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15.2.3 西欧・日本の経済復興 世界史の教科書を最初から最後まで

第二次世界大戦後間もなく、ヨーロッパは「地域でまとまる」動きを強化していった(【←戻る】15.1.2 東西ヨーロッパの分断)。

その背景には、二度の大戦への反省と、ヨーロッパの地位低下への焦りがあった。

まずフランスのシューマン外相による提案(シューマン・プラン)をもとにして、1952年にフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)のあいだに石炭と鉄鉱資源を共同で管理し、ゆくゆくは市場の統合をめざすヨーロッパ石炭鉄鉱共同体(ECSC)が発足された。

ECSCの加盟国は、1957年にローマ条約を締結。
1958年には史上統合をさらにすすめるヨーロッパ経済共同体(EEC)と、原子力の平和利用をすすめるヨーロッパ原子力共同体(EURATOMユーラトム)が発足した。

資料 ヨーロッパ共同体設立条約(ローマ条約) (抄訳)

第1条 条約を結んだ国は、ヨーロッパ経済共同体設立条約に基づいて条約を結んだ国同士でヨーロッパ経済共同体(以下、共同体)を置く。
第2条 共同体の目標は、参加国による共同市場の設置や経済政策を少しずつ共通させていくことにより、参加国同士の経済格差をなくし共同体全体での発展をめざし、参加国同士の関係をさらに良好なものにしていくことにある。
第3条 上の目的を達成するために、共同体の参加国は、この条約の内容にしたがって、下の活動を行う。
 a 参加国同士が貿易を行う際には、輸出入の関税は廃止するとともに、輸出入量などについても制限を加えないこととする。
 b 参加国以外との輸出入の関税や貿易政策については参加国で話し合い決定する。
 c 参加国の人、サービス、お金や物など資本の移動についての障害はすべて取り除き自由に行えるようにする。
 d 参加国同士が同じ農業政策を行う。
 e 参加国同士が同じ運輸政策を行う。


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西ドイツの経済の奇跡

連合国に敗れたドイツのうち、東側は「西ドイツ」(ドイツ連邦共和国)、東側は「東ドイツ」(ドイツ民主共和国)として別々の国としてやっていくことが1949年に宣言されていた。

このうち西ドイツは、キリスト教民主同盟の〈アデナウアー〉(任1949~63)が長期政権を維持。日本の高度経済成長と同様に,アメリカ合衆国との関係を重視することで,「西ドイツの奇跡」とも呼ばれる経済復興を成し遂げる。

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アデナウアー


戦後のイギリス

イギリスのかつて誇っていた国際経済における影響力は,この時期急速に低下。60~70年代のイギリスの経済・社会の停滞を“イギリス病”とも呼ぶこともある。
世界に冠たる植民地帝国という“過去の栄光”が,もはや足かせになりはじめていたのだ。

1951年に労働党から政権を取り返した保守党の〈チャーチル〉首相は、後任を〈イーデン〉首相に引き継ぐ(1953年には女王〈エリザベス2世〉(位1953~)の戴冠式が執り行われた)。

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イーデン

この政権の時には、1956年にエジプトの〈ナセル〉大統領がスエズ運河の国有化を断行。
なんのことやらと思うかもしれないけど、イギリスにとっては一大事だ。


19世紀のイギリス(大英帝国)を思い出してみよう。

世界中に物流と電信のインフラを張り巡らせ、積荷と情報を握ることによって揺るぎない地域を手に入れ、「パクス・ブリタニカ」(イギリスが広い範囲に覇権を及ぼしているために、大きな揉め事が起きない状態)が続いたのだ。

その物流の要となったのが、エジプトのスエズ運河である。
地中海とインド洋を結ぶスエズ運河は、ヨーロッパがアジアの貿易に食い込むためには必要不可欠な要所である。

だからイギリスはエジプト王国を保護国化。第一次世界大戦後に独立を認めたもののスエズ運河だけは手放さなかった。



その運河を、エジプトの新指導者ナセル1952年にエジプト革命によって王政を廃止し、権力を得た若手将校)が国有化したというのだから、大変だ。彼は「イギリスのいなくなった西アジアで、これからはアラブ人を中心とする世界を建設していこう」と呼びかけた(アラブ民族主義)


