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5.1.9 教会の権威 世界史の教科書を最初から最後まで

10~11世紀(今から1000~1100年ほど前)の西ヨーロッパに成立した封建社会(ほうけんしゃかい)では、国を超えた「キリスト教世界全部」に君臨する(と主張する)ローマ皇帝(神聖ローマ皇帝)やローマ教会(ローマ=カトリック教会)のほうが、強い発言権を持っていた。


会社であれ教会であれ、なんらかの権限を持つ組織には、"出世の階段"がつきもの。




ローマ=カトリック教会の場合、ローマ教皇をトップに、大司教→司教や修道院長→司祭の下に、一般信徒や修道士が続く、ピラミッド型の階層制組織ができあがっていった。

大司教や修道院長などには、国王や貴族からしばしば領地を寄付されていた。

「この土地は大司教や修道院長のものだ!」と言えば、キリスト教徒であれば、手を出すのもはばかられるからね。

日本でいえば、しめ縄や紙垂(しで)に囲まれた神域を想像してみるといいかもしれない。

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足を踏み入れづらいでしょ?


また、領主が自分の領地に教会を設けて、自分で聖職者を任命するケースも少なくなかった。


そんなわけで土地の権利の関係から、国王・皇帝・貴族のように、キリスト教会の人ではない人たち(俗人)が、えらい聖職者との間に関係を持つようになっていく。
えらい聖職者にとっても、領地やお布施(ふせ)が集まってくるんだから、悪い話ではないよね。

「私の息子を司教につけてくださいよ」と、キリスト教の修行や勉強もろくにしていない人物を、「わいろ」を贈ってつけるような俗人も現れるようになっていったんだ。こういうのを聖職売買という。


こうした動きに対して、早速10世紀には改革運動が起きる。
先鞭をつけたのは、フランス中東部のクリュニー修道院だ。「聖職売買や、聖職者が妻を持つことはもってのほかだ! それに行きすぎた決闘(私闘)も良くない。神様の下に、いったん休戦しようじゃないか(神の平和)」と呼びかけた。

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クリュニー修道院出身のローマ教皇グレゴリウス7世(在位1073~85年)は、国王や皇帝が大司教・司教などの聖職者を公然と任命している現状に反対した。

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グレゴリウス7世

資料 ラテラン(ローマ)での司教会議の議決を報じた書簡

「私たちは、司祭、助祭、副助祭にして祭壇に仕えるものは誰であれ、もし妻または妾をもつものは、彼女たちから完全に離別し、ふさわしい償いを果たさない限り、祭壇で奉仕してはならないばかりでなく、それ以後引きつづき、ある教会財産を所有したり、すでに所有しているものを享受することはゆるされない。……また聖職売買、すなわち金銭によって叙階(じょかい)されたものは、かれらの聖職を剥奪し、再びかれらが復職できぬよう、使徒の権威により決議した。」

*このとき禁止された行為を示した部分を探し、マークしてみよう。

(出典:朝倉文市・訳、江上波夫・監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、40頁)


聖職者の任命権(叙任権)を、神聖ローマ皇帝から取り戻す運動を始めた。これをめぐる教皇と皇帝の争いを、(聖職)叙任権闘争という。


修道院に預けられ、厚い信仰心を抱いて必死にがんばってきたマジメなグレゴリウス7世にとって、ドイツ王(注)のハインリヒ4世(在位1056~1106年)の行為は目に余った。すでに司教のいるミラノに自分に都合のいい司教を立てるなど、皇帝は挑発的な行為を繰り返していたのだ。

(注)「カノッサの屈辱」当時のハインリヒ4世はドイツ王。神聖ローマ皇帝に即位するのは後年である。

そこで、教皇は”伝家の宝刀”である「破門」を実行する。破門(エクスコミュニケーション)は、キリスト教会からの追放だけでなく、社会そのものからの”村八分”を意味した。

当時ひんぱんにイタリアに”出張”していた皇帝ハインリヒ4世が破門されたと聞くや、ドイツの諸侯たちは「破門が解除されない限りは、皇帝の位から引きずり下ろすべし」と決議。
あわてたハインリヒ4世が、1077年1月にイタリアのカノッサでローマ教皇に謝罪する事件が起きたよ(カノッサの屈辱)。


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このときハインリヒ4世は武装解除してカノッサ城の外に居座り、雪の中3日間もの間、裸足のままで祈り続けた。
その結果ようやく破門は解除されたものの、その後もハインリヒ4世とグレゴリウス7世の争いは続いた。

のち、1122年にヴォルムスというところで取り決めが結ばれ、皇帝と教皇は妥協。叙任権がローマ教会にあることが確認された。これをヴォルムス協約というよ。

ヴォルムス協約(1122年)の一部
神聖なローマ皇帝である余、ハインリヒは、……聖なるカトリック教会に対して、指輪とつえによるすべての叙任(階)を放棄し、そしてわが王国と帝国にあるすべての教会において、教会法に基づく選挙および自由な叙階がおこなわれることを承認する。
司教である余、カリクストゥスは、……神聖なローマ皇帝であるハインリヒに対して次のことを許容する。ドイツ王国に所属する司教および修道院長の選出は、シモニア(★1)なしに、かついかなる違反もなしに、汝の親臨の下に取り行なわれるべきこと。……選出された者は、汝の手から司教杖(しゃく)によりレガリア(★2)を受領し、そして彼は法に従って何時に対しすべき義務を果たすべきである。
★1 聖職売買  ★2 協会の世俗権
(出典:朝倉文市・訳、『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、40頁)
*このとき認められた、皇帝の特権と教皇の特権を、それぞれ別々の色でマークしてみよう(「指輪」と「」は、それぞれどのような権力を象徴しているものとされたのだろうか?)。

結果的に教皇の権威はうなぎのぼりに高まり、13世紀にはインノケンティウス3世(在位1198~1216)の下で絶頂となる。

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