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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第16話 海上交易の活発化と日本の統一(1500年~1650年)

海を中心に交流が活発化し世界が一体化していく時代

Q. 西ヨーロッパ諸国の進出を受けた地域は、どのような影響を受けたのだろうか?

Photo by Tj Holowaychuk on Unsplash

前の時代の終わりごろ、ついにヨーロッパの人たちがアメリカ大陸にたどり着いていますね。

―そうだね、とても大きな変化だよね。何千年もユーラシア大陸とは「別行動」していたアメリカ大陸の人たちにとっては「寝耳に水」の話だったわけだ。
 アメリカ大陸に金銀財宝が無限にあるんじゃないかと期待したヨーロッパ諸国は、こぞってアメリカ大陸に進出した。このときに中央アメリカや南アメリカの国が滅ぼされている。


 海上に乗り出した「一番乗り」はスペインとポルトガルだったけど、それをオランダ、フランス、イギリスが追いかけていくよ。


どうしてそんなに外に出ようとするんですかね?

―気候の極端な冷え込みを背景として、ヨーロッパでは戦争が相次いでいた。気候の変動は地域や時期にとってもズレがあるけど、この時期の地球はのきなみ小さな氷期」っていわれるほどの寒冷化が起こっていたんだよ。

人間の活動って気候に大きく影響されるんですね。

―平均気温が1度下がるだけで、農業できた場所でも畑がまったく壊滅してしまうということもあるんだよ。

西ヨーロッパの人たちが進出したのはアメリカだけですか?

―アフリカやアジアにも進出を進めている。
 「進出」っていっても、もともと地元の人たちの間で盛んだった貿易の「おこぼれ」をもらいに行った感じだ。船に大砲を積んで脅かし、港に要塞(ようさい)をつくって貿易に無理やり参加しようとしたんだ。

なんだか、この時代ってもっと気候が温暖で、それだからヨーロッパの人たちは世界に拡大したんだとばかり思ってました。

―そういうイメージがあるよね。でも実際には「必死」だったわけだよね。

 当時のアジアの支配者も、新兵器である銃や大砲といった新しいテクノロジーを軍隊に取り入れ、貿易の利益を競って守ろうとしていた。
 だから、ヨーロッパの国々が完全にアジアの貿易を支配できたというわけではないよ(注:齋藤俊輔「「火薬帝国」の観点から見たビルマのタウングー朝とペグー、アユタヤ王国――火器の使用とポルトガル人傭兵―」)。


とにかくこのころ、アジアは空前の貿易ブームだったわけですね!

―そうだよ。物の流れ(物流)が増えれば増えるほど、スムーズに交換するために「お金」が必要になった。
 そこで利用されたのは銀(シルバー)だ。
 当時アメリカに進出していたスペインが、アメリカの人たちをこき使って銀を掘り出し太平洋を西に超え、アジアのヒット商品を買い付けようとしたんだ。

でも、アメリカの人たちはヨーロッパの人たちの持ち込んだ病気の影響も受けているんですよね?

―そうそう。だから「働き手」がなくなると、今度はアフリカの王様たちから黒人を買い付けて、アメリカに運んだんだ。
 こうやって、自分の意志に反して、はるばる遠いところに移動させられる人たちが世界中で増えていくことになったのも、この時代からのことだ。

 こうやって、珍しい物を買い付けて遠くまで運んで売ることで、ヨーロッパの国々はリッチになっていったわけだ。このビジネスのもうけたお金を元手に、しだいに物を作って売るビジネスも盛んになっていくよ。

会社みたいですね。

―そうだね。失敗するかもわからない冒険的なビジネスだから、今でいうところの「ベンチャー企業」だね。同じような組織は今までも各地にあったけど、この時代のヨーロッパでできた会社の仕組みは、現代の会社のルーツとなっていくよ。

戦国時代ってなんだかワクワクしますね!

―えっそう?
 問題解決のためなら、「平気で人を殺しちゃう時代」だよ。


でも、戦国大名とか…

―支配者レベルで見ればワクワクするかもしれないけど、結構悲惨なもんだよ。
 誰もが納得するような権力がないわけだからね。
 問題が起きても、自分たちでなんとかするしかない。
 人が殺されても、警察なんてこない。


うーん。今とは全然ちがいますね。

―例えば、村で揉め事があった場合はどうするか。
 これはすでに前の時代で起きていたことだけど、戦いが頻発するようになる農民たちとしても自衛する必要が出てくるわけだよね。
 兵隊がズカズカあがりこんで、収穫物を横領したりするわけだから。


それまでは村ってまとまっていたわけじゃないんですか?

