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6.3.3 モンゴル時代の東西交流 世界史の教科書を最初から最後まで

モンゴル帝国ができると、ユーラシア大陸の交通ルートの物流は飛躍的に増加。
物だけでなく、人や情報がさかんに行き交った。


モンゴルの存在は、当時イスラーム教徒に対する十字軍を起こしていた西ヨーロッパにも知れ渡り、ローマ教皇やフランス国王は「いっしょにイスラーム教をやっつけるパートナーになれるんじゃないか」と考えた。


ローマ教皇によってプラノ=カルピニ(1182頃〜1252年)が、フランス国王ルイ9世によってルブルック(1254〜1293年頃)が派遣された。

彼らの旅行記は、きわめて詳細に当時のモンゴルの状況を伝える超一級の史料。必読だ。



また、ヴェネツィアの商人のマルコ=ポーロ(1254〜1324年)にいたっては、大都を訪れて元の大ハーン兼 皇帝 のフビライ=ハーンに直接つかえたのだといい、そこでの体験は『世界の記述』にまとめられている。日本では『東方見聞録』(とうほうけんぶんろく)という名前で知られているね

大都

a また、このカンバルクの町には、世界中のどの町にも増して貴重で高価で珍しい品物が到来する。しかも、そのすべての品物について厖大な量が運び込まれるのである。というのも、さまざまな人々がさまざまな地方から、大カーンと、その宮廷と、この広大な町と、そこに暮らす臣下たちや騎兵たちと、およびその周辺に駐屯する大カーンの軍隊のために品物を運んで来るからだ。宮廷にも首都にも、あちらにもこちらにも、実に大量の品物が際限もなく運ばれてくる。絹だけに限ってみても、毎日少なくとも1,000台の荷車がこの町に入って来て、その絹から大量の金糸の絹織物などが生産される。

b カンバルク(大都)の町はその内外に、ほとんど信じることができないほど多数の家屋と人口を擁している。城外にも城門と同じ数だけとても大きな街区が広がり、その数は12で、この城外の街区には城内より多くの人間が居住し、宿泊している。それはたとえば商人たちや旅行中の外国人であるが、その数は多く、彼らはあらゆる地方から大カーン(フビライ)に献上するため、ないし宮廷に売るために品物を運んで来たのである。城内には君主や臣下たちの壮麗な屋敷が多数存在しているが、それらを別格とすれば、城外にも城内と同じほど立派な家屋が立ち並んでいる。

(a マルコ・ポーロ『東方見聞録』、『世界史史料4』岩波書店。b 月村・久保田訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録』)


サルコン(泉州)

このサルコンの港には、インドからやって来る船がかならず立ち寄り、香料類や各種の貴重な商品をもたらすので、マンジ地方のあらゆる商人も買付にやって来る。莫大な量の商品や宝石類、それに真珠などが集められた有様(ありさま)は壮観で、それらが今後はこの港からマンジ地方に送り出される。キリスト教国のために胡椒を積んだ船がアレクサンドリアの港にようやく1艘やって来るとしたら、このサルコンの港には100艘以上の船がやって来るといっても過言ではない。したがって、大カーンがこの港から得る税収も莫大である。

月村・久保田訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録』


キンセー(杭州)

キンセーの町には160の大きな道路が走る。それぞれの道路には1万の家が建ち並び、家屋数は都合あわせて160万に上る。その中には美しく大きな邸宅がまじり、さらにはネストリウス派のキリスト教会も1つある。…キンセーとその周辺はマンジ(南宋の旧領)でも最大の王国であり、したがってこの町から得られる税収(特に塩と砂糖にかけられる税)が最大のものである。

月村・久保田訳『全訳マルコ・ポーロ東方見聞録




大きなインパクトをもたらしたのは「中国の向こうには “黄金の国” ジパングがある」という記述。




アジアには「楽園」があるという『聖書』の知識はあったし、イスラーム教徒たちの地図を通してはるか東の果てになんらかの国があるという情報があるものの、そんなに豊かな国が実際にあるなんて初耳。

アジアに比べはるかに“貧しい”ヨーロッパの人々は、彼らの旅行記をむさぼるように読み、胸を躍らせたのだ。

史料 マルコ・ポーロの見たインド洋のダウ船(13世紀後半。ホルムズ港にて)
「かれらの船は実に惨めなものであり、その多くは失われる。何故ならば、船に鉄の留め具を使わずに、インド・ナッツの外被でつくった縒り糸で縫い合わせただけのものだからである。かれらは、ナッツの外被をまるで馬の毛のようになるまで叩き、それで縒り糸を紡ぎ、船の側板を縫い合わせる。それはよく出来ていて、海水にも腐蝕することがないが、嵐に十分耐えられるものではない。船板〕は、ピッチを塗らずに魚油を擦り込んだものである。一本マスト、一枚帆、一枚舵で、甲板はなく、ただ積み荷を乗せた上に覆いを広げるだけである。この覆いは、獣皮であって、その上にインド向けに売られる馬を置くのである。かれらには鉄釘をつくる鉄がないので、造船には木製の釘だけを使い、したがって、今述べたように、縒り糸で船板を縫い合わせるのである。これゆえに、こうした船で旅をするのは危険極まりないことであって、船の多くが失われる。そのインドの倦みでは、激しい嵐になることが多いからである。

家島彦一「ダウ船とインド洋海域世界」『シリーズ世界史への問い2 生活の技術 生産の技術』岩波書店、1990年、109頁



その後、モンゴル人はイスラーム教のカリフが支配するアッバース朝を1258年に占領、1291年には十字軍の最後の拠点のひとつアッコンが陥落し、「十字軍」の熱はひとまず終わりを告げることになる。

イスラーム教徒の地域を支配したモンゴル人にも、変化がおとずれた。
イランからイラクにかけてのイル=ハン国や、南ロシアのキプチャク=ハン国でも、君主がイスラーム教に改宗したのだ。

ただ、「ただひとつの宗教」のみ許可するような制度ではなく、初期のイル=ハン国はネストリウス派キリスト教(異端とされたキリスト教のグループ)が保護されていた。
その縁もあって、ヨーロッパのキリスト教の諸国やローマ教皇は、イル=ハン国に使節を派遣し、外交関係を樹立。



その流れから、13世紀末にはローマ教皇がモンテ=コルヴィノ(1247〜1328年)を元に派遣し、大都を新しいキリスト教の「司教区」の中心に設定。みずから大司教となって、中国で初めてローマ=カトリック教会のキリスト教が布教されることになったよ(すでに唐の時代にネストリウス派のキリスト教が伝わり、大流行していたことには注意しよう)。


元でも、高級官僚には中央アジア・西アジア出身のイスラーム教徒(「色目人」(しきもく)と呼ばれた)が多く、その影響を大きく受けた。

広いエリアのさまざまな民族と関わる必要性から、漢語(漢人の言葉、中国語)、チベット語、トルコ語、ペルシア語、ロシア語、ラテン語など「多言語」が、公文書や様々な場面でもちいられた。


ただ、元の皇帝はモンゴル語にも誇りとこだわりは持ち、モンゴル語を表記するために、パスパ文字という特別な文字が開発されたよ。

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この文字はフビライが師とあおいでいた、チベット仏教のトップ パスパ(1235/39〜1280年)様がつくったとされるけれど、次第に使われなくなり、モンゴル語はウイグル人のつくったウイグル文字で表記されるのが普通になっていく。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