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7.1.3 明朝の朝貢世界 世界史の教科書を最初から最後まで

前回の鄭和の南海遠征に刺激される形で、中国の明を中心とした朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)が広い範囲でおこなわれるようになった。



特に、現在の沖縄に成立した琉球王国(りゅうきゅうおうこく)や、マレー半島南西部のマラッカ王国が、恩恵を受けた国の代表例だ。



イスラーム教を採用したマラッカ王国


特にマレー人のマラッカ王国は、

インド洋と東南アジアを結ぶ「通り道」にあたるマラッカ海峡を支配していることから、これまで勢力の強かったジャワ中心のマジャパヒト王国(ヒンドゥー教の国)を圧倒。


15世紀後半には、マラッカ王国君主はイスラーム教を採用するようになり、インド洋西部のイスラーム勢力との結びつきも強め、いっそう繁栄していくことになった。


15世紀のタイではアユタヤ朝がマラッカ海峡の物流ルートを求め進出したけど、マラッカ王国はそれをもはねのけた。



明の制度を導入した朝鮮

一方、同じく明に対する朝貢で栄えたのが朝鮮半島の朝鮮(チョソン;ちょうせん)だ。

明にならって科挙を整備し、内容も明でオフィシャルな考えとされた「新儒教」(朱子学)が採用された。

しかし、なんでもかんでも“明が偉い”というんじゃ、つまらない。

15世紀前半の世宗(せいそう;セジョン、在位1418〜50年)のときには、

韓人の言葉を表記するための独自の文字である訓民正音(くんみんせいおん)が開発された。

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訓民正音は、母音と子音を組みあわせ、すべての音を表現しようとする合理的なつくりになっている特徴的な文字で、現在ではハングルと呼ばれるよ。金属活字も使用され、出版事業もさかんとなった。

史料 訓民正音
「わが朝鮮国の語音は中国とは違って漢字と互いに通じないので、漢字の読み書きができない民は、言いたいことがあっても、その意をのべることのできない者が多い。私・世宗はこれを憐れに思い、新たに28字を作った。人々が簡単に習い、日々用いるのに便利にさせたいだけである。」

趙義成『訓民正音』平凡社、2023年、10頁。

以下のように導入に対する反対の声もみられた。

史料 崔万里等諺文反対上疏文
「一、わが朝鮮は初代国王からこれまで真心を尽くして大国たる中国に仕え、ひたすら中華の制度に従ってきました。今は中華と行動を共にする時であるのに、諺文をお作りになったことに対して、驚きをもってこれを見聞きする者があります。ひょっとすると、諺文はみな古い字に基づいており、新たに創作した字ではないとおっしゃるかもしれません。しかし、字形が昔の篆文を模倣しているとはいえ、音を用いて字を組み合わせるやり方は悉く古いものに反しており、全く根拠がありません。もし(この諺文が)中国に流出して、(正しくないと)これをそしる者がいたら、大国に仕え中華を慕うのに恥ずかしくはありませんか。」

趙義成『訓民正音』平凡社、2023年、139-140頁。



明との朝貢貿易に乗り出した足利義満

日本海をはさんだ日本列島では、京都の武家を中心とする室町幕府の3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)が、倭寇退治の功績をアピールして明に朝貢し、「日本国王」のポジションを認められた。

この権威をバックに、正式な貿易船であることを証明するための勘合(かんごう)という割り印を利用した貿易(勘合貿易)がさかんとなった。

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幕府は、決まった年に明に対して使節を派遣。

その一団に博多(はかた)や大阪の堺(さかい)の大商人がくっつき、中国滞在の合間に貿易をおこなう形式がとられたのだ。

しかし、15世紀後半の応仁の乱(おうにんのらん)により幕府の体制がいよいよ崩れると、幕府でキーパーソンをつとめていた細川氏堺商人とコラボ)と大内氏博多商人とコラボ)が独自に明に使節を派遣しようとし、明から発行される「勘合」をめぐる対立が勃発した。



やがて大内氏のほうが優勢になると、これを覆そうとする細川氏との間に中国の港町 寧波(ニンボー;ねいは)で戦いが起きることになる(寧波の乱)。


ベトナムは黎朝が統一

明の永楽帝の軍を撃退してハノイを都に建国された黎朝(レ;れいちょう、1428〜1527、1532〜1789)は、明と朝貢関係を結び、朝鮮と同様、明の制度を受け入れた。朱子学を振興した点も、朝鮮と似ているね。


騎馬遊牧民グループ オイラトによる攻撃をうける

しかし、明が外交関係に苦戦したのは北方の騎馬遊牧民たち。


すでにチンギス=ハン直系の子孫はとだえてしまい、

①モンゴル高原は、東部のチンギス=ハン直系ではないモンゴル系の諸部族と、
②西部のやはりチンギス=ハン直系ではないオイラトという騎馬遊牧民グループに分かれて抗争する状況となっていた。

このうち1449年には、②西部のオイラトが強大化。

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君主はチンギス=ハン直系の子孫でもないのに「ハン」を名乗ったエセン=ハンは、明の皇帝 正統帝(せいとうてい、在位1435〜49、1457〜64年)

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を捕虜にしてしまう屈辱的な事態を引き起こしている(土木の変)。


これを機に明はモンゴルに対する攻撃的な姿勢をあらため、万里の長城を改修するなどして、騎馬遊牧民たちの攻撃に備えることとなる。現在残されている立派な万里の長城は、明の時代に改修されたものなんだ。
遊牧民の侵入をなんとしてでも防ごうとする“執念”が感じられるよね。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