―「日本昔ばなし」(古いか)なんかに出てくるようなイメージの村ができたのは、武士の世の中になってからのことだね。

 ほら、生産力もアップして、自分の土地を持つことができる農民も増えたんだよ。

 そうすると、農民の間にも「自分の土地を守らなきゃな」っていう意識が出てくるでしょ。

 じゃあ、何でまとまるか? って考えたときに、いちばん手っ取り早いのは地元の神様だ。夏祭り、秋祭りのときに「お神輿」(みこし)を担ぐよね。
 そういう地元の神社やお寺(注:神社と見分けがつかないことが多い)を中心に、組織をつくり(注:宮座(みやざ))、まとまっていったわけ。


え、そのへんはあんまり今と変わらないじゃないですか。

―そうだね。「田舎寄り」の人にとっては普通のことかもね。

バレました?(笑)

―それくらい現代にも息づいているってことだね。

 農民たちは武士たちが村にズカズカと入ってきて「米よこせー!」って言われたら、一致団結して交渉にあたるわけだ。
 最高意思決定機関は、土地を持っている農民たちによる「寄り合い」。今でも町内の公民会での集まりのことを「寄り合い」という地域もあるはずだ。


 なかでも力を持っているのは「おとな」「沙汰人(さたにん)」「番頭」っていう人たち。必ずしもただ一人がイバっている村ばかりじゃないけど、特定の家柄が後を継ぐようなところもある。地域性はあるね。


でも農民が戦うことってできるんですかね?

―村の上層部の人たちはね、その国出身武士たち(注:国人(こくじん))と、個別に「ゆるい主従関係」を結んでいたんだよ。

 そうすれば、農民でも「武士」の身分(=地侍(じざむらい)になれるわけ。

 国人っていうのはもともとは荘園の現地管理をしていた人(注:荘官)や、幕府から地頭に任命された人から成長した勢力だ
 国人は国人で、その上の守護とも主従関係」を結んでいたんだけど、この時代になってくると国人が守護と対立するケースも出てくるね。


なるほど。でも戦になったら大変ですよね。

―うーん、なにも真正面からぶつかるだけが能じゃないよね。

 まずは、「お願いしますよ~」って頼みまくるわけ(注:愁訴)。
 それでダメなら、「じゃあ実力で阻止!」(注:強訴)ってことにもなるけど、村から年貢をとろうとしている上級の領主にとって一番困るのは「ボイコット」(もう農作業しません!)(注:逃訴)だ。
 当時は村ごとにまとめて年貢を納めること(注:地下請(じげうけ))が普通になっていたんだよ。


いろいろ工夫するんですね。

―で、さっきも言ったけど、この時代っていうのは問題解決のためなら、平気で人を殺せちゃう時代だ。

 「誰もが納得するような権力がない」わけだからね。
 問題が起きても、自分たちでなんとかするしかないんだよ(注:自力救済)。

 有力な村には「自治」が認められていたんだけど、その中では、おきてを破った者に対する過酷な刑罰が課されることもあった(注:地下検断(じげけんだん))。

 同じような自治は、都市でもおこなわれていたよ。
 当時ヒットしていたお酒や陶磁器の商人や職人たちは自分たちの財産を守るために、町の街路ごとに(ちょう)という単位でまとまっていったんだ。
 のちに道路沿いの両側の商人・職人が一つの町(注:両側町)をつくるようにもなっていったよ。
 彼らのことを町衆(まちしゅう)といい、同業者の利益を守るための組合(注:座)もつくられた。自分たちの権利を守るため、同業者の組合もやはり有力な神社と結びついていた。

 各地に市場が成立し運送業もさかんとなり、交換が増えるに従って「お金のとりひき」も増えていった。


でも、日本は当時バラバラでしたから、統一したお金は発行できませんね。

―そうなんだ。相変わらず中国のお金を使ったり、それを融かし直したもの(注:私鋳銭(しちゅうせん)が出回っていた。

この時期、日本は外国と貿易していたんですか?

