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15.1.4 東南アジアの独立 世界史の教科書を最初から最後まで

19世紀後半の東南アジアは、欧米の植民地だった。

日本の占領と撤退を経て、事態は以下のように推移する。



インドシナは独立を求めてフランスと戦う

フランス領のインドシナは,現在のカンボジア,ラオス(北部のルアンバパーンと南部のチャンパーサック),ヴェトナムにより構成される植民地。
それぞれの地域で国王は温存されたが、実権は奪われていた。

オランダ領東インドとは異なり,歴史的にカンボジアとヴェトナムの対立意識も強く,一つの地域として独立する方向には進まなかった。

まずは、ヴェトナムの動きを見ていこう。

ヴェトナム民主共和国 by ホー=チ=ミン

1945年8月16日〈ホー=チ=ミン〉はヴェトナム民主共和国の建国宣言を行い,8月19日に北部ハノイで一斉蜂起。



ヴェトナム中部のフエに王宮をかまえ、フランスの言いなりになっていた阮朝(げんちょう)の国王〈バオ=ダイ〉は権力の座から引きずりおろされる(八月革命)。こうして9月2日に,ヴェトナム民主共和国が独立した。


ヴェトナム国 by フランス


しかし,南部では共産党による支配がフランス軍により奪われ,1946年には南部ヴェトナムはフランス軍支配下に置かれることになる(フランス領コーチシナ)。

ポツダム宣言によると,ヴェトナム北部は中国,南部はイギリスが駐留することになっていたのだが,南部はなし崩し的にフランス支配に戻ってしまった。(北部には46年まで中国が駐留)。

フランスは戦後も植民地帝国を維持しようとして、戦争を開始。

これをインドシナ戦争(1946〜1954年)という。

ハノイにもフランス軍が侵攻するにいたって,〈ホー=チ=ミン〉は全土で反フランス戦争を呼びかける。
フランスは南部支配を既成事実にするため,1949年に阮朝最後の皇帝〈バオ=ダイ〉を元首に迎えてヴェトナム国を樹立させ,南部のコーチシナも領土に加えた。


北にヴェトナム民主共和国、南にヴェトナム国という形成となったわけだ。


フランスは,「封じ込め政策」を推進していたアメリカの軍事援助も受けるが,ヴェトナム民主共和国のゲリラ戦に苦しみ,膠着状態に陥る。

なお,すでに1945年にヴェトナム人がヴェトナム独立同盟会(ベトミン)に合流して解散していたインドシナ共産党は,1951年にヴェトナム労働党(1976~はヴェトナム共産党)として再建され,同年カンボジアではクメール人民革命党(カンボジア共産党(クメール語ではカンプチアと発音))が結成された。ラオスの地方委員会はのちにラオス人民革命党(1955)を建設している。
社会主義を独立後の旗印とする勢力は,ヴェトナム,カンボジア,ラオスの3箇所で独立した動きを見せるのだ。



フィリピンはアメリカから独立

フィリピン諸島では,アメリカ合衆国が保留していた独立の約束を果たし,46年にフィリピン共和国の独立を認めた。

しかし,アメリカに有利な通商法やアメリカ軍基地の設置が認められ,アメリカに依存するモノカルチャー経済も続くことに。

国内の政策は親米反共で,ゲリラ戦によって各地で日本と戦ったフク団が弾圧された。
フク団はフィリピン共産党の支援を受けており,アメリカの情報機関CIAの援助を受けた〈マグサイサイ〉国防長官(のちに大統領)は,フク団の弾圧後に土地改革をすすめ,農民の支持を吸収していった。

しかし,土地を持たない農民もなお多く,社会不安は残り,徐々に反米ナショナリズムも強まっていく。
例えば英語のかわりに,タガログ語をベースにしたピリピノ(フィリピノ)語が国語とされ,その話者は増加していった 1950年に朝鮮戦争が起きると,フィリピンもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,派兵している。

なお,ミンダナオ島には,キリスト教徒を中心とするフィリピン政府に従わないイスラーム教徒などがいて,抵抗をつづけた。
政府は,植民地時代に引き続き,彼らを「モロ」とひとくくりにして弾圧。「イスラーム教徒は危険だ」という偏見とともに,紛争が拡大していった。



