"世界史のなかの"日本史のまとめ 第2話 温暖化と狩猟採集文化の安定(前12000年~前3500)
日本史を世界史の流れとともに学ぶことを目指す、「"世界史の中の" 日本史のまとめ」。
第二話は、日本列島の形成を経て、縄文時代早期~後期の紀元前12000年~前3500年までをカバーします。
Q. なぜ日本では狩猟採集生活が長く続いたのだろうか?
この時代はどんな時代なんですか?
―今から1万4000年前ころから、地球の気候は暖かくなるんだよ。
今までは、寒い気候では体の大きな動物のほうが元気だったから、ナウマンゾウとかマストドンのような大きなゾウのような動物がたくさんいた。
でも、暖かくなると体のコンパクトな動物のほうが有利なので、いままで人間が獲物にしていた動物がいなくなってしまったんだ。
それでは食べるものがなくなってしまいますね。
―そう。そこで、ウサギ、イノシシ、シカといった小さな動物をねらうようになったんだ。
今のアメリカ合衆国ではウマがたくさんいたんだけど、おそらく人間による狩りのしすぎで絶滅してしまった。
その後一時的に「寒(かん)の戻り」(注:ヤンガードリアス期)があったことも、人間に追い打ちをかけた。
人間は生き延びるためにどうしたんでしょうか?
―そこで、場所によっては植物や動物を育てる技術も開発されるようになる。
はじめからうまくいくとは限らないからね。狩り・釣りや採集と組み合わせながら補助的に導入される場合が多かった。
狩りや採集は環境や運にも左右される。それに何より一人が生きていくためには、とても広い土地が必要だ。だから人口もなかなか増えていかない。
それにくらべ、植物や動物をコントロールすることができれば、必要なときに必要な食べ物を計画的にゲットすることが可能になる。
自然にあるものを「取る」生活から、自然に手を加えて食べ物を「生み出す」生活への転換だ。
じゃあ日本列島でも農業や家畜の飼育がはじまったんでしょうか?
―ううん、日本では狩り、魚釣り、そして植物の採集が主流だ。
「となりのトトロ」に出てくるような鬱蒼(うっそう)と茂った森が想像できるかな?
「となりのトトロ」は観たことないですが、なんとなくはわかります。
―神社の境内(けいだい)のなかに生えているシイの木とかクスの木は、葉っぱに「テカり」があるよね。冬になっても葉っぱは落ちない常緑樹の一種で、照葉樹という。
当時の日本は、西日本の山から低地、そして東日本の低地に、この照葉樹林が広く覆われていたことがわかっている。
長年にわたる開発を経た現代の日本では、天然の照葉樹林はほぼ皆無といっていいほど消滅してしまっているけどね。
シイの木には、ドングリがなりますよね。
―そうそう。だからこれを採集して食料にしていたんだ。
ポットで煮れば柔らかくなるし、すりつぶして焼けばクッキーになる。
ポット(注:土器)は木の実に含まれる成分を化学変化させ、アク抜きするという効果もあった。
縄文時代のはじめのころには、この木の実などの豊富な食料を基盤に、南九州に大規模な定住集落が現れている。
定住していたのはいつからですか?
―すでに紀元前7500年には定住集落(注:ムラ)があったようだ(注:南九州の上野原遺跡)。
え、それって弥生(やよい)時代のことじゃないんですか?
―「定住」っていうと弥生時代のイメージがあるよね。稲作の。
でも、べつに農業しなくても食料が豊富であれば定住集落は成り立つ。
世界各地をみてみても、例えば北アメリカ大陸の北西海岸では、狩猟・漁業・採集だけでかなり大きな定住都市が建設されていた(注:トリンギット人)。
現代のトリンギット人(https://www.datuopinion.com/tlingitより)
縄文時代イコール移動生活ではないんですね。
―そう。さらに一部では植物の栽培もおこなっていたとみられている。
農業まで?