―スペインが太平洋を超え、メキシコから銀を大量にフィリピンに運んできたおかげで、東アジアや東南アジアの海域で「空前の貿易ブーム」が起きていたんだ。

 中国人は取引のために大量の銀を使っていたけど、スペインが持ち込んだ銀でもやがて量が不足。

 それを補うように、日本からの「銀の輸出」が急増していったんだ。

日本って銀が取れるんですね。

―島根県の石見銀山(いわみぎんざん)で開発を始めていったのは、戦国大名(注:大内氏)だ。
 朝鮮から伝わった新技術の灰吹法(はいふきほう)が導入されたことによって、生産量が増加していく(これは,不純物の混ざった鉱石から銀を吹き分ける技術で、この時代のはじめに博多の豪商(注:神屋寿禎(かみやじゅてい))が朝鮮半島から技術やを招いて導入したものだ。


輸出した銀で何を得たんですか?

―日本はこの銀を,中国(生糸,絹織物,陶磁器)や朝鮮(木綿)とたくさん交換したかったわけだ。


木綿(もめん)?

―綿の織物だ。
 船の帆や、兵士の衣服として需要が急増していたんだ。戦国時代だからね。

 でも残念ながら当時の明は海禁政策をとっており,明の臣下に入る形でのオフィシャルな勘合貿易も室町幕府の衰退により1549年にはおこなわれなくなっていた。

 そこに目をつけたのはポルトガル。
 日本との中継密貿易に参加して,莫大な利益をあげていく。従来から東アジアに張り巡らされていた交易ネットワークに “便乗”(びんじょう) したといえるね。


便乗って?

―例えば、鹿児島の種子島(たねがしま)で銃砲を伝えたのって「ポルトガル人」だよね。
 でも彼らはそもそも、東シナ海の海賊のリーダー(注:王直)のジャンク船に便乗して密貿易しようとしたところ、嵐にあって漂着したんだよ。すでに、前年にも種子島に来航していたみたいだね。


その海賊のリーダーって何人なんですか?

―出身は中国人だけど、彼らの活動範囲は日本、中国、台湾、朝鮮半島、東南アジアをまたにかけたものだった。

 当時の明では「自由な貿易」は禁止されていたから、禁止を破ろうとする海賊の動きも活発化。
 さらに北のモンゴル高原の遊牧民も「自由に貿易をさせろ!」と北京を占領するという大事件に発展してしまった。


それだけ貿易がブームだったってことですね。

―そうだね。北のほうからは、オホーツク海エリアから薬効のある朝鮮人参や「高級毛皮」が流れてくる。それを中国の皇帝に売りつける貿易が盛んになっていたんだ。
 
 だけど明はあくまで貿易を制限する姿勢を崩さない。
 日本からも戦国大名が競って明と直接貿易しようと船を送っていたんだよ。

えっ、幕府の将軍でもない戦国大名が中国に貿易船を送ることができたんですか?
―そもそも、京都の室町幕府が中国の皇帝の許しを得て公式な貿易がおこなわれていたことは前の時代でやったよね(注:勘合貿易)。
 でも、この時代の幕府には力がほとんどなく、将軍は有力な守護大名の「あやつり人形」状態となっていたんだ。

 この時期に将軍を動かすほどの力をもっていた関西の戦国大名(注:細川氏)は、大阪の巨大港町(注:堺)の商人と結びつき、パワーアップしていた。
 でも西日本の有力な港ってほかにもあるでしょ?


博多とか―

―そうそう。九州の博多や、現在の神戸(注:兵庫)があるよね。ここをおさえていたのはライバルの戦国大名(注:大内氏)だ。

 この戦国大名は「自分こそが日本の幕府を代表している!」という顔をして、実際に明の皇帝からもオフィシャルな許可を得て、貿易の窓口となった長江下流の港町(注:寧波(ニンポー))に向かったんだ。
 で、さらに政権の中枢にいたライバルの戦国大名(注:細川高国)を追い出し、自分の都合のいい将軍(注:足利義稙)まで即位させ、完全に主導権を握ることとなった。


これはバトルになりそうですね…

―そう。そのバトルを日本でやればよかったものを、なんと中国の港町で大々的にやっちゃったんだ。
 中国の役人もとばっちりを受けて殺されている。

あらら…。

―まあ、それほど利益の出る事業だったってことだよね。
 でも、このオフィシャルな貿易は10年に1回しか許されない。
 中国の商品がほしいという人はたくさんいるのに、これじゃあまったく実態に合っていないわけだ。

そこで海賊の活動がさかんになるわけですね。

―そういうわけ。

明はいつまで貿易を厳しくしてるつもりなんですか?

