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2.1.6 クシャーナ朝と大乗仏教 世界の教科書を最初から最後まで

1-1-1. オリエント
1-1-2. シュメール
1-1-3. メソポタミアの統一と周辺地域の動向
1-1-4. エジプトの統一国家
1-1-5. 東地中海の諸民族①フェニキア人・アラム人
1-1-6. 東地中海の諸民族②ヘブライ人
1-1-7. 古代オリエントの統一
1-1-8. パルティアとササン朝の興亡

1-2-1. 地中海世界の風土と人々
1-2-2. エーゲ文明
1-2-3. ポリスの形成と発展
1-2-4. 市民と奴隷
1-2-5. スパルタ
1-2-6. 民主政への歩み
1-2-7. ペルシア戦争とアテネ民主政
1-2-8. ポリスの変容
1-2-9. ヘレニズム時代
1-2-10. ギリシアの生活と文化

1-3-1. ローマ共和政
1-3-2. 地中海征服とその影響
1-3-3. 内乱の一世紀
1-3-4. ローマ帝国
1-3-5. 3世紀の危機
1-3-6. 西ローマ帝国の滅亡
1-3-7. キリスト教の成立
1-3-8. 迫害から国教化へ

2-1-1. インドの風土と人々
2-1-2. インド文明の形成
2-1-3. アーリヤ人の進入とガンジス川流域への移動
2-1-4. 都市国家の成長と新しい宗教の展開
2-1-5. 統一国家の成立
2-1-6. クシャーナ朝と大乗仏教


ガンジス川流域に都を置くマウリヤ朝のマガダ国が衰退すると、インドはふたたびバラバラに。

前2世紀(今から2100年ほど前)になると、西北方面―現在のアフガニスタンを支配していたにギリシア人たちがインドに進出。
後1世紀(今から2000年ほど前)になると、イラン系のクシャーン人がインダス川に移住してきた。

彼らが建国したのがクシャーナ朝だ。
都は現在のパキスタン(アフガニスタン寄り)のペシャワルにあった。当時の呼び名はプルシャプラだ。

2世紀半ば(今から1850年ほど前)に即位したカニシカ王(在位130頃~170頃)のときが最盛期で、中央アジアからガンジス川の中流域にかけての広範囲を支配した。
つまり、インドの王朝というよりは、アフガニスタンからパキスタン~北インドにかけてを支配したといったほうが正確だ。

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クシャーナ朝は、バクトリア地方ガンダーラ地方カシミール地方など、ユーラシア大陸横断ルートの拠点を支配下に入れていたことから、イランや中国などの外国商人が行き交い、その富を吸い上げることで繁栄する。



遠くローマ帝国からもさまざまな商品が流れ込んだことは、発掘される大量の金からつくられた金貨によっても明らかだ。

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クシャーナ朝の金貨にはインドの神々だけでなく、イランやギリシアの神々や文字が刻まれている。国際色豊かな国だったんだね。

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そんな中、クシャーナ朝の時代には仏教界にも大きな変化が起こった。
それまでの仏教といえば、個人が出家(しゅっけ)して修行を積み、個人的に悟り(迷いのない状態)を目指すことが主流だった。



でも、クシャーナ朝の時代になると南インドを中心に、出家した本人だけでなく、周りにいる人たちにも「悟り」をおすそわけしてあげることが、仏教の本当の教えであるというグループが力を持つようになった。

そういう仏教のことを大乗仏教(だいじょうぶっきょう)という。
現代の日本のお坊さんも、自分だけでなくて檀家(だんか)さんに対しても教え導こうとしているでしょ。日本の仏教は、この大乗仏教に分類されるからだ。

ちなみに「大乗」というのは、この考えを主張したお坊さんたちによる自称。対する従来型の仏教のことは「小乗」といってディスったよ。小乗仏教というのは”悪口”だから、今では従来型の仏教のことは「部派仏教」とか、そのうちの一つを「上座(部)仏教」などと呼ぶのが普通だ。


大乗仏教の教えを組み上げたお坊さんとして重要なのは、ナーガールジュナ(生没年不詳)さんだ。中国人は龍樹という漢字をあてて呼んでいる。
彼はブッダの教えのポイントは「空」(くう)であると唱え、のちの仏教思想に大きな影響を与えたよ。

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大乗仏教のほうは、アフガニスタンから中央アジアのシルクロードを通って1世紀前後(今から2000年ほど前)に北から中国に伝わった。さらに4世紀頃に朝鮮半島に伝わり、6世紀頃に日本に伝来した。



一方、上座(部)仏教のほうは、アーリヤ系のシンハラ人の王国が建国されていたスリランカが一大中心地となった。世界遺産の仏歯寺など、現在でも仏教の聖地として信仰を集める場所が多いよ。

そこからのちに11世紀ころにビルマへ、13~14世紀頃にタイやカンボジアに伝わる。
日本人が東南アジアのお坊さんを見ると「なんか違うな」と感じるのは、仏教の系統が違うからなんだね。



さて、クシャーナ朝は3世紀(今から1800年ほど前)になると、西方で建国されたイランのササン朝の侵略をうけ、領土を失った。
さらに東部のガンジス川流域の勢力にも領土を奪われ、最後は滅んでしまった。



その頃デカン高原から西北インドにかけて支配していたのはサータヴァーハナ朝という王国。



インド洋を船で行き来する季節風貿易によって、ローマ帝国の文物がたくさん運び込まれて栄えた。ローマ帝国の皇帝の顔が鋳造された金貨も、多数出土しているよ。

ジャイナ教と仏教を保護しただけでなく、北インドからバラモンたちも多く招かれたので、これまで交流の少なかった南北のインド文化が交わるきっかけにもなったんだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