フランス、イスラエルとともに派兵し第二次中東戦争が勃発した(どうして「第次」なのかは後々勉強していこう)。



スエズ運河はイギリス・フランスの合弁企業が管理しており、管理権は両国の政府がもっていた。
アメリカ合衆国の〈アイゼンハワー〉大統領はこれに対し伸長な姿勢をみせ国務長官〈ダレス〉も交渉による解決を目指した。
アメリカ合衆国が賛成してくれるとの読みが外れたイギリスとフランスは,アメリカ合衆国とソ連の圧力に屈し国連安全保障理事会で「平和のための結集決議」が採択され、国連緊急総会が招集。
その中で,イギリス・フランス・イスラエルは即時停戦を求める総会決議を受け、イギリス・フランス、のちにイスラエルも停戦した。
停戦後には、カナダの〈ピアソン〉外務大臣の提唱でエジプトに平和維持活動(PKO)が派遣されている。

スエズ戦争を通して、国際的な権威を失ったイギリスの〈イーデン〉首相は敗戦の責任に加え、内政の失敗や健康の不調も重なり辞任し、1957年には〈マクミラン〉蔵相が首相(任1957~1963)を引き継いだ。


その後もイギリス帝国の崩壊は止まらず、1957年には西アフリカのゴールドコースト(黄金海岸)が、かつて西アフリカで映画を誇った「ガーナ王国」(現在のガーナとは無関係)にちなんで「ガーナ」という国名でが独立。初代大統領はンクルマだ。



“アフリカの年”といわれる1960年にはナイジェリアが独立。

1960年には南アフリカ連邦で国民投票が行われ、イギリス女王に対する忠誠を誓うことをやめ、共和国に移行することが決められた。。
南アフリカ共和国は,かつてのイギリスの植民地や自治領であった国の加盟するゆるやかな国家連合である「イギリス連邦」(コモンウェルス)に加盟し続けることを希望したが、アパルトヘイトという人種隔離政策を実施していることが他国の批判を浴び、1961年に脱退している。


そんなイギリスは、ヨーロッパ統合の動きに対抗するべく、1960年にオーストリア、スウェーデン、スイス、デンマーク、ノルウェー、ポルトガルとともにヨーロッパ自由貿易連合(EFTA、エフタ)を結成
加盟国が域外からの商品に共通関税をかける仕組みをとると、オーストラリアとかカナダなどのイギリス連邦からの輸入量が多いイギリスには不利となるため、共通関税をかける政策はとられなかった。そのためEFTA加盟国間の貿易はなかなか活発化しなかった。

そこで1961年には、先にフランス・西ドイツ・イタリアなどで進められていたEEC(イーイーシー,ヨーロッパ経済共同体)への加盟を申請したのだが、フランスの〈ド=ゴール〉大統領が反対したため頓挫
フランスのド=ゴールは 、弱り目であったイギリスを外すことで、覇権を目指そうとしたのだ。

そんな下り坂モードのイギリスにおいてひときわ輝いていたのが、リヴァプール出身のロックバンド、ビートルズだ。
かつて奴隷貿易で栄えたリヴァプール出身の四人組は、アイルランド音楽や黒人音楽など様々な音楽を吸収し、「イエスタデイ」(1965)などでクラシックの弦楽四重奏を導入するなど革新的なサウンドで世界中の若者をロックのとりこにした。
65年には〈エリザベス女王〉から勲章も与えられている。

彼ら自身はどちらかといえば下層の中産階級出身だったが、メディアはこぞって「労働者階級」の英雄として取り上げた。



60年代後半には「ミニスカート」が一世を風靡し,女性モデル・俳優の〈ツィッギー〉(1949~)が活躍するなど、アメリカとは一味違った消費文化を引っ張る役目を果たした。


しかし“イギリス病”は止まらない。
戦後復興を果たした西ドイツや日本の追い上げに対抗し、1967年に輸出を増やすためにポンドの価値を下げるなどの策を講じるものの(ポンド切り下げ)、海外への軍隊の駐留が予算をひっ迫させるようになっていった。