―禁止をすれば、余計に海賊の活動も活発になるよね。
 この時代の前半に海賊による「沿岸大襲撃」があったことを受け、ようやくこの時代の前半に海禁をゆるめることにした。

 中国南部のマカオにポルトガルの居住が認められたのはこの頃のことだ。

じゃあ、中国が貿易を認めれば、日本に来るポルトガル人も増えそうですね。

―そうだね。
 でも日本は戦国時代の真っ最中でしょ。
 日本として「統一した貿易」は成り立たないよね。


応仁の乱が起きて以来、幕府はすっかりリーダーシップを発揮できなくなっていたんですよね。

―そう。すでに関東でも、大規模な「仲間割れ」が起きていたでしょ。
 関東をコントロールするはずの関東担当官(注:鎌倉公方(かまくらくぼう))は二人いる状態だったし。
 これをなんとか鎮圧した戦国大名は、静岡の伊豆から神奈川、東京にかけてのエリアを統一することに成功した(注:後北条氏)けど、混乱は続くね。

 幕府内部でも、公然と有力な守護が幕府に楯突こうとしていったわけ(注:明応の政変三好長慶の畿内政権松永久秀による将軍足利義輝の殺害)。

 で、全国各地で「1~数か国レベル」の統一を成し遂げていった戦国大名が現れる。


よく大河ドラマの舞台になる時代ですね!

―そうそう。
 詳しい人は詳しいでしょ。
 ・東北地方の戦国大名(注:伊達市
 ・山梨から長野にかけての戦国大名(注:武田氏
 ・新潟から群馬にかけての戦国大名(注:上杉氏
 ・静岡県と愛知県東部の戦国大名(注:今川氏
 ・愛知県西部の戦国大名(注:織田氏
 ・四国の香川・徳島、大阪周辺の戦国大名(注:三好(みよし)氏
 ・四国の高知の戦国大名(注:長宗我部(ちょうそかべ)氏)
 ・中国地方の戦国大名(注:尼子氏(あまご)や毛利氏)
 ・九州の戦国大名(注:大友氏や島津氏)

 ―などなど。

 (注)戦国武将勢力地図(http://www.geocities.jp/seiryokuzu/


どんな支配がなされたんですか?

―例えば神奈川県の小田原を拠点にした戦国大名(注:後北条氏)は、土地調査(注:検地)をおこなって税率を確定した。
 このやり方はどんどん広まり、基本税率(注:貫高(かんだか))を設定して、それに見合った兵力を備える義務(注:軍役(ぐんやく))を家来に課させたよ。

 そのコントロール下に入った農民たちも、定められた年貢・夫役(ぶやく)を納めることが義務付けられた。
 こういうことは各国で定められたルールに定められた。
 戦国大名の家で代々守るべきルール、家臣のルール、そして国全体に適用されるルールなど、さまざまなものがあったよ。

今までは、村や町での揉め事や武士同士の争いがあったら、当事者どうしで解決するのが普通でしたよね(注:自力救済)。

―そうだね。

 人の命がカンタンに奪われるのが、この時代の常識だったよね。

 それをやめさせるためのルールが制定されていったんだ。


ひとつの国の内のルールが一本化されていったわけですね。

―土地に関しても例外的なエリアが撤廃されていく。
 たとえば、守護が立ち入ることができなかったようなところにも、戦国大名のメスが入れられるようになっていく。

 また、守護大名は商人や職人の活動を保護し、城のふもとには武士だけでなく商人・職人が移り住み「城下町」が形成されていった。営業や移動をしやすくする「規制緩和」によって、わざわざ商人を呼び寄せることもあったよ(注:楽市令(らくいちれい))。ほかに河川の堤防(注:信玄堤)、交通路の整備や、金銀鉄の鉱山開発も行われた。

安土城(あづちじょう)

戦国大名は海外との貿易もおこなっていたんですか?

―日本の戦国大名の中には「キリスト教徒に改宗すれば、貿易がしやすくなる!」と考えた人もいる(注:大友宗麟(おおともそうりん)、大村純忠(おおむらすみただ))。
 でもスペインやポルトガルにとっては、純粋に貿易をしたいというのもあるけれど、キリスト教徒の布教も必要条件だった。

 当時日本にやって来たキリスト教の宣教師は、日本についてさまざまな記録を残しているね。


どうしてわざわざ日本にやってきたんでしょうか?

