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"世界史のなかの" 日本史のまとめ 第26話(最終話)世界の多極化と日本の選択(1979年~現代)

「"世界史の中の"日本史のまとめ」は、今回でいよいよ現在の世界に合流します。すべての地域を網羅的に扱うと大変に複雑になってしまいますので、とくに政治経済(国際経済の展開と、アメリカ合衆国との関わりの変化)にしぼって見取り図を描いた上で、日本の置かれているポジションを眺めていきましょう。

【1】「自由な経済」が全世界に広がっている

 ここで、これまでの世界経済の流れをちょっと整理してみよう。

1-1. 第二次世界大戦前 ―宗主国 vs 植民地


 そもそも第二次世界大戦が終わる前、世界は大きく「植民地から独立した「工業化されていない」世界」と、「工業化された世界」の2つの世界に分かれていた(図1)。

図1


1-2. 第二次世界大戦後 ―北(米ソ) vs 南


 第二次世界大戦が終わると、植民地を世界中にもっていたイギリスやフランスのパワーが弱まる。
 代わって「工業化された」ソ連とアメリカがそれぞれの「理想とする社会体制」をかかげて火花を散らしながら、「工業化されていない」植民地や元・植民地の資源を利用する構造となった(図2)。
 やがて、なかでもアメリカグループからの支援と中東からの安価な石油供給を受け、西ヨーロッパ(とくにドイツ)や日本は順調に成長を遂げていく(注:高度経済成長経済の奇跡)。

図2

赤色の△は社会主義国家(自由な競争を禁じる)、青色の△は資本主義国家(自由な競争を認める)を表している。


1-3. 第一次石油危機後(1973~)産油国の台頭

 しかし、中東で戦後4度目の大きな戦争(注:第四次中東戦争、1979.10.6~10.24)が起き、石油危機が起きると、この構造は一変。
 「工業化」の原動力だった石油の高騰は、西ヨーロッパ・日本・アメリカだけでなく、ソ連グループにも大きな打撃を与えた。

 これを受け、石油の高騰を利用した中東の産油諸国が急速にのし上がった。
 今までものづくりに邁進していた西欧・日本・アメリカでは産業の構造が変わり、サービスの提供や金融取引、それにハイテク産業化が推進されていった。

 これに対してアジアでは、社会主義国の中国が一部自由化を導入。
 アメリカグループに属したほかのアジアの国・地域(NIEs)を追いかける形で「工業化」が進んでいくことになる(図3)。

図3

世界経済は、単に北=先進国、南=開発途上国という構図ではなくなっていった。


1-4.  ソ連の崩壊後 ―自由な経済のグローバル化

 やがてソ連が崩壊(1991.12)すると、ソ連グループにも資金が流れ込み「工業化」が進んだ。この動きは、中国、インド、ブラジル、そしてロシアで特に顕著であった。
 社会主義グループがなくなったため、「自由なビジネス」が全世界で解禁。
 国や地域という「まとまり」を残したまま、各地の政治権力と結びつくことで、資本は自由に国境を超えていくようになった。

グローバル・ノース? サウス?

半球に多い先進国(工業化のすすんだ国々)と、半球に多い途上国(工業化がまだすすんでいない国々)を、単純に言い換えた言葉のようにみえるけど、そういう意味じゃない

 グローバル化を推進する側(=グローバル・ノース)は、なにも北半球だけにいるとは限らない。工業化のまだすすんでいない国々にも存在する。
 同じ洋に、工業化の進んだ北半球の国々にも、グローバル化の影響を受けて貧しくなった人々(=グローバル・サウス)がいる。

世界銀行が「所得が高い国」と認めた国


グローバル化がすすんで、資金の移動の「垣根」が取り払われると、「この国の人は豊か」「そちらの国は貧しい」っていうことが言えなくなっちゃうってことですか。

―その傾向がすすんでいる。

 たしかに、先進国での格差拡大にグローバル化が影響を与えているかどうかには議論がある(注:技術の進歩が格差拡大に与えた影響(Guy Michaels, Ashwini Natraj and John Van Reenen, Has ICT polarized skill demand? Evidence from eleven countries over 25 years )。
 また、世界全体でみれば「生きていくのがやっと」(注:絶対的貧困)という人の数は着実に減っている。


 しかし、グローバル化は、もともとあった経済の「破壊」をともなうことがしばしばだ。
 さまざまな手段(注:開発途上国に対する構造調整プログラム(1982~)、戦争内政干渉)によって、「自由な経済」に適した経済構造の変化を強制される場合もあった。


* * *

1-5. グローバル化と反グローバル化

止める手段はないんでしょうか?

―いったん動き出してしまうと、なかなか難しいね。
 司令塔がいるわけでもないし。

 1か国では大変だから地域ごとにまとまろうという動きも盛んになっている(注:リージョナリゼーション)。

 また、「自由な経済」を押し付ける動きに対して、国境を超えてさまざまな形で異議申し立てをしようとする動きも出てきている。それが暴力的になって既存の国境を否定したり、先進国の大都市でテロを起こす集団も出てきているよね。
 先進国を相手には、ハイテク軍備ありきの現代戦をやってもかなわない(注:非対称戦争)。そこで編み出されたのが「非対称的な戦略」(=ネズミのほうが猫よりも強い)だ(注:下記記事を参照)。


それに対して先進国は?

