"世界史のなかの"日本史のまとめ 第10話 大規模環濠集落の出現と戦争の増加(紀元前後~200年)
Q. 日本の有力者たちは、なぜ中国に使いを送ったのだろう?
―この時代にはユーラシア大陸では「西の横綱」ローマと「東の横綱」中国が、それぞれ巨大な国の代表格となっている。
A: 騎馬遊牧民のアラン人。 B: フン人やテュルク語系の騎馬遊牧民。 C: 騎馬遊牧民の鮮卑(せんぴ)。
1: 遊牧民出身のパルティア王国は、農業エリアの い(メソポタミア)に進出してローマと争った。1からは 月氏という騎馬遊牧民も う に移動して、そのまま 2: 北インドに入って え: ガンジス川流域の農業エリアも支配に入れた。
3: 遊牧民との最前線では漢が栄えており、農業エリアを中心に支配している。
良い気候だったんでしょうか?
―この時期は世界的に温暖な気候に恵まれていたようだ(注:古代温暖期)。
日本も例外ではない。
お米がたくさんとれるようになれば、集落のサイズも大きくなりそうですね。
―そうだね。
日本では文字による記録が残されていないため、のこされた物からどんな社会だったのか判断するしかないけど、当時の中国では「歴史や周辺の地理」について記録する文化があったため、それが手がかりになることがある。
どんなことが記録されていたんですか?
―中国史料では、日本列島のことは倭(わ)と表現されている。
これはあくまで地理的な名称で、統一した国家を意味しているわけではない。
日本列島はどんな状態だったんでしょうか?
―この時代には、大集落(注:ムラ)がさらに発展して小国(クニ)となって、互いに抗争していたとみられる。
稲作により食糧生産が増えると、その取り分をめぐる争いが激しくなっていったわけだ。
どんな勢力があったんでしょうか?
―前の時代にみたように、近畿地方では銅鐸,中国地方では銅剣,九州北部には銅矛・銅戈(どうか)が出土される。
中国地方といっても、日本海側(注:出雲)と瀬戸内海との間でも、お墓の形状に違いがある。
その形状の違いからこれらの地域ごとに何らかの政治的なまとまりがあったのではないかと考えられているよ。
青銅器は日本でも作られていたけど、鉄器は朝鮮半島から取り寄せるしかなかったんですよね?
―そうそう。しかし、朝鮮半島に拠点を安全に築くことができたのもつかの間。当時の北部中国の王国である漢(注:途中で一旦途絶えてしまい、この時期のはじめ頃に復活。「後漢」として区別される)
漢は強大な軍事力を持っていたから、日本の有力者が個々に拠点を押さえようとするのは心もとない。そこで各地の有力者は束になって連合を組み、漢の「許し」を得ようとする。
この時代の前半には日本の九州地方の博多(はかた)にあったとみられる奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が、漢に使いを送っているよ。
おそらく奴国の王は多くのクニのうちの有力な一つだったのだろう。
中国の対応は?
―中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にした。
これを冊封(さくほう)という。
このことは『後漢書』に「建武中元二年(年の名前),倭の奴国・・・光武(当時の皇帝の名前)賜ふに印綬を以てす(家来に特別な「ハンコ」と「ハンコ入れ」を与えた)」というふうに記録されているけど,その解釈をめぐっては異論もある。
「ハンコ」って福岡県で見つかったやつですよね?
―そうそう。福岡市博物館に入ると、入り口はいってすぐのところに展示されているよ。
その後も中国との外交はあったんでしょうか?
― 中国の歴史書(注:『漢書』)によると、「安帝(皇帝の名前)の永初元年、倭国王帥升等(注:「すいしょう」と読む説が有力。詳細不明)、…生口(注:奴隷と考えられる)百六十人を献じ…」という。
その後、この時代の終わり頃、小さな国家どうしが争う大規模な戦乱があったと、『漢書』は伝えている(注:倭国大乱(わこくたいらん)。
戦争の激化にともない、各地には防御的機能を備えた高地性集落もつくられるようになっていく。交易ルートをめぐり、日本列島のさまざまな勢力が朝鮮半島の勢力と関係を持っていたとみられるよ。
京都市にあった高地性集落。敵の侵入を見渡しやすい
(長岡京市埋蔵文化財センターHPより)
その後の日本の中心地は近畿地方になるんですよね?