―この時代の前半に、ローマを本部とするカトリック教会に反発するグループがいくつも起こり、カトリック教会から分離する事態になっていたんだ(注:ルター派やカルヴァン派などによる宗教改革)。

 それで信者を減らしたカトリック教会では、「海外に新たな信徒を求めよう」と、布教に意欲的なグループ(注:イエズス会)をアメリカやアジアに派遣した。


 日本にキリスト教を初めて伝えたのもこのグループだ。


 このうちの一人は大阪の町(注:堺市)を見て次のように記している。

「堺(さかい)の町はとっても広くて、大商人が多数いる。この町はイタリアのヴェネツィアのように、執政官によって治められている」

 イタリアの「水の都」ヴェネツィアと、大坂の堺市のどちらも「自治」によって成り立っていることに注目したんだ。

 当時の堺では、大商人の中から36人のリーダー(注:会合衆(かいごうしゅう;えごうしゅう))によって自治がおこなわれていたんだ。博多や三重県の伊勢大湊(おおみなと)でも同じように自治が行われていたよ。


キリスト教の布教がすすむことで、なにか問題はおきなかったんでしょうか?

―もちろん宣教師の多くは純粋に布教をしに日本にやって来ていたわけだけど、スペインやポルトガルによる進出を受ける恐れもあった。

 そんな中、現在の愛知県にある尾張地方では、天皇と室町幕府(足利将軍)の両方の権力を自らのものとすることで、「天下布武」というスローガンを掲げつつ、日本全土にわたる公権力を獲得しようとした人物が現れる(注:織田信長)。

 彼は、従来の宗教的な権力をものともせず、天台宗山門派(延暦寺),浄土真宗(一向宗(いっこうしゅう))の抵抗を徹底的に倒していく。
 世俗権力が宗教権力よりも上にあるのだということを示したんだね。


でも、お寺ってそんなに危険でしょうか?

―浄土真宗の本願寺派というグループは前の時代から北陸を中心に信徒を増やしていた。
 この時代には、武家や農民もとりこみ,戦国大名を倒して“宗教国家”を建設する勢いをみせていた。
 彼らの武力に目を付け、兵として利用しようとした戦国大名(注:細川氏)まで現れていたんだ。

 この勢いに対し、京都の町衆は日蓮宗のもとに団結して、自分たちの財産を守ろうとした。
 しかし、これを危険視した比叡山延暦寺の軍事力によって、京都の日蓮宗勢力は壊滅してしまう(注:天文法華の乱)。
 これを反省として、京都では上京と下京に、お金持ちの商人たちの代表(注:月行事(がちぎょうじ))によってそれぞれ「町の防衛組織」が形成されていった。自衛と団結のためだ。


なんだか宗教戦争みたいになってきましたね。

―ちょうど同じ頃のヨーロッパでも、カトリック教会と新教徒との間に宗教戦争が多発しているね。

この人 (注:織田信長) はキリスト教に対してはどういう対応をとったんですか?

―布教を許可しているね。
 海外のモノや情報を手に入れる点を評価したんだ。

珍しいもの好きだったんですかね。

―そうかもね。
 家臣にモザンビーク出身の黒人をとりたてていたという記録もある。

 
 日本に活字による印刷機(注:キリシタン版)が伝わったのも、キリスト教の宣教師の功績だ。
 当時のスペインやポルトガルを通した貿易は、巨額の利益を生み出すものだったからね。
 各地の戦国大名は、従来からの重要な輸出品であった銅に加えて、銀が大量に輸出され、その対価として「硝石」(しょうせき)を手に入れようとした。

硝石?

―火薬の材料だよ。日本では産出されない貴重品だ。
 こうしては西日本における重要な「お金」となっていくんだよ。
 すでに中国地方の戦国大名は、年貢を銀で納めさせる制度も始めている。

国際色豊かな時代だったんですね。

― 宣教師(注:ヴァリニャーノ)の活動の結果、北九州を中心に信者を増やし、戦国大名の中にも熱心な信者が現れた(注:大友宗麟(おおともそうりん)、大村純忠(おおむらすみただ)、有馬晴信(ありまはるのぶ))。
 彼らはこの時代のヨーロッパに、なんと「ローマ教皇への使節団」を送っているよ。



 このときに派遣された少年たちは、当時全盛期を迎えていたスペインの国王(注:フェリペ2世)やローマ教皇にも直接会っているんだ。

 こうして仏教の反政府勢力を片付けた彼は,その後太政大臣にも関白にも就任することはなく、 結局、京都に宿をとっていたところを暗殺されてしまう(注:本能寺の変)。


でも、そんな最中にもポルトガルやスペインの進出は続いていますよね?