―「安全で平和な世界」を守るために、毅然とした対処をとっている(注:対テロ戦争図5)。

 しかし、先進国の足並みはなかなかそろわない。
 結局いちばんの争点は、「危険で貧しい世界」に眠る石油などの利権であることがしばしばだからだ。


テロの問題にも、世界経済の構造が関係しているんですね。

―今回扱うのは、まさにわれわれが暮らす「現代」の世界。

 グローバル化の進展によって、国外で起きたことが瞬時に日本国内に影響を与えるようになった。

 いま「現代」に起きていることが、どのような意味をもつ出来事なのか、同時代に把握することはとても難しくなっているといえるよね。
 それと同時に、日本の置かれている状況が、世界の歴史の展開と密接な「関わり」と「つながり」を持っていることも実感しやすくなっている。

 これで(1979年~現在)で、「”世界史の中の”日本史のまとめ」は最後の時代となるけど、今回も世界的な視野で日本の歩みを振り返り、置かれている状況と今後の展望を考えていくことにしよう。

参考)竹中千春『世界はなぜ仲良くできないの? 暴力の連鎖を解くために』阪急コミュニケーションズ、2004/木畑洋一『二〇世紀の歴史』岩波書店、2014/小野塚知二『経済史―いまを知り,未来を生きるために』有斐閣、2018など。


* * *

【2】「低価格な石油」を失い、西欧・アメリカ・日本の工業が打撃を受ける

―中東で政情が不安定となった結果、西ヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本の経済は大きな打撃を受けている。


石油の価格が急騰したんですよね。

―そう。
 先進国の経済発展の影には、中東の「安い」石油の供給があった。
 それが安定的に確保できなくなったため、経済成長が減速したんだ。

2-1. 危機への対応

西欧・アメリカ・日本は、この危機をどう切り抜けたんでしょうか?

―ここではまず日本の対応と、東アジア周辺への影響についてみてみよう。


2-2-1. 日本の対応


 これを見て(杉原薫、上掲論文より)。

 下の鎖線は、中東に対するに日本の貿易収支の赤字額を表している。
 石油危機以降、石油の値段が高くなったことで、貿易赤字がかさんでいるのがわかるね。 この赤字を埋めるため、日本は欧米諸国に工業製品を輸出した。
 石油輸入による赤字を穴埋めしようとしたわけだ。
 その分が、上のグラフの実線の部分だ。

 工業製品といっても従来型の製品ではなく、省エネルギー技術や自動化技術が導入されたハイテク製品だ。
 まさにピンチをチャンスに変える方策であったわけだ。


日本から工業製品を買いまくったら、こんどは欧米諸国が赤字になりませんか?
―その分を、欧米諸国は中東に武器などを輸出することで穴埋めしたんだ。

 この時期の中東などの途上国には、欧米だけでなくソ連グループからも、自国の陣営に引き込むために大量の武器が提供されている(注:イラン・コントラ事件、レバノン内戦(1975~90)、ソ連のアフガン侵攻に対抗するイスラーム教徒の兵士支援(1979~89)、グレナダ侵攻(1983)、パナマ侵攻(1989~90))。
 こうしたことが将来に大きな禍根を残すことになるんだ。


2-2-2. 東アジア全体への影響

―中東の原油高の影響は、日本周辺の東アジア諸国・地域の経済も大きく変えていく。
 台湾、韓国、シンガポール、香港などに続き、この時代に自由経済を部分的に導入した中華人民共和国(注:改革・開放(1978.12))など、東アジア全体に工業化の波が広がっていったのだ。

 その成功のカギをにぎっていたのは、やはり中東の原油と、欧米の存在だ。

 東アジアでは、日本を発展の「先頭」として「渡り鳥の群れ」のようにV字型に周辺諸国がフォローする形で経済発展が進んでいった。そこで、「ある地域全体が経済発展するためには、どこかの国がまず経済発展へと「テイクオフ」する必要がある。あとは周りの国・地域がV字型についていく」という理論が、かつては支持されていた(注:雁行型発展)。

 でも、こうやって視野を世界全体に広げてみると、「東アジアの奇跡」はアメリカ合衆国のおかげで秩序が保たれていたことに加え、中東を巻き込んだ「三角貿易」があったからだともいえるだろう。


 こうして、あっという間に中華人民共和国は「世界の工場」と呼ばれるまでに成長することになる。



 そんなわけで、この時期(1979年~)に今まで「工業化」が進んでいなかった地域が「工業化」していったことで、「所得が低すぎて苦しむ人々」の数もどんどん減っていった。

えっ、貧しい国ってどんどん減っているんですか。

―ギリギリで生活している人の割合は着実に減っているよ。

欧米諸国だけが工業化を達成したところではなくなり、日本・中国をはじめとする東アジアの中にも工業化を果たしたところができていったわけですね。

―そう。
 そして中東諸国はオイルマネーで急速に発展する。
 資源の輸出に特化する形で成長していったわけだ(下図は現在のドバイ(Photo by Christoph Schulz on Unsplash))。

 イギリスのコントロール下から独立したアラビア半島の国々(注:クウェートカタールアラブ首長国連邦など)が、石油の収入によってリッチになっていく。


* * *

【3】アメリカ合衆国の中国への接近

―前の時代の終わり頃、国際社会があっと驚くアメリカの方針転換があったね。

アメリカが中華人民共和国と「仲直り」したんですよね。

―そうだったね。

 当時、中華人民共和国がソ連と対立していたこと(注:中ソ対立)を利用したんだ。
 政策決定には大統領補佐官(注:キッシンジャー。上記動画)による強い影響があった。
 
 その後、次の大統領(注:カーター大統領)のとき、台湾に代わって中華人民共和国が「中国」を代表する政府とされ、大統領によってアメリカと中華人民共和国の国交は正常化されることになった(1979.1.1)。


* * *

【4】自民党支配の再編

アメリカが中国に接近したことに対する日本の対応は?

―アメリカに追随した。

 ただ、やはりいろいろな考え方があったのも確かだ。

 当時の自由民主党は党内にさまざまな意見が同居する状況だった。

 自由民主党が長年にわたって政権をつとめてきたことにも、批判の声もあがるようなり、それにしたがって野党である日本社会党をはじめとする政党の支持率が上がっていた(注:保革伯仲)。


自民党はどうして人気がなくなっていったんですか?

