モンゴル帝国ができると、ユーラシア大陸の交通ルートの物流は飛躍的に増加。
物だけでなく、人や情報がさかんに行き交った。
モンゴルの存在は、当時イスラーム教徒に対する十字軍を起こしていた西ヨーロッパにも知れ渡り、ローマ教皇やフランス国王は「いっしょにイスラーム教をやっつけるパートナーになれるんじゃないか」と考えた。
ローマ教皇によってプラノ=カルピニ(1182頃〜1252年)が、フランス国王ルイ9世によってルブルック(1254〜1293年頃)が派遣された。
彼らの旅行記は、きわめて詳細に当時のモンゴルの状況を伝える超一級の史料。必読だ。
また、ヴェネツィアの商人のマルコ=ポーロ(1254〜1324年)にいたっては、大都を訪れて元の大ハーン兼 皇帝 のフビライ=ハーンに直接つかえたのだといい、そこでの体験は『世界の記述』にまとめられている。日本では『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)という名前で知られているね。
大きなインパクトをもたらしたのは「中国の向こうには “黄金の国” ジパングがある」という記述。
アジアには「楽園」があるという『聖書』の知識はあったし、イスラーム教徒たちの地図を通してはるか東の果てになんらかの国があるという情報があるものの、そんなに豊かな国が実際にあるなんて初耳。
アジアに比べはるかに“貧しい”ヨーロッパの人々は、彼らの旅行記をむさぼるように読み、胸を躍らせたのだ。
その後、モンゴル人はイスラーム教のカリフが支配するアッバース朝を1258年に占領、1291年には十字軍の最後の拠点のひとつアッコンが陥落し、「十字軍」の熱はひとまず終わりを告げることになる。
イスラーム教徒の地域を支配したモンゴル人にも、変化がおとずれた。
イランからイラクにかけてのイル=ハン国や、南ロシアのキプチャク=ハン国でも、君主がイスラーム教に改宗したのだ。
ただ、「ただひとつの宗教」のみ許可するような制度ではなく、初期のイル=ハン国はネストリウス派キリスト教(異端とされたキリスト教のグループ)が保護されていた。
その縁もあって、ヨーロッパのキリスト教の諸国やローマ教皇は、イル=ハン国に使節を派遣し、外交関係を樹立。
その流れから、13世紀末にはローマ教皇がモンテ=コルヴィノ(1247〜1328年)を元に派遣し、大都を新しいキリスト教の「司教区」の中心に設定。みずから大司教となって、中国で初めてローマ=カトリック教会のキリスト教が布教されることになったよ(すでに唐の時代にネストリウス派のキリスト教が伝わり、大流行していたことには注意しよう)。
元でも、高級官僚には中央アジア・西アジア出身のイスラーム教徒(「色目人」(しきもく)と呼ばれた)が多く、その影響を大きく受けた。
広いエリアのさまざまな民族と関わる必要性から、漢語(漢人の言葉、中国語)、チベット語、トルコ語、ペルシア語、ロシア語、ラテン語など「多言語」が、公文書や様々な場面でもちいられた。
ただ、元の皇帝はモンゴル語にも誇りとこだわりは持ち、モンゴル語を表記するために、パスパ文字という特別な文字が開発されたよ。
この文字はフビライが師とあおいでいた、チベット仏教のトップ パスパ(1235/39〜1280年)様がつくったとされるけれど、次第に使われなくなり、モンゴル語はウイグル人のつくったウイグル文字で表記されるのが普通になっていく。