―そうそう、さっき紹介したように近畿地方にも政治的に大きな勢力があった。
次の時代になると、北九州、瀬戸内海の勢力も合わせた政治的な同盟関係が形成されていくことになるよ。
中国は日本と反対方向との交流は持っていたんですか?
―ユーラシア大陸の中央部への進出を強め、中国の特産品は西のほうのローマ帝国にまで届いていたようだ。
この交易ルートは中国の特産品である「絹(シルク)」からとって、シルクロードと呼ばれる。
東京大学仏教青年会HPより
大きな国や商業の発展によって社会が大きく変わると、そのぶん争いも増えるよね。ユーラシア大陸の西部の地中海周辺ではキリスト教、南部のインドでは仏教のように、「人種や民族を越えたすべての人間に通用する思想」が発展していくのもこの頃だ。
この時期のはじめころに西アジアのパレスチナというところで生まれたのが、キリスト教のルーツとなる人物だ。
そんな時代にあたるんですね。
南北アメリカ大陸の状況はどうですか?
―この時代になっても、ユーラシア大陸やアフリカ大陸との関わりはほぼ皆無だった。
単純に進み具合が「速い」とか「遅い」とか決めることはできないけど、ユーラシア大陸に比べるとスローペースだよね。鉄、馬、戦車がないことが一番の理由だろう。
南北アメリカは南北(タテ)方向に長く伸びているから、長い距離を移動するとなると気候の変化が大きく大変だし、ユーラシア大陸に比べると季節風も使えない。
というわけでユーラシア大陸では貿易ビジネスで利益をあげる国が、陸でも海域でも現れる。もちろんアメリカでも貿易は行われているけど、規模が違うね。
こういう状況は長く続くんでしょうか?
―ユーラシア大陸の巨大な国では支配システムを整備して繁栄を迎えるけど、しだいに問題点も見えてくる。
ローマにしろ中国にしろ、「拡大することが繁栄につながった」面があるけど、拡大には限界があるから、そこで行き詰まってしまうというわけだ。
社会が安定すると人口も増えそうですね。
―そうなんだ。
でもたとえ人口が増えたとしても、食料の生産にはスピードに限界がある。
ふつう食料の生産スピードは、人口の増加スピードに追いつかないんだ(注:マルサスの罠)。だからどこかで結局無理が生じるわけだ。スピードに追いつこうとすれば開発のしすぎで環境破壊になるしね。
追い打ちをかけたのは、この時代の後半から次第に気候が変動していったことだ。
どんな影響があったんですか?
―中国では2世紀の頃から自然災害が増え、水害、干ばつも多発した。イナゴの大量発生や疫病、地震も報告されている。
当時の人々はどんな対応をしたんでしょうか?
―天人相関説といって、天災が多発するのは地上の支配者がだらしないからだって信じられていたこともあって、政情は不安定になっていった。
でも「火事場のバカ力」ってやつで、ピンチになった分、それを克服しようとする人も現れているね。
漢方のルーツとなった医学者や、地震計や天球儀を開発した科学者なども活躍した。
また、病気を「まじない」によって治療する集団(注:太平道)が現れるのもこの時期だ。世の中が大変な時期に、もう一度秩序を取り戻そうと「儒学」の持つ力も注目されているよ。
アメリカ大陸の様子はどうですか?
―アンデス山脈の方面で、神殿を中心に広い範囲を越えて支配する指導者が現れるよ。現在のペルーというところでは巨大な「地上絵」を大地に描いて雨乞いの儀式を行う人々もいた(注:ナスカ文化)。
今回の3冊セレクト
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