―経済発展が落ち着き、そのマイナスの側面が目立つようになっていたことが大きいね。

全国各地で公害が発生していた(注:水俣病など)


 さらに、世界情勢のあおりを受けた不況に苦しみ、赤字を埋めるために大量の国債が発行されていた(下記は財務省ウェブサイト「公債残高の累積」より)。

 以前の首相(注:田中角榮)が汚職疑惑によって辞任したことを受け、政治に対する不信感が生まれていたことなどが背景にある。

 この時代の初めに首相についたのは、辞任した首相の盟友であった人物(注:大平正芳(おおひらまさよし))。

 意見の割れる党内を安定させるには、政党の中にあった小さなグループ(注:派閥)のバランスを調整することが重要だった。

 どこかのグループだけから首相や閣僚に抜擢されるというんじゃ、バランスを欠いてしまう。そこで、「4~6回当選したら閣僚入り」などといった暗黙のルールができあがり、高いポストは実質的に年功序列となっていった(注:シニォリティ・ルール)。


「出来レース」みたいですね…。

―政権交代を避けるためには、党内の小グループの間で「ミニ政権交代」が
行えばいいという考え方だ。

 こうなると、誰がいつごろ内閣に入って、官僚機構のトップに立つかは、だいたい予想できるようになっていく。
 「〇〇省とのコネがある」「〇〇庁の情報には詳しい」という政治家が固定化されていくようになり、官僚との距離が縮まっていった(注:族議員)。


それって三権分立っていえるんですかね?

―国会議員が官僚とベッタリというんじゃ、お金がからんでもおかしくないよね。
 〇〇省のトップが「〇〇市に駅をつくろう」という方針を通したら、関連する企業にお金が降ってくる。
 すると、民間企業もこうした議員に接近していくようになる。

 こういう「利益誘導型」の政治には、のちに厳しい目が向けられるようになっていくよ。


先ほどの首相はどのような政策をとったんですか?

―政策以前に、議員のからむスキャンダル(注:ハマコーのラスベガス・カジノ疑惑KDD事件鉄建公団不正経理事件)の影響で、首相(任1978.12.7~1980.6.12)に対する不信任決議案が可決されてしまった。


どうして通っちゃったんですか? 自民党の議員の数は圧倒的に多いのでは?

―さきほど説明した、自民党の中のミニグループ(注:派閥)どうしの仲間割れが激しくなっていたんだ。
 反主流派(注:三木派福田派など)が不信任決議案の出された国会を欠席したことが影響して可決されてしまったんだ。
 これに対して首相は議会を解散(注:ハプニング解散)。

 しかし、首相は選挙運動初日にたおれ、その後亡くなってしまった。

 これを受け、自民党内は結束する。
 前首相に近かった鈴木善幸(1980/07/17 - 1982/11/27)が内閣を組織することとなった。

* * *

【5】自由なビジネスの世界的拡大

各国は世界的な不況に対してどんな対応をとったんでしょう?

―先進各国の大企業は、「国の介入を受けずに国境を超えて自由に世界中でビジネスをすることができないものか」と考えるようになった。


5-1. 新自由主義の進展

 それに合わせて、「国が民間に介入しないほうが、競争が促進され、経済は発展する」と考える経済学者の考えが注目されるようになっていったんだ(注:新自由主義)。

 この理論を推進する学者たちによって、まずはラテンアメリカ(注:チリのピノチェト政権)で試験的に導入された。


 そしてこの時期になると、イギリス(注:サッチャー政権、1979~1990)やアメリカ(注:レーガン政権、1981~1989)を筆頭に、ニュージーランド(注:ロンギ政権、1984~1989)、西ドイツ(注:コール政権(1982~98))、オランダ(注:ルベルス政権(1982~94))、オーストラリア(注:ホーク政権、1983~1991)、日本(注:中曽根政権、1982~1987)、トルコ(注:オザル政権(1983~1989))、インド(注:ラオ首相(1991~96)の経済自由化)、世界各国で「民営化」「規制緩和」「小さな政府(国がたくさん支出しない)」といった形で拡大していったんだ。

 のちに福祉国家の典型例だった北欧諸国(注:スウェーデンのラインフェルト政権(2004~16)、デンマークのラムスセン政権(2009~11,15~))でも導入されるようになり、やがて韓国でも本格的に採用されるようになっている。


福祉の予算を切り詰めるってことですか?

―そう。
 公的な支出をなるべくカットしようとする政策がとられることが多い。
 
 この背景には、北半球を中心とする国々における急速な高齢化(注:グローバル・エイジング)がある(注:少子化の実態は国によりさまざま)。

 日本やアメリカではわりと早期に危機を脱出するけど、西ヨーロッパではなかなか立ち直れない状況が続いたよ。
 フランスも初めのうちは財政支出を増やす方針をとっていたけど、国際経済との結びつきが強まったために1か国だけそういう方針をとることもできなくなり、財政を削減する方針へと変更した(注:フランス社会党のミッテラン政権)。


5-2. 日本への「自由なビジネス」導入の動き

日本ではどんな対応がとられたんですか?

―アメリカの動きに乗ることを渋った首相(注:鈴木善幸内閣)に代わって、新に就任した首相(注:中曾根康弘、1982.11.27~1987.11.06)はアメリカとの関係改善に乗り出した。


「構造改革」って?

―古い経済のしくみを「自由なビジネス」がしやすい「しくみ」に、根本的に作り変えることだ。

 
 日本では、いくつかの産業で国が経営する会社が大きな力を持っていた。
 電話(注:電電公社)、タバコ、塩(注:日本専売公社)、そして鉄道(注:国鉄)だ。
 アメリカ合衆国の産業界は、「日本でこうしたビジネスを展開すればもうかるのに、日本は「」をつくって、自由なビジネスをはばんでいる。ずるい」と主張。

 自由にビジネスができない、日本の悪い構造」を変えるべきだと主張した。

具体的には?

―国営企業が再編されて、NTT、JT(1985)、JR(1987)という民間企業が生まれた。



日本はアメリカ合衆国の要求を飲んだわけですね。

―そう。


 さらにアメリカは日本製品の輸出をコントロールしようとしていく。
 当時の日本の「稼ぎ頭」は自動車やハイテク分野だったけど、輸出がしにくいように、日本の円の交換レートをドルに対して高めに設定することを、国際会議で決定した(注:プラザ合意)。
 こうして円高になった日本は、生産拠点を東南アジアにうつすようになっていった(注:産業の空洞化)。

東南アジアには社会主義の国もありましたよね?

