国を仰天させた(エジプト=イスラエル平和条約)。
強い反発が起きる中、1981年にサダトは暗殺。
その後を継いだのが、2011年のアラブの春で失脚することになるムバラク(在任1981〜2011年)大統領だ。
彼はイスラエルから、第三次中東先戦争で奪われていたシナイ半島を取り返すことに成功している。
その後、1993年にはパレスチナ暫定自治協定(いわゆる「オスロ協定」)がアメリカ合衆国〈クリントン〉大統領の仲介の下、ワシントンD.C.でパレスチナの〈アラファト〉とイスラエルの〈ラビン〉首相との間で締結された。
アメリカ合衆国の大統領は、資金力のあるユダヤ人の利益団体の声を聞かねばならないことから、しばしば「中東の安定と和平(ようするにイスラエルの安全保障)」に首を突っ込むクセがある。
クリントンが「仲介」することにより「パレスチナ自治政府」が成立し、エジプトのシナイ半島に近いガザ地区と、ヨルダン川西岸地区のイェリコ(世界最古級の都市遺跡のある都市)での先行自治が認められた。
「パレスチナ人の住む地区」が、イスラエルの直接支配を受けずに存続される道筋を立てようとしたのだ(イスラエルの〈ラビン〉と〈シモン=ペレス〉、パレスチナの〈アラファート〉は1994年にノーベル平和賞を受賞している。
パレスチナ自治政府は2012年に国際連合によって国家として承認されたが、日本やアメリカ合衆国は承認していない(だから日本で発行されている地図帳には「パレスチナ」という国名はない)。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