見出し画像

16.2.1 途上国の民主化 世界史の教科書を最初から最後まで

アジアの状況

開発途上国の中には、強力なトップダウンの政策で、国をまとめて豊かにしようとする政策(開発独裁)をとることで、1970年代に工業化が進展したNIEs(新興工業経済地域)が生まれた。

しかし、経済の発展とともに1980年代末からは高等教育を受けた中産層も増加し、政権党以外に複数政党制を認めたり、政権交代を前提とした制度改革を進めようとする民主化運動が盛んとなっていく。
1967年にインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンにより結成されていた東南アジア諸国連合(ASEAN、アセアン)も、域内の経済強力や自由化をめざすようになっていった。

しかし、1997年にはタイを震源地としてアジア通貨危機が発生し、タイのバーツをはじめ各地の通貨の価値が下落。


韓国などアジアのNIEs諸国(新興工業経済地域)にも波及し、経済成長は一時ストップした。


ラテンアメリカの状況

ラテンアメリカでは、1973年と1979年の二度の石油危機などの影響をうけて、1982年にはメキシコが深刻な債務危機におちいった。

一方、工業化が進んだことで、各国では中産階級が増えて、「開発独裁」をふるう政権(軍政の場合もある)が1980年代に倒され、選挙で民主的に選ばれるリーダーが生まれていった。
これを「民政移管」という。

たとえば、アルゼンチンでは、1982年にイギリスとの間に、大西洋上に浮かぶマルビナス諸島(フォークランド諸島)の領有権をめぐる戦争が勃発。


これに敗れた軍事政権が1983年に打倒された。


ブラジルでも1985年に民政移管となった。


チリではもともと1970年に〈アジェンデ〉(1908〜1973、在任1970〜1973年)をリーダーとする左翼連合政権ができていたのだが、アメリカ合衆国のニクソン政権がこれを警戒。

史料 アジェンデの人民連合政府発足に際する演説(1970年11月5日)
 新しい社会の最終目標は合理性のある経済活動の実施と、生産手段の漸進的社会化と、階級分裂の克服にある。…人民権力とは何か。人民権力とはわが国を長い間低開発状態に押し留めてきた少数者を支える基盤をなくすことを意味する。われわれは独占に終止符を打つだろう。それは一握りの一族による経済支配を許してきた。われわれは致富のための財政制度を廃止するだろう。それは常に金持ちよりも貧乏人に負担を課し、国の蓄積を銀行家の手に集中させ、あくなき致富への欲望を満足させてきた。…われわれはチリのために基本的資源を回復するだろう。銅・石炭・鉄・硝石の大鉱山をわが人民の手に取り戻すだろう。

歴史学研究会編『世界史史料11』


1973年に〈ピノチェト〉(1915〜2006、在任1974〜1990年)を中心とする軍部のクーデタで倒された後、軍事独裁政権が続いた。


しかし、1983年に経済危機が起きると、軍事独裁政権は批判され、1988年の国民投票で民政移管が決められた。


韓国

アジアで民主化がすすんだのは1990年代である。

もともと韓国では〈朴正熙〉(パク=チョンヒ、在任1963~79)の在任中の1960年代に「漢江(ハンガン)の奇跡」という経済成長が起きた。
同時代の開発独裁としては、インドネシアの〈スハルト〉(任1968~1998)、シンガポールの〈リー=クアン=ユー〉(李光耀、任1959~90)、マレーシアの〈マハティール〉(任1981~2003)やフィリピンの〈マルコス〉(任1965~1986) が挙げられる。
先進国から企業や資本を導入して、輸出向けの製品を生産することで工業化が目指されたのだ。
一方、朝鮮民主主義人民共和国では、〈金日成〉による独裁政治が維持されていた。

しかし1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。


実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ、さいけいか)首相が大統領を代行し、非常戒厳令を出した。
しかし混乱の中で〈全斗煥〉(チョン=ドゥファン;ぜんどかん) 【東京H27[3]】が軍の実権を握り、1980年2月に起きた学生ら10万人による民主化運動を武力で鎮圧し、約200人もの犠牲を出した。これを光州(クワンジュ;こうしゅう)事件という。


首謀者として〈金大中〉に死刑が求刑されたが、執行はされなかった。

〈全斗煥〉は1980年9月に大統領に就任し、強権政治が続行。
彼の在任中には経済成長が実現して国際収支が改善。
1983年に大韓航空機撃墜事件(ルートを外れたサハリン上空で、ソ連の戦闘機に大韓航空機(民間機)が撃墜された事件)や、1983年のビルマにおける〈全斗煥〉暗殺未遂事件が起きるなど、北朝鮮との関係は不安定なまだった。

経済成長の進展とともに富裕市民(「中産層」)からの民主化の要求も生まれ、〈全斗煥〉と長年行動を共にしてきた〈盧泰愚〉大統領(ノ=テウ)によって1987年に民主化が宣言される。
同年12月の新憲法下で行われた大統領選挙で、〈盧泰愚〉が野党の〈金泳三〉〈金大中〉らに勝利し、建国以来初めての選挙による政権交代が実現。
〈盧泰愚〉が勝利し1988年にはソウル=オリンピックが開催され、