―当時は例えばベトナムでも、自由な経済のしくみが導入されていたんだy(ドイ・モイ、1987)。

 自由な経済をとりいれた東南アジアなどを新たな投資先としながら、アメリカによる介入を受けつつも、日本は名実ともに「経済大国」へと上り詰めていったんだ(注:エコノミックアニマル)。

 経済的には火花を散らしているけど、このころの日本は文化的にはアメリカはまだまだ「憧れの的(まと)」。
 アメリカの世界的に有名なテーマパークが東京につくられ(注:東京ディズニーランド(1983))、アメリカ人歌手(注:スリラー(1982))や映画(注:トップガン(1986))がも流行した。

 経済的にはその後、円高によって輸出産業に「足かせ」がはめられると、余った資金が国内の土地や株式の投資(もうけ話)へと流れていった。こうして土地や株の値段が高騰するけど、のちに実体のともなわない景気であったことが判明する(注:バブル景気)。


* * *

5-3. 「自由な経済」の社会主義国グループへの広がり

さすがに、社会主義グループはこの流れには乗らないですよね?

―初めのうちはね。
 石油危機が起こってアメリカ・グループの先進国が動揺する中、ソ連グループに加入する途上国や元・植民地の国々も少なくなかったんだ(注:エチオピア革命モザンビーク)。

 でも、「自由な経済」を推進しようとする流れには逆らえなかった。
 この時代にはソ連による経済に対する指導に反対する運動がポーランドで起きている(注:「連帯」)。



親玉のソ連ではどんな感じですか?

―ソ連では、新しい指導者(注:ゴルバチョフ(1985~1991))の下で、部分的にではあるけど自由な経済のしくみが導入されていった。
 それに影響されて、ソ連の強い影響下に置かれた東ヨーロッパ諸国でも、自由な経済のしくみが導入されるようになっていく。

 中華人民共和国でも、「社会主義と自由な経済は矛盾しない」「先に金持ちになった人がその恵みを国全体に広げていけばいい」(注:先富論)と唱える指導者が出現(注:鄧小平(とうしょうへい))。


社会主義グループも、「自由な経済」を推し進める動きにはかなわなかったんですね。

―そうだね。
 同じ動きは、「工業化に乗り遅れた貧しい国々」にも広がっていく。

 西欧・アメリカ・日本を中心に、貧しい国々に条件付きでお金を貸し付けるようになったんだ。

 その条件とは、「国の経済を、世界に向けて開放すること」。つまり、もし自由にビジネスができる仕組みを導入してくれれば、世界銀行やIMFがお金を貸しますよというプログラムだ(注:構造調整プログラム)。

 いつまでたっても国が発展しないのは経済が自由じゃないからですよ。言う通りに経済の仕組みをつくり変えれば、うまくいきますよ、というふうにしたわけだ。
 でもこれによって経済が破壊されたり、お金を返せなくなったりする国も現れるようになってしまった。

 

ひと昔前の「帝国主義」が、世界中の領土をおさえることで、工業を発展させようとしたのとは、ちょっと違う仕組みですね。

―「植民地」を持つことが否定された以上、領土をおさえることは難しい。
 そこでこんどは、


5-2. 「自由なビジネス」に対する抵抗

の頃、世界では?

―アメリカ合衆国との友好関係を保っていたイランの王様が、国民の運動によって倒された(注:イラン革命(1979.1~2))。

 指導者はイスラーム教のシーア派の学者(注:ホメイニ)で、イスラーム教に基づく民主主義の国を建設しようと唱え、世界を驚かせた。

 それに対し、隣国のイラクはイランとの戦争を開始(注:イラン・イラク戦争)。
 イスラーム教に基づくイランでの革命を警戒し、アメリカ、ヨーロッパ諸国だけでなく、ソ連中国も、イラクを軍事援助したことが、余計に事態を複雑化させていった。
 革命が起きると、石油の国際取引価格が急上昇した(注:第二次石油危機)。先進国はのきなみ前回の石油価格の上昇のときほどの影響は受けずに済んだ。

【6】アメリカとソ連の関係の緩和

アメリカとソ連の関係は悪いままですか?

―不況にもかかわらず物価の上がり続ける苦しい状況(注:スタグフレーション)に悩んでいたアメリカ(注:カーター政権(1977~81))では、立て直すには国の支出を減らす必要があると判断。国の財政を最もひっ迫させていた軍事費を減らすため、ソ連との軍備縮小の話し合いがすすめられていた(注:ウィーンでのSALT2(1979.6))。

 また、西側諸国が一致団結して経済危機に立ち向かおうという話し合いも続けられた。東京でも初めてサミットが開かれている(注:東京サミット、1979.6)。

 しかし、失業が増え生産が落ち込んでいるにもかかわらず、景気の良かった時から引き続いて物価が上昇するという苦しい状況は、西欧・日本・アメリカ(注:カーター政権(1977~81))を襲いつづける。

 そんな中さらに突如、ソ連はアフガニスタンに侵攻(1979.12)。
 これに対して、アメリカや西欧グループに属する国々は、モスクワオリンピックをボイコット(1980.7)。それに対して、ロサンゼルスで開かれたオリンピックでは、ソ連グループがボイコット(1984.7-8)する形となった。


平和の祭典にまで影響が及んだんですね。

―こんなことになったのは大統領(注:カーター)が軍縮を進めていったからだという批判が強まり、次の大統領選では「強いアメリカ」をかかげた候補が大統領に当選し、就任することになった(1984.1)。
 彼はソ連を「悪の帝国」と名指しし、思い切り軍拡をおこなっていった。

でも、それじゃあまた歳出が増えませんか?

