14.2.3 西欧諸国の停滞 世界史の教科書を最初から最後まで
大戦後のイギリスとフランスは海外の領土を増やしたものの、国民と植民地の人々を総動員した戦争の痛手は深く、不景気に苦しんだ。
「このままヨーロッパの文明は、沈んでいく運命なんじゃないか」という悲観的な見方が広まる一方、
アメリカ合衆国で花開いた大衆文化の影響も広まりをみせるようになっていた。
第一次世界大戦後のイギリス
イギリスでは、1918年に4回目の選挙法改正がおこなわれ、21歳以上の男性と30歳以上の女性にも選挙権が拡大。
「総力戦」となった第一次世界大戦時で、女性も “国のため” に貢献したと考えられたことが背景にあるよ。
1928年の5回目の選挙法改正では、21歳以上の男女に選挙権が認められた。
また、政党にも大きな変化が起きていた。
これまでイギリスで第二党だった自由党に代わり、戦後になると労働党が保守党に次ぐ第二党のポジションを得るようになったのだ。
労働党のロゴ
1924年には労働党の党首マクドナルド(1866〜1937、在任1924〜1924)が自由党と連立することで内閣を組織。
この政権は短命に終わったけれど、1929年の選挙で労働党ははじめて第一党となり、マクドナルド(在任1929〜31年)は再び政権についた。世界恐慌のはじまる少し前のことだった。
なお、アイルランドは、1920年のアイルランド統治法に基づき、1922年に北部のアルスター地方をのぞきアイルランド自由国として自治領(じちりょう)となることが認められた。
この方針転換には、世界大戦中に大きな蜂起が起きていたことも影響している。北部のアルスター地方(北アイルランド。イングランド系やスコットランド系のプロテスタントが多かった)は「アイルランド自由国」からの離脱を表明したため、内戦が勃発。
結局、北アイルランドは「アイルランド自由国」から切り離された。
このことは、のちに大きな問題をもたらすことになるよ。
なお、戦後のイギリスの政権は、世界中に拡大した「イギリス帝国」の再編にも取り掛かっている。
オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、アイルランド、ニューファンドランド、カナダはイギリス系を多数派とする「白人のエリア」であり、「植民地」(コロニー)とは別枠のエリアとして「自治領」(ドミニオン)と呼ばれるようになっていた。自治領はイギリスとの連絡・調整会議である「イギリス帝国会議」に出席することができ、イギリスはなんとか「自治領」をイギリス帝国内に繋ぎ止めようと必死になった。
しかし、転機は第一次世界大戦。
協商国(連合国)側で従軍し多大な犠牲を払った自治領は、「これだけがんばったのに、いつまでもイギリスよりも “格下” というのは我慢できない」という主張が強くなっていったのだ。
かつてアメリカの13植民地の反抗を受け「アメリカ合衆国の独立」という形で北アメリカの植民地を手放すという“苦い過去”を持つイギリス。
同じ轍(てつ)を踏まぬよう、慎重に交渉を重ねた結果、1926年のイギリス帝国会議では「自治領」(ドミニオン)がイギリス本国と対等の形で「イギリス連邦」を形成するという方針が打ち出された。
さらに1930年のイギリス帝国会議では、植民地などの代表が一堂に会するイギリス帝国会議での決議により、1931年にウェストミンスター憲章が成立する。
これにより各自治領はイギリス連邦の一メンバーとして、王冠への忠誠の下に本国と対等のポジションを得て、独自の内政・外交・軍事権を持つことができるようになった。
「王冠への忠誠」っていうとちょっとわかりにくいけど、要するにイギリスの国王との「同君連合」だ。
イギリス国王の下、イギリスの首相もオーストラリアの総督もニュージーランドの総督も “同格” の存在となった。