オランダはインドネシア独立を阻止しようとした

オランダ領東インドでは、1945年8月17日に〈スカルノ〉により「インドネシア」の独立宣言が読み上げられた。


史料 インドネシア憲法前文(1945年)

独立はすべての民族の権利である。したがって、人道主義と公正にもとる植民地主義は、必ず一掃されなければならない。
インドネシアの独立闘争は、その国民を独立、統一、主権、公正および繁栄あるインドネシア国独立の門前へつつがなく導いた栄光ある時期に達した。
全智全能のアッラーの祝福を受けて、自由な民族的生存を享受せんとする崇高な熱望やみがたく、インドネシア国民はここに独立を宣言する。
さらに、インドネシア全民族と全国土を守るインドネシア国政府を樹立し、公共の福祉を増進し、国民生活の水準を高め、かつ独立、恒久平和および社会的公正に基づく世界秩序の建設に参加するため、ここにインドネシア民族の独立を、唯一至高なる神、公正で文化的な人道主義、インドネシアの統一、協議と代議制において叡智によって導かれる民主主義、およびインドネシア全国民に対する社会的公正を具現化することに基礎をおく、主権在民の共和政体をもつインドネシア国憲法のなかに規定する。

11 章 宗教 第 29 条
(1) 国家は、全智全能の神に対する信仰に基礎をおく。
(2) 国家はすべての国民にたいし信教の自由と、それぞれの宗教と信仰とにしたがって信徒としての義務を遂行する自由を保障する。

15 章 国旗、国語、国章、および国歌
第 35 条
インドネシアの国旗は紅白旗とする。
第 36 条
国語はインドネシア語とする。
第 36A 条
国章は、多様性の中の統一という標語をともなうガルーダ・パンチャシラである。
第 36B 条
国歌は、インドネシア・ラヤである。

出典:http://gyosei.mine.utsunomiya-u.ac.jp/shuron/sasakit060105/uud1945-sasakit060105.pdf

資料 エンブレム(下図)とパンチャシラの関係


【中央】黄色の星の黒い盾=唯一神の信仰         (パンチャシラ第一の原則)
→一つの星で唯一神を表している。
【右下】円型の鎖=公正で文化的な人道主義        (パンチャシラ第二の原則)
→四角の鎖は男性、円形の鎖は女性を表している。
【右上】ベンガルボダイジュの木=インドネシアの統一   (パンチャシラ第三の原則)
→誠実さと繁栄を土にしっかりと根を張るベンガルボダイジュで表している。
【左上】牛(banteng)の頭=合議制と代議制における英和に導かれた民主主義
(パンチャシラ第四の原則)
→集まることが好きな動物Bantengは社会主義を表している。
【左下】稲穂と綿花=全インドネシア国民に対する社会的公正(パンチャシラ第五の原則)
→稲穂と綿花で衣と食を表している。

出典:インドネシア総合研究所、https://www.indonesiasoken.com/news/what-is-indonesias-national-policy-pancasila/




しかしオランダはこれを認めず,軍を出動。

このインドネシア独立戦争の激戦を経て,49年にインドネシア連邦共和国(1950年に単一のインドネシア共和国となります)が成立した。

初代大統領には〈スカルノ〉が就任した。


こうして,もともとはマレー(ムラユ)人の分布していた東南アジアの島々のうち,(1)イギリス領だった地域はマレーシアシンガポールに,そして,(2)ジャワ島スマトラ島などオランダ領だった地域はインドネシアに分断されていくことになった(マレーシアは1963年、シンガポールは1965年に成立)。

独立したインドネシアの〈スカルノ〉は建国五原則(「パンチャシラ」。唯一神への信仰、インドネシア民族主義、国際主義・人道主義、全員一致の原則、社会の福利)を基本とし,「多様性の中の統一」を国是に,広範囲にわたる島しょ部をまとめようとする。
そのために,イスラーム教徒や軍,共産党,中国系住民などの多様な主体を絶対的な権力により束ねようとした。





イギリス領マラヤをから、シンガポールを切り離した


また,イギリス領マラヤは日本軍の撤退後に1946年にマラヤ連合(Malayan Union)が成立した。

それまで,(1)マレー半島本土の大部分はマレー連合州、(2)ペナン・マラッカ・シンガポールは海峡植民地として別個の植民地単位として存在していた(それぞれ歴史的な経緯が異なるからだ)。