―だよね。
 敵であるソ連のほうも、ハイテク技術でアメリカに大きく遅れをとっていた。

 一方、ソ連の政府が主導する経済プロジェクトにも、多くのボロが出るようになっていった。

 そこで両者は歩み寄る。
 アメリカの大統領とソ連の書記長がトップ会談(注:ジュネーヴで米ソ首脳が会談(1985.11)、アイスランドのレイキャビクで会談(1986.10)、INF全廃条約(1987.12))を重ね、ソ連はアフガニスタンから撤兵することに承諾(1989.2完了)。

 この動きは東ヨーロッパにも伝わり、冷戦時代の象徴だったベルリンの壁が崩壊(1989.11)し、年末には米ソの首脳によって「冷戦の終結」が宣言されるに至った(注:マルタ会談、1989.12)。

なんだかあっけないですね。

―それでもソ連は「延命」を図るけど、連邦を構成する国の民族運動を止めることはできず(注:バルト3国の独立(1990.3-5 ))、ついにソ連は崩壊した(1991.12)。 
 この前後、世界各地のソ連グループでは、国の方向性をめぐって政変や国の体制の変更が相次いでいる(注:ビルマ民主化運動の鎮圧(1988.8.8)、天安門事件(1989.6.4))。


ソ連がなくなっちゃったら、アメリカが世界最強の国ってことにありませんか?

―アメリカはソ連を取り囲む形で軍隊を配備していたからね。
 重点的に必要なところに、多くの人員や装備が置かれていた。

アメリカ軍の世界展開wikimedia青色・水色は兵隊のいるところ。オレンジは基地を利用しているところ。


イギリス軍のいるところに、米軍あり。イギリス軍の世界展開(青は駐留しているところ、赤は軍を展開しているところ)。


じゃあ、最強のアメリカのパワーによって、世界は平和になったんでしょうか?
―冷戦が終わった直後は、多くの人がそう思った。

 でも、冷戦時代にアメリカやソ連がそれぞれの思惑から武器を販売・提供していた途上国の体制は、ソ連が崩壊したことで不安定化

 とくにアメリカが多くの石油の利権をかかえていた中東で、「アメリカのいうことを聞かない政権」が登場するようになっていく。 


例えば?

―イランを倒すために、アメリカが軍事援助していたイラクの政権が、隣国のクウェートに侵攻(1990.8)。
 これに対して国連は一致した行動をとることができず、アメリカを中心とした軍によってイラクの政権に対する攻撃が実行された(湾岸戦争、1991)。
 この戦争では、アメリカ軍の最新鋭のハイテク戦の威力がいかんなく発揮されるとともに、アメリカ軍が駐留したアラビア半島諸国(注:サウジアラビアやクウェート)とアメリカとの関係が強化された。

 アメリカが支援するイスラエルへの反感も加わって、それに対して中東諸国ではアメリカに対するイメージが悪化。反アメリカ思想が盛り上がっていくことととなった。

なんだか全然平和になっていませんね。

―しかも、冷戦の終結は、やはりアメリカ軍の駐留し続けていた日本にも、大きな影響を与えていくこととなるんだ。


* * *

【7】日本の「戦後体制」の終わり

―さて、世界で「冷戦」が終結しようとしていたころ、日本では天皇(注:昭和天皇)が亡くなり、「激動の昭和」が幕を閉じる。

7-1. 昭和から平成へ

 代わって、新天皇の即位に合わせ、元号は「平成」に改められた。
 その前年末には、スキャンダル(リクルート事件)の影響を受け、内閣が改造されていた最中だった(注:竹下改造内閣、1988.12.27~1989.6.3)。消費税が導入されたのはこの内閣のときだ(1989.4.1)。

「激動の昭和」が終わったわけですね。

1920年~1929年1929年~1945年1945年~1953年1953年~1979年

―おりしも世界では、アメリカ合衆国とソ連との対立(注:冷戦)も最終局面を迎えようとしていた。


 ソ連グループに属する諸国でも、アメリカ合衆国のような自由競争にもとづく市場経済や、政府の画一的な指導ではない自由な政治のしくみ(注:複数政党制)が導入されようとしていたのだ。

例えば?

―ポーランドでは、ついに「反体制派」グループ(注:連帯)も交えた会議が開催され(注:円卓会議。1989.2~.4)、市場経済を認める新しい政府が生まれた(注:ポーランド第三共和国)。

これでポーランドも自由なビジネスができる国になったわけですね。

―そう。
 ポーランドには日本(注:中曽根首相が訪問)、ヨーロッパや、アメリカ人が総裁を務める世界銀行などを通じて、資金が融通されていった。

)このポーランドの改革は欧米諸国の強い支持に支えられており、改革のグランド・デザイン作成から個別企業の民営化まで、様々な面で欧米流の改革方針が導入されていった。この代表格は米国援助庁とEUの対東欧技術援助プログラムであるPHAREであったが、援助の世界の先進国だけあって、派遣されてくる専門家が質・量ともに充実しており、更に、こうしたプログラムの下に、民間非営利団体が分野ごとに重層的に組織され、ポーランドにとって最も重要な時期に集中的に投入されていた(90年代前半に、米国援助庁関係で派遣された専門家は数百名から1千名の多くを数えた)。https://www.mof.go.jp/pri/research/conference/zk051/zk051e.pdf


7-2. 55年体制の終結と日米関係の再定義

「自由にビジネスができる世界」がどんどんひろがる中、日本はどうなっていますか?

―短命な政権が相次ぐよ。
 そもそも、日本の戦後の政治体制は、アメリカ合衆国 VS ソ連の構図に基づいて作られてきたよね(注:55年体制⇒1953年~1979年の日本史のまとめ)。

でも、日本の国防はアメリカ合衆国に担ってもらわなければいけない部分が大きいのが実情ですよね。

―だから難しい。
 そこでもう一つ、日本も自主的に防衛するべきだという主張と、日本はあくまで非武装を保つべきだという主張の対立が重なった。


ややこしい問題ですね。

―この時期の自由民主党政権は、アメリカ合衆国に国防を担ってもらいつつ、自衛隊の「装備品」のハイテク化・高度化をすすめていった。
 しかしアメリカの議会では、防衛費をおさえようとしている日本に対し、アメリカの軍事力に「タダ乗り」しているんじゃないかとの批判も高まっていた

 背景には日本との貿易摩擦問題があった。

 そこで、「強いアメリカ」をかかげたアメリカの大統領(注:レーガン、1981~89)の下、日本の首相(注:中曽根康弘)はアメリカとの防衛協力を深めていた。


 でも、冷戦が終わると状況が変わる。

 冷戦のときにアメリカ軍が重点的に配備されていたのはどこだと思う?

