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14.2.2 国際協調と軍縮の進展 世界史の教科書を最初から最後まで

第一次世界大戦という未曾有(みぞう)の被害を出した戦争が終わってからも、しばらくの間、戦争は続出した。

その多くはヴェルサイユ体制で決められた国境線や講和の条件に対するクレームから。


トルコ共和国のクレーム

オスマン帝国滅亡後に「トルコ人」の国として建国された「トルコ共和国」では、軍人ムスタファ=ケマル(1881〜1938年)のリーダーシップのもと、隣国ギリシアと戦った(ギリシア=トルコ戦争)。

トルコはオスマン帝国が協商国と結んだ講和条約(セーヴル条約)で失った領土の一部を回復。
あらたにローザンヌ条約を、協商国側と結ぶことに成功した。

アナトリア半島に住んでいたギリシア系住民(多くがキリスト教徒)はギリシア側に強制送還され、逆にギリシア側に住んでいたトルコ人(イスラーム教徒)も移住を余儀なくされた。

長い間、互いに混ざり合って共存していた場所だったにもかかわらずだ。

「民族自決」の影の側面ともいえるね。

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ポーランドのクレーム


1920年には、あらたに独立したポーランドが1920年にできたばかりのソヴィエト=ロシア政権に侵攻。
ポーランドはベラルーシとウクライナの一部をゲットした。

そもそもポーランドには、ソヴィエト=ロシアで実現した「革命によって労働者の国を建設する」という”危険思想“をブロックするという使命が期待されていた。

ポーランドにはある意味、ソヴィエト=ロシアの「革命思想」が西に拡大しないようにする“防波堤”の役割が期待されていたのだ。



イタリアのクレーム

第一次世界大戦中に、秘密条約で協商国側に寝返っていたイタリア王国にいたっては、あらたに成立したセルヴ=クロアート=スロヴェーン王国(のちのユーゴスラヴィア王国)との間にさっそく国境紛争を起こし、沿岸の重要拠点フィウメを獲得している。

「「イタリア人の住むエリア」をイタリア王国に取り戻せ!」というスローガンから、当時のイタリアでは民間グループたちも街頭でさかんに愛国的な活動を展開していた。



このように、あたらしく国境線を引くというのは、カンタンなことではないことがよくわかるよね。



ヴェルサイユ体制の危機

第一次世界大戦直後の不安定な情勢は、さっそく1923年にピークに達する。


「ドイツが決められた賠償金を支払わない」と、フランスとベルギーがドイツに侵攻してしまったのだ(ルール出兵)。

「これはまずい」と、ヨーロッパ諸国が動き出したのが1924年以降のこと。


1925年にスイスのロカルノで開かれた会議(ロカルノ会議)で複数の条約が締結された。
ロンドンで正式に調印されたいわゆる「ロカルノ条約」では、ドイツの西部の国境の「現状維持」がさだめられ、ラインラントに武装してはいっちゃダメ(ラインラント非武装化)や、国際紛争が起きた時には武力じゃなく仲裁裁判で解決しましょう、といったことが取り決められた。

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左からドイツ外相(元首相)シュトレーゼマン、イギリス外相 オースティン・チェンバレン、フランス外相 ブリアン



ドイツの侵攻に“神経質”なフランス世論も、この条約によってひとまず平和が保たれたと納得。


翌1926年にドイツは国際連盟への加入が認められた


一方、ヨーロッパの協商国に、巨額の貸付をおこなっていたアメリカ合衆国の銀行家たちにとっても、ヨーロッパの安定は 投資した分を回収するために不可欠。
1928年には、アメリカ合衆国のケロッグ国務長官(1856〜1937年)

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が動き、フランスのブリアン外務大臣(1862〜1932年)とともに不戦条約を提唱した。



国際紛争を解決する手段として、戦争をしちゃダメだというのが内容だ。
2人の名をとってブリアン=ケロッグ条約とも呼ばれるこの条約は、当初15か国によって調印されたこの条約。

注意するべきは「戦争をしちゃダメだ」とは言っていない点。
国際紛争を解決する手段として」は、ダメだと言っている。
ただ、条件付きの禁止とはいえ、戦争を否定する内容の条約が国際間で結ばれたというのは画期的なこと。

大国の支配者が集まって会議をひらき、すべてを決定していた大戦前までのヨーロッパ諸国とは大違いだ。



ヨーロッパの大国に限定されていたヨーロッパの国際社会は、大戦後には小国も含む複数の国が参加する「国際社会」へと拡大していったわけだ。
こうした1924年以降の「平和ムード」のことを、国際協調とか、国際協調主義(インターナショナリズム)というよ。



国際協調の動きは1930年にロンドンで開かれた軍縮会議(ロンドン会議、アメリカ・イギリス・日本の補助艦の保有比率を10:10:7とするもの)頃まで続くけれど、1929年にアメリカ合衆国を起点に広がった世界恐慌(せかいきょうこう)により、「平和ムード」は一転、「自国のことを第一に考える政策」に変化していくことになってしまう。




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