1990年にソ連、1991年に北朝鮮(初の南北首脳会談とはならなかったが、国連への南北同時加盟)、

1992年に中華人民共和国との国交を回復させるなどの成果を挙げた。


しかし、野党が多数を占める国会で〈全斗煥〉や〈盧泰愚〉に対する不正追及の姿勢をみせると〈全斗煥〉は1988年に政治の舞台から引退し、政局が混迷する中で1992年に〈金泳三〉(キムヨンサム)が大統領に当選し、翌1993年に就任した。32年ぶりの文民出身の大統領だった。
彼は光州事件を民主化運動として再評価し、1995年には〈全斗煥〉と〈盧泰愚〉を逮捕している。
1996年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟し国民所得も上昇しましたが、1997年には財閥の倒産を発端とした経済危機が発生し、1997年末からは通貨危機が始まってしまう。
政党数が増加して政界再編が進む中、1997年にかつての民主化運動のリーダー〈金大中〉(キム=デジュン、きんだいちゅう、在任1998~2003)が当選し、1998年に就任。

しかしタイのバーツ安に始まるアジア通貨危機のあおりも受けウォン安が進行し、韓国政府はIMF(国際通貨基金)に支援融資を要請する。
550億ドルの融資と引き換えにIMFによる厳しい韓国経済構造に対する介入が始まった。
〈金大中〉は禁止されていた日本大衆文化を解禁し、2002年の日韓共催ワールドカップも決定しました。また、北朝鮮に対しては、2000年に北朝鮮の〈金正日〉(キム=ジョンイル、最高指導者在任1994~)と会談(2000年の第一回南北首脳会談)し、南北融和の「太陽政策」をとった。



2003年には〈盧武鉉〉(ノムヒョン)が大統領に就任、2008年には〈李明博〉(イミョンバク)が大統領に就任した。
2013年には〈朴正熙〉の娘であるセヌリ党(元ハンナラ党、のち自由韓国党)〈朴槿恵〉(パク=クネ、任2013~2016)が初の女性大統領に当選し、中華人民共和国との連携を強めた。



インドネシア

インドネシアは1968年以降、軍人出身の〈スハルト〉大統領(正式大統領任1968~1998)による親米政策と、外資の導入による強権的な国内開発をすすめていた。
しかし、1997年にタイを発端するアジア通貨危機の影響を受け、1998年にジャカルタで暴動が発生すると〈スハルト〉は退陣に追い込まれる。


後任には副大統領〈ハビビ〉(任1998~1999)が就任し、民主化を推進。総選挙の結果、国民覚醒党の〈ワヒド〉(任1999~2001)が大統領となった。
その後、闘争民主党の〈メガワティ〉大統領(任2001~2004)、民主党の〈ユドヨノ〉大統領(任2004~2014)、闘争民主党の〈ジョコ=ウィドド〉(任2014~)と続いていく。
初の非エリート・非軍人の出自をもつ〈ジョコ〉大統領は2014年のAPEC首脳会議で中国の〈習近平〉国家主席と会談し、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を表明、「海洋国家構想」を掲げた。


インド

非同盟の立場をとりつつも計画経済をとってきたインドは、1980年代からは「緑の革命」という農産物の生産量をあげる品種改良や技術革新を進めた。効率重視の方策は農村部では貧富の差という“影”も落としたが、その後の工業化の進展に寄与することになった。

独立後、政権は「インド国民会議派」がにぎっており、ガンディーのコネクションの政治家による統治は “ガンディー王国” とも揶揄(やゆ)された。
しかし、1977年の選挙で、インド国民会議派から政権交替を果たした人民党(ジャナタ党)の〈デーサーイー〉首相(1977~79)は、もともと国民会議派だったが、さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていた。
そこで、1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し、首相に就任。初のバラモン階級ではない首相だった。

しかし、第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し、80年の選挙ではまた国民会議派の〈インディラ=ガンディー〉が首相に返り咲く。
同年には、人民党から離脱した人々がインド人民党(BJP)を結成し、「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」というヒンドゥー=ナショナリズムの運動を発展させていくことになった。


その後〈インディラ=ガンディー〉は、アムリットサルにあるシク教寺院を攻撃したことから、1984年にシク教徒により暗殺。



後を継いだ息子の〈ラジーヴ・ガンディー〉(1944~1991、任1984~89)は、スリランカ内戦に介入し、インド平和維持軍を派遣。

スリランカからタミル人が難民として移動してきたことに対応し、アメリカや中国が内戦に介入する前に内戦を収めようとしたのだが、スリランカ情勢は泥沼化して1990年に撤退。さらに、スキャンダルで支持を失い、辞職後にはスリランカのタミル人の暴力的な組織 (LTTE(タミル・イーラム解放のトラ))に暗殺された(辞職後の1991年)。

その後、インド人民党は1998年に政権を掌握。〈ヴァージーペーイー〉首相(バジパイ、任1996,1998~2004)の下、パキスタンを牽制するために核実験を実施(1998年インドの核実験)。
ICT(情報通信技術)産業を育成し、アメリカ合衆国にも接近して経済の自由化を推進したのはこのインド人民党だ。
こうして「巨象」インドは、2000年代前半には新興国(BRICs)の一員に数えられるようになった。
その後2004年に国民会議派の〈マンモハン=シン〉首相(任2004~14)に政権交代(初のシク教徒の首相です)したが、

2014年には再びインド人民党の〈モディ〉首相(任2014~)に交替している。

インドは今なお多くの貧困層を抱え、その背景には根強いカースト制度の影響力が残存する。インドの人口の15%を占めるといわれるダリットは、かつて不可触賤民といわれ、カースト制度の底辺に属する人々です。彼らの地位向上運動も盛んになっている。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