ソ連を封じ込めるのが目的でしたから、その周りですかね?

―そうそう。
 ヨーロッパと東アジアが重点エリアだった。

 でも、そのソ連がなくなってしまったわけだ。

 代わってアメリカの頭を悩ませるようになるのは、不安定化した中東エリアだ。
 そこでアメリカ軍の配備を変える必要がでてきたわけだ。

)例えば、ヨーロッパのアメリカ軍は 1986 年の 38 万 1,200 人から 2003 年には 11 万 6 千人に削減されている(福田毅「日米防衛協力における3つの転機 : 1978年ガイドラインから「日米同盟の変革」までの道程」『レファレンス (666)』国立国会図書館、2006.7


アメリカがこれまで日本を重視していたのは、ソ連を中心とする社会主義グループに対抗するための「重要なパートナー」として日本を位置づけていたからでしたね。

―そう。
 でも、その前提となる「社会主義グループ」がなくなっちゃったんだから、当然日本とアメリカの関係も変わる。

 世界でさまざまな紛争が起こっても、これまでの日本は自衛隊を派遣することもなく、それでもアメリカ合衆国から納得してもらえた。
 でも「社会主義グループ」がなくなってしまったら、それでも日本は「なんらかの協力」なしに、アメリカ合衆国の軍事力を頼り続けることができるのか?

 こうして、日本に残るアメリカの基地が、今後どうなっていくのか? 
 日本とアメリカとの関係はどう変わるのか?

 そういったことが新たな争点として浮上したのだ。


そのとき日本の政権は?
―「平成」に変わる直前から、自由民主党による短命な政権がつづいていた(注:竹下登(1987.11.6 - 1989.6.3)→宇野宗佑(1989.6.3 - 1989.8.10)→海部俊樹(1989.8.10~1991.11.5)→宮澤喜一1991.11.5 - 1993.8.9)。政界全体を巻き込むワイロ事件(注:リクルート事件(1988.6))も発覚し、政治不信もひろがっていた。

 そんな中、アメリカからは「無条件で防衛を担当するとは思うなよ」という意見も出るようになり、日本も国際社会でなんらかの「貢献」を示さねばならないということになっていった。


「アメリカのために日本は何ができるのか?」という要求ですね。

―そう。
 冷戦終結直後の湾岸戦争では、「日本はお金を出しているだけだ」と言う厳しい意見も国際社会に見られた。
 アメリカからの働きかけもあって、ついに首相(注:宮沢喜一内閣)は、停戦中の紛争地帯で平和を維持する国連の活動(注:PKO)に自衛隊が協力できるようにするための法が成立した(注:PKO協力法、1992)。

すでに前年、自衛隊掃海部隊はペルシャ湾に派遣されていた。自衛隊初の海外派遣だった(注:湾岸戦争。海部政権)。


 これにより日本の自衛隊は、内戦の終結したばかりのカンボジアに派遣されることになったんだ(注:UNTAC(1992.3に発足))。 


―そんな中、国内ではスキャンダルが連続して大変に混乱していた。

 結局、総選挙(1993.7)で自由民主党が歴史的な大敗を喫する。

 こうして、自由民主党と日本共産党を除く、野党であった8党が連立を組み、新しい内閣がつくられたのだ(注:細川護熙(ほそかわもりひろ)内閣(1993.8.9~1994.4.28)。

 

自由民主党の長期間にわたる政権がようやく終わったわけですね。

―自由民主党ではない新たな内閣に対し、「これで政治が変わる」「冷戦の新しい世界が始まる」という期待感も高まった(注:55年体制の崩壊)。

 しかし、ほんらいは理念が違うはずの野党が集まって、「政治とカネ」の問題を解決しようと政権を担当してみたはいいのだけれども、政策をめぐって意見が対立。

 さらに夏には日本を冷夏が襲い、コメが記録的な不作に(注:平成の米騒動)。

海外の安いコメが輸入されたら農家は反対しそうですね。

―これまで農産物を、世界中で自由に取引できるようにしようという国際的な話し合いは進んでいたけど、「海外との競争にさらされる」ということで国内の農家の反発は根強かった(注:ウルグアイ・ラウンド、1986~94。政府は農家を守るための予算を組んだけど、効果は薄かった)。
 そんな中でのコメ不作。
 背に腹は代えられないということで、「コメの部分開放」が決められた。
 フィリピンでの火山の大噴火の影響で、この年は冷夏となり、コメを輸入せざるをえないほどになっていたことが背景にあった。
 


 小選挙区比例代表並立制にもとづく選挙制度改革は実現させたけど、結局、1年足らずで退陣した(1994.4.28)。

 これを継いだのは副総理であった人物(注:羽田孜(はたつとむ)、1994.4.28~6.30)。
 日本社会党は対立したため、政権には加わっていない。


 しかし自由民主党だけでなく日本社会党からの風当たりは強く、自由民主党と日本社会党が組んだことで内閣は倒れた。


7-3. 自由民主党と日本社会党との連立


―代わって、自由民主党と日本社会党の”大連立”に近い新政権が発足した。
 なんと首相は日本社会党の委員長(注:村山富市(1994.6.30~1996.1.11)。


えっ。でも日本社会党って冷戦のころは、自由民主党と対立していましたよね?

