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6.2.1 東アジアの勢力後退 世界史の教科書を最初から最後まで

ユーラシア大陸で「トルコ人の西方への大移動」が起こっていた頃、

東アジア各地も激動の時代に突入していた。


中国では、トルコ系とイラン系の両親を持つ武将(安禄山(あんろくざん;アンルーシャン))の反乱をきっかけに唐の支配は打撃を受け、907年に滅亡。


その後、黄河流域ではトルコ系の軍事政権(突厥(とっくつ)系)を含む王朝が短期間のうちに興亡した。

このとき華北に立った5つの政権をまとめて「五代」(ウーダイ;ごだい)という。



モンゴル高原では、トルコ系のウイグルが西に移動してしまったため、モンゴル系のキタイ人(中国では契丹(きったん)と呼ばれた)が主導権をにぎった。
キタイの君主は916年に「大」(だいりょう)を名乗り、「皇帝」という中国王朝の称号まで名乗ることに。


さらに唐が滅亡すると、926年に唐と外交関係を結んでいた中国東北地方の渤海(ぼっかい)を滅ぼし、936年には華北で中国の「皇帝」を名乗ったトルコ系の王朝(後晋(こうしん))の建国を助けた代わりに、現在の北京から大同までを含む万里の長城に二重に挟まれた農耕エリア(燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう:イェンユン シーリウ ジョウ))を割譲(かつじょう)させている。


唐が滅んだ後の中国は、トルコ系やモンゴル系の騎馬遊牧民の影響をもろに受けていることがよくわかるよね。


朝鮮半島の変化

なお朝鮮半島でも、唐と外交関係を結んでいた新羅(しらぎ;シルラ)に代わり、王建(おうけん;在位918〜943年)が開城(かいじょう;ケソン)を都に高麗(こうらい;コリョ、在位918〜1392年)という王朝を建てた。




雲南地方の変化

また中国東南部の山奥、雲南(ユンナン;うんなん)地方でも、南詔(なんしょう)に代わって、タイ系の大理国(ダイリーグオ;だいりこく、937〜1254年)が建国されている。


北ベトナムの変化

ベトナム北部でも、10世紀後半にようやく中国から独立した国が建てられ、1009年には李氏が王朝をはじめ「大越国」(ダイベト;だいえつこく)を称したよ。



東アジア各地に生まれたオリジナリティ

このように唐という“親分”がいなくなり、中国の求心力が緩んだ分、東アジア各地の民族は独自の“キャラ”を披露していくようになったんだ。


たとえば、高麗では国家プロジェクトとして仏教教典の大規模なコレクション(『(高麗版)大蔵経(だいぞうきょう))がつくられた。

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コーティングに鉄成分を混ぜることで独自の青みがかった発色を出すことに成功した、高麗青磁(せいじ)も発達していく。

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また日本では、もともと794年に現在の京都に都がうつされ、ここで天皇中心の古来のヤマトの文化と、唐の最先端の文化をミックスさせた貴族政治がおこなわれていた。
でも、9世紀に入り、いよいよ唐の政情が不安定になると、唐との外交・通商・留学を行うための遣唐使(けんとうし)は停止。


唐の律令制度を参考にした統治システムも、うまくいかなくなってしまった。

その一方、漢字を中心とする中国文化の基礎の上に、日本風の特色が加えられ、「仮名文字」や「大和絵」(やまとえ)に代表される国風文化(こくふうぶんか)が栄えていく。
「和」と「漢」の絶妙なミックスは、その後の日本文化のベースとなっていくよね。


12世紀末になると、関東の武士グループのドンであったミナモトノヨリトモ(源頼朝、1147〜99)が、平安京の政権にパラサイトしていたタイラノキヨモリ(平清盛)ら平氏という武士グループや、ライバルの家族・親類を蹴散らした。
そして、鎌倉に立法・行政・司法機関を設置(川合康「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」)。


京都の街並みを模して街路を整備したほか、鶴岡八幡宮を信仰の対象としたよ。

こうして日本列島では、平安京を中心とする天皇・院(引退後の天皇)・貴族・寺社グループとともに、鎌倉を中心とする武士のグループが折り重なうように支配する、複合的な体制が発展していくことになる。

面白いのは、同時期には日本だけでなく、朝鮮半島の高麗でも「武人」による政権がおこっていたことだ。


中国の変化

一方その頃の中国では、華北に都を置いたの五代(ウーダイ;ごだい)の政権のほか、各地域にいくつもの地方政権が並立する状況となっていた。

南方の地方政権を、まとめて「十国」(シーグォ;じっこく)というよ。
それぞれの地域で農業生産を高め、商業を活発化。
華北との戦乱は続くけれど、漢人を中心として文芸の栄えた時代でもあった。


たとえば現在の浙江省にあった「呉越」(ごえつ)は、この時期に河川・運河の開発を大規模におこなって農業生産力をアップさせ、東アジア各地との貿易で繁栄している。




騎馬遊牧民や周辺民族の“キャラ”が強まっていった一方で、中国の文化は唐の時代のような「イラン文化などに代表される国際色豊かではなやかな文化」から、「中国独特の地味で幽玄な深みと味わいを持った文化」に移っていくことになる。
もはや唐の時代のように、中国が周辺諸国の上に立つことは難しくなり、周辺諸国から貢物を持って来させる「朝貢貿易」も衰退した。
しかし逆に考えてみると、統一的な「皇帝による貿易のコントロール」がなくなったということは、各地の政権や民間による貿易が活発化していくきっかけとなることも確か。


中国南部の沿岸では、唐代に引き続き広州(ゴワンジョウ、こうしゅう)、泉州(せんしゅう)、明州(ミンジョウ、めいしゅう)、

現在の寧波(ニンポー、ねいは))などの港が繁栄をみせた。寧波はもともと日本からの遣唐使の到達ポイントだったところだね。

これら港には市舶司(シーボースー;しはくし)という官庁が置かれ、積荷への課税や出入国管理が行われたんだ。

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