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ダイバーシティ世界史Vol.1 フィリピンのバスク人

古来、人や物がさまざまな地域を行き交い、多様な文化が各地で織りなされてきました。そんな世界各地に見られる多様性(ダイバーシティ)の事例を、世界史の流れの中に位置付けつつご紹介していきます。

コンビニスイーツ「バスチー」(バスク風チーズケーキ)が話題となっているバスク地方。

今回は「バスク」と「フィリピン」の接点についてご紹介します。


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1.バスク人ってどんな人たち?

イベリア半島北部、現在のスペインからフランスにまたがって暮らすバスク人は、バスク語という古い時代の言語の特色を残す言葉を話しています。

まわりに親戚にあたる言葉を持たない言語を「孤立語」というのですが、バスク語もその一つ。ローマやゲルマン人の支配の手が伸びぬまま、山々で自分たちの文化を守り抜いてきたのです。



日本に初めてキリスト教を伝えた、あのザビエルもバスク人です。


しかし、異質な文化を持つバスク人は、その後も「迫害」の的となり、アメリカ大陸を中心に世界中への移住の波が続きます。

なお第二次世界大戦前夜のスペイン内戦(1936~1939)では、ドイツの新兵器の”実験台”として小さな街ゲルニカが爆撃されるという悲劇も経験しました。


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2. どうしてバスク人がフィリピンに?

バスク人の住んでいるエリアを見てください。

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大西洋岸に接していますね。


古来、船の操縦に優れていたバスク人は、仕事や活躍の場を求めて積極的に海外に出て行きます。
武器や工業製品の原料となる鉄鉱石の産地であったこともその要因です。


かのマゼランの世界一周計画の際、マゼラン亡き後の艦長を引き継いだエルカーノもバスク人でした。


バスク人はスペイン王国の拡大とともに世界各地に広がっていきますが、フィリピンは16世紀以降スペインの植民地になります。

現在のフィリピンの首都であるマニラを築いたレガスピという総督もバスク人なのです。


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3. フィリピンのバスク人といえば?


スペインの植民地時代、バスク人は支配階層に溶け込んでいき、中国系の人々と並んで経済的に強い力を発揮しました。

その後、スペインからの独立運動が起きますが、スペインとの戦争(1898年のアメリカ・スペイン戦争)に勝ったアメリカが、強引にフィリピンを植民地化していまいました。


その後、日本の占領を経て、第二次世界大戦後に独立を果たします。

その後公用語がスペイン語から英語に切り替わるとスペイン語を話す人は減っていきます(フィリピンの言語についてはこちらを参照)が、それでも現在のフィリピンの財閥の多くはバスク系。その存在感は健在です。


フィリピン最大のショッピングモールもバスク系財閥(アヤラ財閥)によるものです。



4. まとめ

いかがでしたでしょうか。

このようにスペインでは少数派である「バスク人」はフィリピンの社会にも少なからぬ影響を残しているのです。

ちなみに「バスク風チーズケーキ」が、本当に「バスク風の」チーズケーキかというと、そういうわけでもないみたいですね^^;  


トップ画像はBasque Girl is a painting by Belita William which was uploaded on July 23rd, 2011


(みんなの世界史)


参考

●バスク人Youtuberによるカンタンな説明(英語)


バスク人の航海技術については、以下が読みやすいと思います。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