―このとき日本社会党は日米安全保障条約の支持に転じ、自衛隊も「合憲」(憲法違反ではない)という考えに改めたんだ。

日本社会党の「95年宣言
冷戦が終わったいま、防衛政策の基本は軍縮です。「自衛隊は合憲」として認める立場から、自衛権の行使は領土・領海・領空に限定して、自衛隊の計画的な縮小と改編を進めることにします。(…)私たちは、外交の基軸を日米関係におき、日米安保条約を堅持しつつ、その運用にあたっては、できるかぎり軍事面を小さくして、政治・経済面を広げ、冷戦後の国際関係を視野に入れた新しい日米関係をつくることにします。

 しかし、平成に入ってから深刻化した不景気は日に日に悪化するばかり(注:失われた10年)。これに追い打ちをかけるように阪神・淡路大震災が、関西地方を襲った(阪神・淡路大震災、1995.1.17)。さらに、終末論的な思想を掲げた新興宗教によって、東京の地下鉄で猛毒ガスが設置されるテロ事件も勃発(地下鉄サリン事件、1995.3)。
 都市のインフラのもろさや体感治安の悪化により、人々の不安は高まっていった。


これだけ首相が頻繁に代わってしまうと、国際的な取り決めなどに支障が出るんじゃないでしょうか?

―そうだね。
 アメリカを中心に、「自由な経済」を世界中に広める動きは着々と進んでいるからね。

 この政権の時期には、多く国の間で、公平に貿易がおこなわれるために、国際的なルールをもとに取り締まる組織がつくられ、日本も参加している(注:世界貿易機関(WTO)、1995.1.1)。

)WTOにはその後、中国(2001)、ロシア(2012)も参加した。ソ連崩壊後のロシアでは、民営化された産業や金融を支配した財閥(オリガルヒ)が経済を独占し、その支持を受けた政治家(注:プーチン)が権力を掌握していった。中国ではWTO加盟の後、「資本家」でも中国共産党の幹部につくことができるようになった。


 ただ、首脳が頻繁に交替してしまうだけでなく、これまでアメリカとの安全保障条約に否定的だった政党(注:日本社会党)が与党となったことで、アメリカとの関係は難しいものとなった。


7-4. 日米「同盟」の強化

日本の政治なのに、アメリカとの関係はまだまだ強く残っているんですね。

―アメリカ政府は、この頃から日本政府に日本のさまざまな「しくみ」を変えるよう要望する文書を示すようになっている(注:年次改革要望書)。

 そんな中、新たに首相となったのは自由民主党の政治家(注:橋本龍太郎。1996.1.11~ 1998.7.30)。

 彼はまずアメリカとの関係回復を図るため、自衛隊とアメリカ軍との関係について新しい取り決め(注:新ガイドライン)を結んだ。自衛隊がアメリカ軍と、よりいっそう緊密に連携がとれるようなしくみをつくったんだ。

どうして関係を強めたんでしょうか?

―第一に「ソ連の脅威」がなくなったことを受け、日本の防衛は、日本の自主的な防衛力にもっとまかせるべきだと主張したからだ。
 第二に、反アメリカ思想を背景に、アメリカをねらったテロ攻撃のリスクも高まっていた(注:実際にケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破事件が起きた(1998.8.7))。
 「地球上のいつどこで何がおきても即応できる」軍の配備が求められていたんだ。

米軍の世界的再編 マガジン9条〜どーなってるの?!米軍再編より図版引用


アメリカって、世界中で「敵と戦っている」んですか…。

―言うなればそういうイメージだね。

 冷戦後の世界の再編にともない、アメリカ軍の再編(注:トランスフォーメーション4年ごとの国防見直し(QDR))が行われ、その影響を日本も受けていくようになったわけだ。

 この首相は中央省庁の再編成にも手を付けている。「制度疲労に陥りつつある戦後型行政システムから、21世紀にふさわしい新たな行政システムへ転換していく」ことが目的で、行政のスリム化を目指したものだ。


これも政府の役割を減らしていこうとする流れの一貫ですね。

―しかし、長引く不況を止めることはできず、事態はますます深刻化していった。

 同じ頃、IT産業の好調によって好景気を遂げていたアメリカ(注:クリントン政権、1993~2000)とは大違いだ(注:ITバブル、1999~2000)。
 この政権は、それまでの「小さな政府」路線(国があまり積極的にお金をつかわない)を180度転換し、積極的にお金を使って民間企業に介入し、さらに軍事費の削減と増税によって財政赤字を黒字に変えることに成功していたのだ(注:クリントノミクス)。

 その後も、自由民主党の短命政権が続く(注:小渕恵三(1998.7.30 ~2000.4.5)→森喜朗(2000.4.5~2001.4.26)けど、ここで比較的長期の政権を維持することができた首相が現れる(注:小泉純一郎内閣、2001/04/26 ~2006/09/26)。

 彼は自民党の伝統的な「派閥」にこだわらずに党の指導部の力を強めるとともに、同じ頃就任していたアメリカの大統領(注:ブッシュ)との関係を重視した。

 そして新首相が就任して間もなく、アメリカで大変な事態が起きる。

―イスラーム教をかかげた暴力的な武装組織が民間機を乗っ取り、ワシントンDCの国防総省やニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込んだんだ。

 燃えるビルの生中継映像に、世界は衝撃を受けた。

現実じゃないみたいな映像ですね。

―しかも実行犯は「」ではなく、「民間組織」だ。
 これまで米軍は冷戦後の世界に合わせて再編をすすめてきたけど、これ以来、「いつでもどこでも対処可能な戦力」の配備がいっそう進んでいくことになったんだ。

 この事件直後、実行犯と関連があるとされたアフガニスタンを、アメリカを中心とした多国籍軍が攻撃。
 日本の政府はこれを後方支援するための法律を制定した(注:テロ対策特別措置法 )。


自衛隊がまた海外に派遣されたんですか。

―この2年後には「テロ支援国家」と名指しされたイラクの政権に対する攻撃(注:イラク戦争)の後、「非戦闘地域」に自衛隊を派遣するための法律も制定されている(注:イラク復興支援特別措置法)。


 日本のアメリカ政府との蜜月は経済分野にも及び、この政権のときには「自由なビジネス」を推進するしくみがいくつも実現している(注:改正労働者派遣法(2004)郵政民営化法(2005)、新会社法(2006))。