―そうなんだ。
 沿岸では日本人奴隷の売買もおこなわれていたことがわかっている。

 そんな中、天下統一を目前としていた武将の家来(元農民)が台頭する(注:羽柴秀吉(はしばひでよし))。
 彼は朝廷や中国・四国・九州支配のために、大阪にデカい城を建設(注:大坂城)。

 農業・商工業の生産力を確保していった。

 天下を平定した彼は、関白に就任。
 このときには、あの「藤原姓」をいただいている。

 さらに貴族界のトップである太政大臣に就任し、「豊臣」(とよとみ)姓を名乗る。
 姓を自分でつくってしまうというのは、天下人(てんかびと)にしかできない所業だ。


破竹の勢いですね!

―大坂の商人(注:千利休(せんのりきゅう))による、アーティスティックなお茶会を催し、文化的にも優れていることをアピールしている。
 いつの時代も洗練された最先端の「アート」や「おしゃれ」って、権力やお金持ちの象徴なんだよね。


 さらに彼は聚楽第(注:じゅらくてい)という豪華な宮殿を京都に造営し,天皇(注:後陽成天皇(ごようぜい))を招いて儀式を執り行い、自分が官職の序列のトップにいることを公家と大名に示した。
 

天皇を呼んじゃうなんてすごいよね。

―こうして最高の権威を身に着けた彼は、検地刀狩り(注:兵農分離商農分離)、海賊停止令などのさまざまな政策を実行にうつしていく。

戦国大名はいうことを聞いてくれたんでしょうか?

武装解除を命じる「惣無事令」(そうぶじれい)を発し、従わなかった関東の戦国大名(注:後北条氏)は神奈川県の小田原で討伐された。

 これを見て東北の戦国大名(注:伊達政宗(だてまさむね))は服属。
 こうして奥州も平定された。これにて全国統一の完成だ。

彼はそれで満足したんですか?

―いやいや。
 こんどは大陸制圧をねらったんだ。
 中国は明の征服を夢見て、朝鮮への軍事的進出を2度実行している(注:文禄の役・慶長の役)。

 これに対して朝鮮は、中国からの援軍もあってなんとか押し返し、彼の死によって打ち切りとなった。


彼の跡継ぎは?

―彼自身は息子(注:豊臣秀頼(ひでより))に従うように、家来たちに言い残した。
 でも、息子はまだわずか6歳。
 有力な家来の一人(注:五奉行の一人石田三成)は、もうひとりの家来(注:五大老の一人である毛利輝元)と組み、「西日本の大名」を引き連れて「西軍」を結成。
 組みました。
 それに対し「軍」を率いたのは、出世街道を驀進(ばくしん)していた家来の一人(注:徳川家康)だ。彼は“天下分け目の戦い”(注:関ヶ原(せきがはら)の戦い)に勝利し、征夷大将軍の宣旨(せんじ)を受ける。

じゃあ、太政大臣にも任命されました?

―任命されている。でも,彼のボス(注:豊臣秀吉)のように関白には就任しなかった。
 公家のピラミッド組織とは別の土俵で、あくまで「武家の棟梁」(ぶけのとうりょう)として、天下を支配することにこだわったのだ。

 幕府を現在の東京に開くと、豊臣家を滅ぼし(注:大坂の陣)、全国の武家に関する法(注:「武家(ぶけ)諸法度(しょはっと)」)公家に関する法(注:「禁中並公家諸法度」)を制定していった。

 後を継いだのは息子(注:徳川秀忠)だ。
 初代将軍は自らを「神」として、日光の神社にまつらせるように遺言を残している。

戦国時代がいよいよ終わったわけですね。

―次の課題は、押し寄せてくる外国人に対する対応だ。

 スペイン人やポルトガル人のインバウンドが急増し、キリスト教の布教も続けられていた。
 日本人の民間貿易も盛んだったけど、純粋な貿易活動とスペイン・ポルトガルの植民地支配との「線引き」は微妙だ。

貿易自体は認められていたんですね。

―初代将軍は民間船に許可証(注:朱印状)を与えて貿易をゆるしていたんだ。
 東南アジアがメインの取引先だったのは、朝鮮との戦いによって朝鮮半島が大陸の窓口ではなくなっていたからだ。