―動物に食べられないため。そして、人間に都合の悪い植物を分離し、都合の良い植物や品種を確保するためだ。
「おいしい」品種を見つけたら、そりゃあ確保したくなるからね。
木の実だけでなく、ヤマイモのような芋類も重要な炭水化物源だった。
土から掘り返すために打製の石斧(いしおの;せきふ)が用いられ、よく育てるために森林を切り開く努力もなされていたという。
人間と自然との関わりに変化が生まれていったわけですね。
―そうだね。
先ほどの南九州の遺跡では、前5500年前に宗教的な儀式がおこなわれていた痕跡が見つかっている。
しだいに「人間の世界」が「自然の世界」と区別されていくことにもつながったとはいえ、まだまだ人間は「自然の恵み」と「自然の猛威」と向き合って暮らしていた。
前5500年というと、世界の人たちはどんな生活をしていたんでしょう?
―すでに人間は、アフリカ、ユーラシア、オーストラリア、南北アメリカに広がり、それぞれの気候に適応し、それぞれの文化を営んでいた。
農業や家畜の飼育もすでに各地で始まっていて、特に西アジアでは早いうちから小麦の農耕やウシなどの飼育を基盤として、大規模な都市も誕生している。
いずれも日本と違って気候の厳しい乾燥気候で、生き抜くため編み出された生活スタイルだった。
のちに日本に伝わることになる稲作も、すでに中国の長江という川の流域ではじまっていたようだ。
農業が行われるようなった地域では、水くみや料理のためにポット(注:土器)が使用されるようになるのだけれど、なかでも日本の土器は世界最古級と考えられている(縄文土器が最古かどうかは定説なし)。
日本の土器には模様がついてますよね。
―縄目の模様だから、縄文土器というんだよね。
現代に暮らすわれわれにとって普段つかうコップの模様っていうのは、「自分の好み」とか「好きなキャラクター」「しっくりくるデザイン」くらいの感覚しかないかもしれない。機能さえよければ、無地でもいいよね。
でも、当時の日本列島人とって、満足に食べ物を得るということが、生き抜くためになによりも必要不可欠なことだ。
平均寿命はなんと推定31歳(野生のサルとだいたいおなじ)。
そのために必要な土器というのも、人間が自然界からいただいた土を、自然界からいただいた火と燃料の木を使って焼いて、ようやく作ることができるものだ。
きっと「ふしぎな力」が宿る道具だったんでしょうね。魔法みたいな。
―そう。まさに「魔法の道具」だ。
その「魔法の道具」に描かれた模様というのには、必ずや当時の縄文時代の人々のアタマの中身が反映されているに違いない。
でも…
もう縄文時代の人々にインタビューはできませんね―
―その通り(笑)
文字の資料(注:史料)も残されていないからね。
だから、残された遺物や環境から、彼らの精神構造を推測するしかない(注:考古学)。
または、彼らの考え方の「根っこの部分」が、その後の日本列島の人々の「考え方」や「感じ方」に影響を与え、なんらかの習俗としてサバイブしているんじゃないかと考えることもできる(注:民俗学)。
実際にそのようなアプローチから、縄文土器は、生命のエネルギーをもたらす月のパワーを水に注入するための道具だったのではないかと大胆に推論する研究者もいる。
「わからない」ってところが、逆に神秘をかきたてますね。
―そうだね。
ただひとつ言えることは、まだこの時代の日本列島には、ユーラシア大陸に栄えていたレベルの都市や文明はうまれていなかったってことだ。
1万年もの長きに渡った縄文時代に対して「想像力が豊かだっただな」「自然の恵みにあふれていたんだな」と思いがちかもしれないけれども、実際の生活はそんなに生易しいものではなかったはずだ。
逆に1万年間の間、ほとんど変化がなかったってこと自体、「安定」していたっていえるのかどうか、微妙なところですね。
―自然環境の影響もかなり大きかったからね。
じっさい、約5300年前には、鹿児島県で火山(注:鬼界カルデラ)の大噴火があって、当時の九州全域はおろか西日本一帯に破局的被害をもたらしている。
縄文文化はいったんここで途絶えてしまったんだ。
そんなこともあったんですか…
―それに縄文文化っていっても、地域によって文化の差はかなりある。
「鎖国」していたわけではないからね。
北の世界とのつながり、ユーラシア大陸からの影響、南方のオセアニアとの交易など、さまざまなところにルーツがあるはずだ。
実際に縄文人は手漕ぎの丸木舟を使い、伊豆諸島のかなり南の方にも交易拠点を持っていたんだ。
以上で第二話 前12000年~前3500年の「"世界史の中の"日本史のまとめ」は終わりです。「第三話 前3500年~前2000年」に続きます。
今回の3冊セレクション
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