しかし、イギリスはこのときペナン、マラッカをマレー半島本土に合体させてマラヤ連合として、シンガポールを切り離した

こうしてシンガポールを単独の「直轄植民地」としたことには、イギリスは華僑(中国系住民)に市民権を与えて協力関係を深めつつ、マラッカ半島の先っぽに位置するシンガポールを軍事・経済拠点として維持しようとする狙いがあったのだ。

)なお「華人」といっても一枚岩ではなく、やがて独立の父となる〈リー=クアン=ユー〉(華人四世)のように英語のエリート教育を受けた集団や、華語教育を受けた集団。中国との結びつきを重視する集団や、シンガポールへのナショナリズムを持つ集団。シンガポールに社会主義国家を建設しようとした集団(マラヤ共産党、1948年6月にイギリス人を追放するための武装蜂起をして失敗)など、多様な集団を含んでいた。
本来はマレー人のエリアだったシンガポールは、1819年にイギリスの植民地支配となって以降、ヨーロッパ・中東やインドと中国・日本を結ぶ貿易の一大中継拠点に成長していた。
イギリス系や中国系の金融機関の支店も多数立地し,アジア経済にとってなくてはならない重要拠点であったのだ。
しかし一方でシンガポールには,イギリス帝国各地の人々や中国人など,さまざまなバックグラウンドを持つ人々が寄せ集まった場所。
イギリスから「マレーシア」が独立する際、シンガポールは別個に独立するべきか、その後とっても大きな問題に発展していくことになるよ。


イギリスはこうして急場をしのごうとしたわけだけれど,植民地体制を今後も維持するのは現実的ではないし,マラヤ連合の体制はマレー半島のスルタンたち(マレー半島にはイスラム教の首長スルタンによる国々が並び立っていた)の権力を弱め,華人をのさばらせるとして反発も強まっていった。




このようなイギリスの「マラヤ連合」をつくる動きに対し,ムラユ〔マレーによる反発が強まると,イギリスは1948年にはペナン,マラッカを含めた形で,イギリスの保護領マラヤ連邦(Federation of Malaya)に移行する(ここまでの流れは、英領マラヤ→日本占領下→マラヤ連合(連合州)→マラヤ連邦。ややこしいね)。


マラヤ連邦では、華僑に対する市民権は一転して認められず、ムラユ〔マレー〕人のスルタンの権力が強化。
マラヤ連邦にはシンガポールは含められず、依然として英国王直轄地として別に統治され続けた。
1948年には立法評議会がつくられ、制限選挙で議員の一部を選ぶことになっている。


タイでは立憲王政が続いている

タイ王国(ラタナコーシン朝)では日本の撤退後もチャクリ朝の立憲王政が続いています。
1950年に朝鮮戦争が起きると,タイもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,朝鮮半島に派兵しているよ。


ビルマはイギリスから独立した


ビルマでは,抗日運動に活躍したパサパラという組織により指導者に立てられていたビルマ人の〈アウン=サン〉(1915~47) が,イギリスにより交渉相手に選ばれ,イギリスは,ビルマ独立を認めた。
しかし,〈アウン=サン〉は閣議中に部下に殺害され,タキン党出身の〈ウー=ヌ〉(任1948~58)が後継となり,1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立を果たした。


とはいえ,アヘン栽培地帯である北部山岳エリア(ゴールデン=トライアングル)は,大陸反攻をめざす〈蒋介石〉派の勢力,ビルマのシャン州の分離独立派(シャン州独立軍),カチン州の分離独立派,ビルマとタイの共産党ゲリラ,ビルマが支援する地方勢力の軍などが盤踞する,不穏な状況に。

〈ウー=ヌ〉首相の下,ビルマ国軍はこの地域の少数民族への攻撃を続けるとともに,上座仏教をあつく保護し,仏教徒を信仰しない少数民族の反発を生んだ。


このビルマ国軍は,日本により近代的な軍事訓練を受けたタキン党の元・義勇軍が基になっており,少数民族・ビルマ共産党に対する軍事行動が続いたため,強大な軍事力を持つ軍は政治に口出しするようになっていった。
国軍はその過程で〈ネ=ウィン〉大将(1910~2002)により,ますますビルマ人色の強いものとなっていくことになる。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