「総督」といっても、実際にはイギリスの国王の “代わり”に現地におもむく名誉職で、しだいに現地人が指名されるようになっていくよ。
第一次世界大戦を経て、イギリス帝国の覇権がワンランク低下したと見ることができるね。
実際に、自治領として対等の存在となっていたアイルランド自由国の独立派は1937年に王冠への忠誠宣言を廃止。
独自の憲法を定め、アイルランドの伝統的な国名である「エール」(アイルランドは英語だからね)を国名に掲げ、事実上イギリス連邦を離脱することになる。
第一次世界大戦後のフランス
国土が戦場になったフランスは、戦後もドイツが強国になるのを警戒。
そのためフランスは、ドイツに課されたヴェルサイユ条約の義務、とくに賠償の支払いを厳しく要求。
ポワンカレ内閣(1860〜1934年、在任1922〜24年)
のときには、支払いがを果たさないことを理由に、ベルギーとともに、ドイツの工業地帯であるルール地方を占領。
しかし、ドイツに対し強硬姿勢をみせる外交は、国際的にも批判をあびて失敗し、1924年には代わって急進社会党のエリオ(在任1924〜25、26、32)による左派連合政権が登場した。
エリオ首相
なお、その後1925年に首相となった共和主義社会党(社会主義の政党)のブリアン(在任1925〜26、29)は、ドイツとの和解につとめロカルノ条約締結にこぎつけるなど、国際協調に貢献している。
社会主義的なブリアン政権の直後には、また急進社会党(社会主義とは距離をとる)ブルム政権、そのまた直後には保守的なポワンカレがまた首相に返り咲くなど、当時のフランスは短命な政権が相次ぐ、落ち着かない状況だったんだよ。
第一次世界大戦後のドイツ
敗戦したドイツでは、戦争直後からドイツ共産党など革命を推進するグループと、「過激な革命ではなく改革によって穏健に社会を変えていこう」とする社会民主党が対立。
社会民主党は軍部など保守的なグループと結んで、1919年初めにローザ=ルクセンブルクや
カール=リープクネヒト
ら率いるドイツ共産党の革命勢力をおさえこむことに成功。
ヴァイマル
でひらかれた国民議会では、社会民主党のエーベルト(1871〜1925年(在任1919〜25年))が大統領に選ばれ、
民主的な憲法が制定されることとなった。
地名にちなみヴァイマル憲法といい、この憲法によって規定された共和国(ドイツ国(1919〜33年))をヴァイマル共和国ともいうよ。英語読みすれば「ワイマール」だ。
しかし、賠償の支払いや、ドイツ帝国を復活させようとするグループ、それに右翼による共和国をぶっこわそうとする活動によって、政治も経済も安定しなかった。
とくに1923年に「賠償金の支払いがとどこおってるぞ!」としてフランスがルール地方を占領すると、不服従運動(あえて工場の生産能力を落とす作戦)によって抵抗されたため、ドイツの生産高は激減。
“副作用”としてとんでもないくらい激しい物価の上昇がすすみ、大きな問題となった。
子どもたちがお札を積んでいる有名な写真は、この時に撮られたものだよ。
この問題に対処すべく、1923年夏に首相となったシュトレーゼマン(1878〜1929年(在任1923〜1923年))が動く。
ハイパーインフレの原因は「中央銀行の発行するお金に対する信用の低下が止まらなくなったこと」。しかしもはややすすべのない中央銀行に代わり、銀行家が中心となり、緊急的に「信用回復の見込める 新たな“お金”」を発行したわけだ。
その名もレンテンマルク。
1923年より、中央銀行の発行していた「1兆マルク」は「1レンテンマルク」で交換されることになった。
補助的なお金ではあるものの、その信用の裏付けが土地に由来するとの “設定” により、国民の安心感は一気に高まった。
加えて、インフレの一員となっていた工業地帯のルールでの「不服従運動」をやめさせることで、ハイパー=インフレーションを克服。
なんとか危機を乗り越えたのだ。
