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3.1.2 スキタイと匈奴 世界史の教科書を最初から最後まで

文献で確認できる証拠をたどると、最初の遊牧国家はロシア地方の南黒海(こっかい)という湖の北岸に広がる乾燥草原に生まれた。


前6世紀頃(今から2600年ほど前)に出現したスキタイだ。
彼らの記録を残したのは、古代ギリシア人のヘロドトスという歴史家。黒海の北岸に分布し、中には農業に従事していたスキタイ人のグループもいたようだ。

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スキタイは西アジアの美術の影響も受け、独特な動物文様の金製品を発達させていったことでも知られるよ。

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つづいて前4世紀(今から2400年ほど前)になると、黄河の北方の乾燥エリアの山地に匈奴(きょうど、ションヌー)が、遊牧民のさまざまな氏族・部族を従えて国家を組織。
定住農耕民の中国にとって大きな脅威となった。




中国の農耕エリアで戦国時代に突入し、農耕民と平和的に交易をおこなうことができなくなったため、中国の王様と張り合うことのできる強力な指導者が求められたのだ。


地図を逆さまにすると、遊牧民側の視点に立って考えることができるよ。


そもそも「匈奴」という、なんともいかめしい名前がついているのは、中国人の歴史家が彼らの名前を聞いて、適当な漢字を当てたからだ。「奴」という漢字なんて、あきらかに悪い意味の漢字だというのはわかるよね。遊牧民の暮らしは低レベルで野蛮なものとされ、「中華」の反対である「夷狄」(いてき)とみなされたのだ。

匈奴は、ライバルの遊牧国家の月氏(げっし;ユエジー)や烏孫(うそん;ウースン)を撃退。
その王は「単于」(ぜんう;チャンユー)という称号で呼ばれ、(テングリ)という神に対する儀式が盛大に行われた。天を神としてあがめるところは、東アジア世界の共通項でもあるね。


農耕エリアの中国を統一した始皇帝が亡くなると、前3世紀末(今から2200年前頃)に即位した冒頓単于(ぼくとつぜんう;モードゥンチャンユー、在位前209〜前174)が、分裂した中国に狙いを定めた。
混乱を収めて中国で前漢の皇帝となった劉邦の撃破に成功する。ただ、その後武帝の代には逆に攻め込まれ、モンゴル高原への退却を余儀なくされてしまった。


冒頓単于は、オアシス商業エリアにも進出しようとし、ここに影響力を持っていた月氏を撃退。

月氏はしかたなく、天山山脈北部のイリ川方面に逃げたのち、さらに西のアム川(アムダリヤ)上流へと退散することになった。

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このように広い範囲に影響力をおよぼした匈奴だけど、前1世紀中頃(今から2100年ほど前)には東西に分裂。騎馬遊牧民の世界ではよくあることだね。


その後、変化が訪れるのは4世紀(今から1700年ほど前)のこと。
気候が寒冷化したことで、生活が厳しくなり、ユーラシア大陸の草原地帯で騎馬遊牧民の活動が活発化したんだ。

いわば”環境難民”の形となって、中国の農耕エリアへの進出をはかったのが、現在の朝鮮半島の北方で国家を建設していた鮮卑(せんぴ;シェンベイ)という遊牧民ほか、さまざまな遊牧民グループ(まとめて中国人は「五胡」(ごこ;ウーフー)と呼んだ)たちである。



ユーラシア大陸の西部では、フン人が移動したことでローマ帝国が大混乱に陥ったことは、前にローマ帝国のところでチェックしたよね。



鮮卑が中国に入って「中国人」化した後、空白エリアとなったモンゴル高原では柔然(じゅうぜん;ロウラン、5〜6世紀)、突厥(とっけつ;トゥーヂュエ)、ウイグル(回鹘;フイグー)といった遊牧国家が次々に興っては分裂していくよ。これらの遊牧国家は匈奴や鮮卑の教訓も生かして、より効率的に農耕エリアやオアシス商業エリアを支配できる方法を模索していくことになる。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