 この首相が退くと、その後は自由民主党による短命政権(注:安倍晋三(2006.9.26 ~2007.9.26)→福田康夫(2007.9.26~2008.9.24→麻生太郎(2008.9.24~2009.9.16))が支持率低迷に苦しみ、選挙による政権交代が実現することとなった。


民主党ですね。

―そう。
 しかし、政権交代後の首相(注:鳩山由紀夫(2009.9.16~2010.6.8))は、アメリカの基地移転をめぐって二転三転し、混乱を生んでしまった。


 これに代わって就任した首相(注:菅直人(2010.6.8~2011.9.2))のときには、東日本大震災が勃発。福島県の原子力発電所で炉心溶融(メルトダウン)が起きたにもかかわらず、国民に対して放射線情報を公開しなかったことから批判を呼んだ。


「3.11」のときのことは、まだ小さかったのであまりよく覚えていません。

―高校生だと、まだ小学校低学年だったわけだもんね。

 変わったところもあれば変わらなかったところもあるかもしれないけど、この震災が、日本社会の歴史にとって大きなターニングポイントとなったことは間違いない。

 復興のための取り組みは次の首相(注:野田佳彦(2011.9.2~2012.12.26))に受け継がれたけど、次の総選挙で自由民主党の政権が復活した。

また、自民党に政権が戻ったんですね。

―新たな首相(注:安倍晋三(2012/12/26~))は金融緩和を積極的に進め、北朝鮮の核実験問題に対応しつつアメリカとの関係を強化(注:平和安全法制)、長期政権を実現させている。

 しかし、国内外の環境が大きく変動する中、日本が進むべき道をめぐって、重大な岐路に立たされているといっても過言ではない。

どうしてですか?

―冷戦のときは、「アメリカ」か「ソ連」かという構図がハッキリしていたから、ある意味シンプルだった。
 だけど、もはやそんな時代は終わった。

 世界では、国民を”わかりやすいスローガン”でまとめながら、国際社会のルールを尊重せずに、自分の国を優先する外交を推し進めようとうする指導者も増えている(注:自国第一主義)。

 ユーラシア大陸では、ヨーロッパの統合の拡大、インド、中国、ロシアの4極が台頭し、アメリカ合衆国だけでなく、その他の新興国(例えば、イラン、インドネシア、エジプト、トルコ、ナイジェリア、パキスタン、バングラデシュ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、大韓民国)との関係も複雑化している。
 核兵器の拡散も懸念材料だ(注:北朝鮮核問題イラン核開発問題)。

 しかし、世界の国々が一致して取り組まなければ解決できない問題は山積みだ。

環境問題とか、食糧問題とか…。

―貧困の問題とか医療の問題とか、挙げたらキリがないけれど、国連を中心に具体的な目標を設定して達成のために頑張ろうというプロジェクトが始まっている(SDGs、2015.9⇒世界史のまとめ × SDGs)。

 「人権」「自由」「平等」といった、人類みんなに当てはまるとされてきた価値を守るための目標もこの中に含まれる。
 だけど、そういった普遍的な価値を否定し、「うちにはうちの都合があるんだよ」「あなたの国の「人権」とうちの国の「人権」は別物なんだ」と主張するような傾向もあちこちで見られるようになった。


あらら。文化や宗教を理由にした「対立」も増えていますよね。

―情報のグローバル化を可能にした携帯端末(スマートフォン)は、良くも悪くも「見たくない情報」まで様々な人に届けることができるツールだ。

 真偽不明の情報や悪意のある情報が飛び交うことで、グローバル化に対する反感が各地で生まれるようにもなっている。

 それに、「自由なビジネス」の進展にともなって、情報だけではなく、国境を越えた人の移動も当たり前になりつつある。
 日本の現在の政権は、将来の人口減少社会を見据え、移民の規制をゆるめている(改正入管法、2018.12)。


政策の大きな転換ですね。

―多文化社会が進むことへの懸念の声もある。
 どうすれば安定した社会が築けるか、”答え”は定まっていないといえる。

 でも、そもそも日本の歴史をみてみると、日本社会が国外(特にユーラシア大陸)からの影響を受けながら、複数の文化を発展させていったことがよくわかる。
 日本の歴史は、まさに ”世界史の中" で展開してきたのだ。


西はユーラシア大陸、北のアイヌ、南は琉球やオセアニア・東南アジア、さらには欧米やアフリカの文化と、互いに交流してきた歴史がありますね。

―その中で、地方ごとに独特な文化がつくられていき、国の力が強まると「日本の文化」として定型化されていったわけだ。

 つねにアップデートされていく情報技術は、社会の安定にとってたしかに諸刃の剣(つるぎ)だ。

 あらゆる声がダイレクトに飛び交い、早かれ遅かれ、言葉の壁をも突き破る。そのとき、「閉塞された日本語の言説空間」(池内恵)は、もろくも崩れ去っていくだろう。

そうなると、世界のことを学びながら、同時に日本のことを学ぶことがますます必要になっていきますね。

―これまでの「歩み」がわかっていないと、互いの「立ち位置」がわからないからね。
 もちろん、内容や解釈の違いによって揉めることもあるかもしれない。

 しかし、情報の濃密な「やりとり」を可能にするテクノロジーのおかげで、日本に暮らす我々と「まったく異なったバックグラウンド」を持つ人々との間に、思いもかけない「つながり」が生まれる可能性も出てきている。

「魂に響くものなら、どんな文化とも共鳴しあえる。本当のグローバルとは画一化されて巨大化することじゃなく、人間の根源的な部分で相通じることができるようになることだ」(アレクサンダー・ゲルマン(佐々木俊尚『キュレーションの時代― 「つながり」の情報革命が始まる』ちくま新書、2011より))

まあ時代の先が見えないのは、いつの時代も同じですね。

―そうだよね。
 偶然が絡み合った予想外の出来事は、これからもたくさん起きるだろう。

 そんなとき、われわれの住む日本が、世界の中にあって、これまで多くの人の選択と決断によって築き上げられてきたことを念頭に置いてみたら、視界がひらけることもあるんじゃないかなと思うよ。

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