 この時期の東南アジアには日本人町も多くつくられている。

えっ、そんなにグローバルだったんですか? 日本人。

―内向きなイメージがあるけどね。
 積極的に外に出ていたんだよ。
 「日本町」だ。フィリピンのマニラ、ヴェトナムのホイアン、カンボジア、タイのアユタヤのものが大きかった。


 この時代に「海外ビジネス」に成功した人としては、フィリピンやカンボジアで活躍した豪商(注:呂宋助左衛門(るそんすけざえもん))、ベトナムに船を派遣した京都の豪商(注:角倉了以(すみのくらりょうい))がいる。
 タイでは、王様に直接つかえた人物までいたんだよ(注:山田長政)。


幕府とつながりのあった外国人はいなかったんですか?

―イギリスだね。
 当時のイギリスは、海外進出の面ではスペインとポルトガル、それにオランダに遅れをとっていた。
 この頃、女王(注:エリザベス1世)が治めていたころのイギリスは、スペインやポルトガルとは別のキリスト教のグループを立ち上げ、海外に進出する準備を整えていた頃だった。
 オランダも、やはりスペインやポルトガルとは別のキリスト教が広まっており、スペインからの独立を目指して戦っていた最中だった(注:オランダ独立戦争)。

 そんな中、まだ幕府ができる前の日本に、オランダの船に乗って流れ着いた外国人がいた。
 オランダ人(注:ヤン・ヨーステン)とイギリス人(注:ウィリアム・アダムズ)だ。

警戒されなかったんですか?

―2人とも、江戸に幕府をひらくことになる人物(注:徳川家康)に対して「ヨーロッパではスペインやポルトガルのカトリック教会と、それに対立する「新しいキリスト教」を信じる国々(イギリスやオランダ)との争いが激化していること」「スペインやポルトガルには日本を植民地化しようとする野望があること」などを、ことこまかに進言した。
 これは「使える」と判断され、2人とも将軍の保護を受けることになった。

スペインも負けていられないですね。

―だよね。
 そんな中、太平洋を横断しようとフィリピンを発った後、日本に流れ着いたスペイン人たちが現れた。

スペイン人ってことは、幕府に警戒されますよね。

―当然そうだね。
 でも、幕府の将軍(注:徳川家康)のくだした結論は、「スペイン人と一緒にメキシコと貿易をする権限」を、なんと仙台の大名(注:伊達政宗)に任せることだった。

えっ、どうしてでしょう。

―これについては謎も多いね。
 スペインとつるんで幕府を倒そうとしたんじゃないか? といった説すらある。

 仙台の大名は、重臣(注:支倉常長(はせくらつねなが))に命じて、都の商人(注:田中勝介)も誘ってプロジェクト・チームを立ち上げ、メキシコだけでなく、なんとスペインやイタリアのローマまで訪れているよ。


すごい!こんなに「自由に貿易」できちゃう状態でいいんでしょうか?

―このまま各地の大名に貿易を認めたままにしておけば、財力をつけて幕府に歯向かわないともかぎらないよね。
 しだいに幕府が貿易を独占し、キリスト教を制限・禁止する措置が、段階的に取られていくようになるんだ。

貿易を管理していったんですね。

―今の国だって普通にやっているでしょ。
 国を出るときにはパスポートが必要で、必ず港や空港で出国管理するよね。
 入国管理だってやる。
 そういうことをやるべきだっていうことになったのは、やはり日本人の人身売買がおこなわれていたということもあったし、スペインやポルトガルによる進出を憂慮したことがあったわけだ。

 こうして、この時代の終わり頃には日本人の海外渡航・帰国が全面禁止となった。
 これをのちのち「鎖国」の体制と表現したわけだ。

 間一髪で帰国に間に合った長崎県の武士(注:平戸藩士の森本一房(もりもとかずふさ)は、父の供養のためカンボジアのアンコール=ワットに渡り,壁面に「寛永九年正月初めてここに来る」という落書きを残している。
 彼はアンコール=ワットを、〈ブッダ〉が修行した場所と勘違いしていたようだ。

「鎖国」ってことは、貿易が行われなくなるってことですか?

