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8.3.3 対抗宗教改革 世界史の教科書を最初から最後まで

ドイツでルターが、スイスでツヴィングリカルヴァンが、公然とローマ=カトリック教会の教義に対決していった16世紀前半。

ローマ=カトリック教会の側では、「改革派をぶっつぶそう」「いや、自分たちの体制も見直そう」「アジアやアメリカで信徒の獲得キャンペーンを始めよう」などといったさまざまな反応が起こった。
これを宗教改革(リフォーメーション)に対し、カウンター・リフォーメーション(対抗宗教改革)というよ。


たとえば、スペインのバスク地方出身のイグナティウス=ロヨラ(1491年頃〜1556年)と

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みんな知ってるフランシスコ=ザビエル (1506年頃〜52年)

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は、ローマ教皇の許可を受けて「イエズス会(ジェズイット教団)」を結成。



初代総長ロヨラの下、厳格な規律とピラミッド型の組織をつくり、資金を集め武装してヨーロッパ各地だけでなく、アジアや南北アメリカ大陸へと布教をスタートした。


この結果、南ヨーロッパに対するルター派やカルヴァン派の拡大はブロックできたし、南ドイツでもプロテスタントの信仰を排除することに成功した。



1549年には、ザビエルが日本に上陸し、布教に成功しているね。
ザビエルは中国布教に失敗したけれど、その後マテオ=リッチが清の支配層に取り入ることで成功をおさめている。

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ちなみにザビエルの眠る聖堂は、インドのゴア(オールド=ゴア)にあるよ。


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一方、ローマ教皇はルター派諸侯が1540年にシュマルカルデン同盟を結成して対決姿勢を示すと、1545年にトリエント(トレント)というところで公会議を開催。
ここで教皇が教会のトップに立つ権利(至上権)を再確認した。

そして、教義的に誤っていたところは悪かったと認めようと腐敗防止をはかるとともに、ルター派やカルヴァン派の書物など反カトリック教会の言説をリストアップし、禁書目録をつくった。
悪い情報は検閲してしまおうというわけだ。

史料 トレント公会議決議の施行
公会議は、以下のことを命じる。
…この公会議の終結後開催される最初の地方公会議において、この神聖なる公会議によって定義・決定されたことすべてを…公式に採用すること。最高のローマ教皇に真の服従を固く約束し、公に誓約すること。同時に、神聖なる教会法と一般公会議によって、特に当公会議によって有罪とされたすべての異端を公に避妊し、断罪すること。

歴史学研究会編『世界史史料5』


さらに、宗教裁判所でのプロテスタントの取締りを強化された。



宗派対立の激しくなる中、ルターは1546年に死去。
カルヴァンは1564年に亡くなっている。


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16世紀前半にヨーロッパを混乱の渦に巻き込んだ宗教改革対抗宗教改革

こうして見てみると、“進んだ”ルターやカルヴァンに対して、“遅れた”ローマ=カトリック教会のように見えるかもしれない。

けれど、実はこの時期に起きていた変化は、共通のベースに基づいていたと考えられている。


権力者による「人々の内面への介入」だ。



新教にしろ旧教にしろ、キリスト教会は各地の君主の権力と結びつき、人々の内面の信仰に強く介入するようになっていった。
国内を統一しようとしていた権力者は、国民をガッチリ支配するため、「お前は何を信仰する人間なのか」をハッキリ白黒つけようとしたかったのだ(宗派体制化社会的規律化)。


資料 「宗派体制化」と「社会的規律化」

この近世の時代の政治・社会を特徴づける言葉に「宗派体制化」と「社会的規律化」という用語があります。プロテスタントの諸宗派は、カトリックに対抗するだけでなく、たがいに競い合いました。その過程でそれぞれ厳格な教義と組織を固めていき、あるべき世界観を打ち出しました。その世界観を広めるために、世俗にも介入して信徒たちを教導しようとします。しかしながら当初、制度的にも法的にも弱体だった諸宗派は、むしろ国家(領邦)に取り入って国家の監督下の教会=官僚組織になることで、信徒らを統一し、規律化しようと図ったのです。一方で諸国家のほうも、まだ全臣民を掌握するほど強い軍事・行政・財務機構が備わっていませんでした。あまつさえ領邦君主への忠誠心や民族意識は育たず、かたや家族や氏族の強い絆はもう過去のものとなっていたため、宗派教会の高度に組織化された世界観は国家の臣民の社会的統合に大きく寄与するに違いない、と期待したのです。こうして双方の利害が一致し、世俗的な様相を持つ教会としての宗派体制が、近世国家と同時に出現しました。これはおよそ一五五五年から一六二〇年までのドイツの中小領邦にその典型を見出せます。宗派教会と国家権力は、説教や条例制定や命令、あるいは官僚機構の整備によって、一緒になって人々の日常生活──出費、服装、素行・思想、性行動まで──に事細かに介入し、その生活態度、道徳性を自分たちの望む姿になるように誘導していきました。家族問題、学校教育、社会福祉、風紀監督が中心的な干渉分野でした。こうして都市、農村、教会、宮廷、軍隊、学校などあらゆる社会と生活分野において規律がたたきこまれ、これを国家(領邦)全域に広げてゆくことで、内部の地域的・人的差異を平準化することをもくろんでいました。つまり宗派体制化の地域では、宗派教会と世俗当局が一致団結して領邦臣民の「社会的規律化」を推進したわけです。

出典:池上俊一『ヨーロッパ史入門 原形から近代への胎動 (岩波ジュニア新書)』岩波書店、2021年


中世のように、領内の人間が何を信じているのか “あいまいでOK” ということにはならない。

一人ひとりの生活を権力者によってより強く律することで、権力者は「国ごと」に領域をガッチリまとめあげていこうとしたわけだ。

その後、各地で新教と旧教の対立が激化し、ヨーロッパ各地で「宗教戦争」が頻発しく背景には、そういった事情があったんだよ。

その意味では、ヨーロッパにおける「近世」という時期は、地域別に領主がバラバラに支配する「中世」から、統一的な支配権が形成される「近代」への移行期間だっというふうに考えることもできる。


人の内面に白黒つけようとする体制が広まると、社会的な緊張も高まる。
ちょっとでも“変だ” “ズレている” “キモい”という人がいれば、たちまち“炎上”。

魔女狩り」とよばれる惨事に発展した。
「魔女」というのは、悪魔の手先として魔術をおこなうという疑いをかけられたものに対する激しい迫害のこと。

「魔女狩り」という言葉を聞くと、「きっと中世の最盛期に流行したのだろう」と思うかもしれない。
けれど、意外や意外、流行した時期は、中世の終わり頃から近世にかけて、特に16〜17世紀ににかけてが最盛期だった。
統一的な支配の進行に印刷メディアの普及が加わり、特定のイメージに基づき “余計な者”を排除しようとする圧力が高まったことが背景にあるとも考えられる。

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犠牲者は10万人以上とみられ、犠牲者の大半は女性だけど、男性が対象になることもあったんだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