その後のドイツはアメリカ合衆国のサポートで賠償の支払いを緩めてもらい、アメリカ合衆国の資本が導入されていくこととなる。
こうして経済をたてなおしたシュトレーゼマンは1929年まで外務大臣をつとめ、1926年にはドイツの国際連盟への加入にもこぎつけた。
世界の国々との協調を大切にしつつ、国際的なポジションのアップをはかったのだ。
なお、1925年にエーベルトが亡くなると、代わって第一次世界大戦後期の陸軍参謀総長だったヒンデンブルクがドイツの大統領(在任1925〜34年)に選ばれている。
のちにあのヒトラーを首相に任命することになる人物だ。
第一次世界大戦後のイタリア
イタリアは協商国として戦争に勝ったものの、領土を拡大できず、講和条約にも不満をもった。
一方、国民は戦後の急激な物価アップで暮らしが直撃され、「政府はなにもしてくれない」と不信感が高まっていた。
そんな中、1920年、社会党の左派グループ(のちのイタリア共産党)が指導し、北イタリアの工業地帯を中心に、労働者たちが立ち上がる。
労働者たちは「社会を改革しよう!」と、自分たちの働く工場を占領。また、貧しい農民も各地で土地を占領し、地主に対立したのだ。
しかし、これらの運動が失敗に終わると、しだいに「こんな混乱がふたたびおこっては困る」と、地主、資本家は軍部とも結びつき、「革命が起こらないように、国をまとめる必要がある」と考えるようになっていく。
そんなムードの中登場するのがムッソリーニ(1883〜1945年)という男。
彼は1919年にファシスト党を結成し、勢力を拡大。
ファシストというのは、古代ローマにおいて権威の象徴とされた「ファスケス」に由来する言葉。
“かつてローマが輝いていた時代”を思い起こさせる「伝統」を、うまく用いたイメージ戦略だ。
ファシスト党は、目下の危機の原因が、「共産党など、革命によって支配層を倒そうとする「左翼」(さよく)勢力や、多数決と話し合いによって世の中を改革していこうとする「議会制民主主義」にあると考えた。
“敵”とみなした勢力に対しては、街頭で大人数を動員し、を暴力をちらつかせるようになっていったんだ。
このような「全体主義」は、ふつうに考えればとっても窮屈で不自由で危険なもののはず。
しかし人々は、「政治や経済が不安定なままよりは、強い指導者がいたほうがましだ」と、不自由であることに「安心」を求めるようになっていたのだ。
1922年、満を持したムッソリーニはファシスト党を動員して、ローマへの進軍を開始。
「黒シャツ隊」は政府に圧力をかけ、ムッソリーニは国王の支持によって首相(在任1922〜43年)に任命された。
さらにムッソリーニは、ファシズム大評議会に権力を集め、一党独裁体制を確立。
危機を乗り切るには、話し合いよりも有能なリーダーの強いリーダーシップが必要だというわけだ。
対外的には1926年にアルバニアを保護国化し、
また1929年にラテラノ(ラテラン)条約を結んでイタリアと国交断絶状態にあったローマ教皇庁と和解、教皇庁(ヴァチカン市国)の独立をみとめた。
さらにムッソリーニは、生活を改善させるための社会事業や国内開発を推進。都市に住む無数の人々は、ムッソリーニに「理想の政治家」の“夢”を重ねた。
その一方、市民として自由に活動する自由は軽視され、反対派は容赦なく弾圧。
個人の思いよりも、国全体にとっての利益が重んじられる体制が築かれていくこととなる。
第一次世界大戦後のイタリアに現れた、従来のイギリスやフランス、アメリカ合衆国が築き上げてきた「自由」の価値観を否定し、暴力的に大衆(たいしゅう)を動員する、このまったく新しい形態の政治体制、思想、運動を、ファシズムと呼ぶ。
この後ファシズムは、社会の激変に「違和感」や「不安」を抱える各国の人々の心の中に、さまざまな影響を与えていくことになるよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