―違うよ。
 「鎖国」っていうのはあくまで国による出入国管理と貿易・キリスト教布教の管理のこと。
 決められた「4か所」(注:四つの口)では、貿易が続行されている。

キリスト教の布教も禁止されたんですね。

―長崎県で大規模な信徒による反乱が起きたことが大きいね。
 宗門改(しゅうもんあらため)を実施し、全国の住民を寺院の檀家(だんか)として登録させていった。
 これ以降、日本の仏教寺院は幕府の保護の下、冠婚葬祭をとりおこなう、いわゆる “葬式仏教” となっていくわけだ。


じゃあスペインやポルトガルは貿易相手からは退場ですね。

―その代わり、キリスト教の布教に熱心ではない新教国のオランダと、中国(清(しん))は、長崎の出島において、引き続き貿易が認められているよ。

 幕府は,オランダを国外情勢を得るための窓口としても利用するんだ。


あと3か所は?

―北は、北海道(注:蝦夷)のアイヌ人だね。
 昔からほぼ独占的に「つながり」を持っている松前氏に、独占交易権を与えている。
 この頃のアイヌ人たちは、河川ごとに集団を形成して漁労を行い、獣皮・海産物を取引し、中国大陸のアムール川(黒竜江)流域の民族や、千島列島・樺太島のアイヌとも交易を行っていた。

 それに朝鮮との交易には、対馬藩主の宗氏(そうし)を通して貿易と外交を行わせていた。


昔から対馬の藩主が、朝鮮との貿易を独占していたんですよね。

―そうそう。でも、少し前の朝鮮出兵の際の戦後処理で、朝鮮側との外交が途絶えていたんだ。
 そこで宗氏は朝鮮との外交を回復させ、日本人捕虜の送還などを斡旋(あっせん)した。しかしこのとき「将軍のなりすまし文書」を偽造していたことが藩主と対立する家臣の内部告発によって明らかになり、スキャンダルに発展している(注:柳川一件)。


沖縄の琉球王国とも貿易をおこなっていましたよね。

―そうだね。
 当時の琉球王国は東南アジア諸国ともさかんに交易をしていて、ポルトガル人の記録にも「レキオ人」として登場している。

 東京に幕府ができたころ、琉球は鹿児島県の大名(注:島津氏)によって征服されている。
 これ以降、琉球の王様は鹿児島の大名を通して支配を受けると同時に、中国の明とも外交関係を続ける体制がとられた。


どうして明との関係も続いたんでしょうか。

―明にとっても沖縄に集まる商品は魅力的だったし、江戸幕府にとっても明との関係を維持している琉球王国からの大陸の“最新情報”はきわめて貴重なものだったからだ。
 東京の将軍は「沖縄を支配できるくらい強いんだぞ!」とアピールする意味も込め、将軍の代が替わるときには沖縄から使節を派遣させていたんだよ(注:慶賀使)。


日本は中国との貿易も続けますよね。

―長崎の出島という港で、幕府の管理下での貿易が続けられたよ。
 でも、この時代の終わりには衝撃的な事態が起きるんだ。


どうしたんですか?

―中国の北方にいた女真人(じょしんじん)という人たちが、北京に押し入って中国を皇帝として支配することになったんだ。
 この新しい国を「清(しん)」というよ。

 明の勢力は中国南部でいくつもの政権を建て、海賊勢力(注:鄭成功(ていせいこう))と連携しながら「延命」した。しかし順番に清によって滅ぼされていき、台湾を拠点とした海賊勢力も追い詰められていくこととなる。

この事態を日本の人たちはどう受け止めたんですかね? 政権交代ってレベルじゃないですよね。

―そもそも幕府は倒された明との間に、オフィシャルな外交関係を築けていたわけじゃないんだよね。

どうしてですか?

―ちょっと前に日本の支配者(注:豊臣秀吉)が明の征服を明言し、朝鮮を攻めていたでしょ。
 それへの警戒感があったわけだ(スペインやポルトガルの植民地化に対抗しようとしたという新説もある(下記 今回の3冊セレクト『戦国日本と大航海時代』)。

じゃあ勘合貿易はできなかったんですね。

―そういうこと。だからできたのは民間交易のみ。
 幕府は逆に「日本中心」の東アジア秩序を建設しようとしていたんだ。清との間にも、朝貢貿易のような公式な関係を結ぶことはなかった。
 それに、幕府によって「正しい思想」とのお墨付きをもらった儒学者(注:林羅山(はやしらざん))の間にも、「女真人に支配された中国よりも、日本のほうが中国古来の儒学を維持できているんじゃないか」という自負も強まっていった。

今回の3冊セレクト




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