第二次中東戦争の後も,スエズ運河地帯に駐留していたイギリスは、〈ウィルソン〉首相(任1964~70,74~76)のときに1968~1971年にかけて、ついにスエズから撤兵

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ウィルソン首相


1971年までにはシンガポールとマレーシア連邦からも,撤兵させている。


また,アフリカ南部のローデシアでは、黒人差別撤廃に反対する現地の白人の支持を受け、1965年に独立が宣言された(1979年まで実効支配は続いた)。ローデシアでは広い農園や鉱山を白人が握っており、イギリスの存在感が弱まることに危機感を抱いたのだ。


なお、大戦後のイギリス国内では旧植民地にルーツを持つ人々の比率も高まった。かつての植民地であったインド、パキスタンなどから仕事を求めて労働力が流れ込んだのだ
1976年には人種関係法が定められ人種、肌の色、出身国、民族等に基づく差別を禁じている。「イギリス人としての一体性」にも変化が生まれていたのだ。

なお、ヨーロッパの経済統合組織であるEECは、1967年にヨーロッパ共同体(EC)へと発展。
1967年の加盟申請はフランスの〈ド=ゴール〉大統領の反対を受け頓挫していたのだが,保守党の〈ヒース〉首相(任1970~74)は接近をこころみ、1973年にデンマークとアイルランドとともに加盟に成功した(拡大EC)。

ながらく「一匹狼」を貫いて来たイギリスも、ヨーロッパの組織に加盟せざるをえないといるという状況にまで来ていたのだ。
このECがのちにEUへと発展。2020年にイギリスが脱退したのはEUだ。



しかし、折からの第一次石油危機により経済成長率はマイナスになると、1974年からは〈ウィルソン〉労働党政権が発足。
しかし1976年に突如辞任すると、〈キャラハン〉政権(任1976~79)が発足。IMF(国際通貨基金)からの借款を受け,経済の立て直しを図った。


イギリスを構成する諸国でも分離傾向が進み,スコットランドではスコットランド国民党(SNP)、ウェールズではウェールズ国民党が地方議会で労働党を追い抜いている。

プロテスタント系住民の多い北アイルランドでも、イギリスとの連合を維持しようとするユニオニスト(宗教的にはプロテスタント)と、アイルランド系のカトリック教徒との間の対立が激化。アイルランド独立運動に関与していたアイルランドの武装組織IRA(アイルランド共和軍)から、暴力的なIRA暫定派が分離して武装路線を強め,1972年にはアイルランドのロンドンデリーで「血の日曜日事件」が勃発した。
北アイルランド紛争の激化である。



戦後のフランス


フランスでは、植民地だったアルジェリアをフランスから切り離すかいなかをめぐる問題に対し、アルジェリアの独立勢力(アルジェリア民族解放戦線)の動きが活発化。

チュニジアモロッコでは、フランスへの暴動が起き、1956年に独立を達成。しかし、両国には数百万人ものフランス人入植者(コロン)が居住しており、その処遇は大問題となった。

アルジェリアでも、コロンやフランスの駐留軍が、植民地における反フランス運動を止めることができない政府(第四共和制)に対する不満が高まり、駐留軍が反乱する大混乱に発展した。

そんな中、1958年に大統領に選出されたのが〈ド=ゴール〉(任1959~69)だ。

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ド・ゴール


彼は大統領権限を強化した新憲法によって第五共和政を成立させた。

そしてアメリカとソ連のどちらの側にもつかない独自外交をすすめていく。

例えば、60年にアルジェリア南部のサハラ沙漠で核実験、

62年にアルジェリア独立を承認、

64年に中華人民共和国を承認、

66年にNATOの軍事機構からの脱退を通告した。

66年には、アルジェリアで核実験ができなくなったので、太平洋のフランス領ポリネシア(タヒチの近く)にあるムルロア環礁での核実験を実施。


“ヨーロッパ人のヨーロッパ”を提唱し、1962年には西ドイツ復興の立役者(たてやくしゃ)〈アデナウアー〉首相(任1949~1963)と会談。
両国の提携を確認した。


このフランス=ドイツの提携をパリ=ボン枢軸ということがあり、1963年のエリゼ条約により両国の会合は定例化された。フランスとドイツ(西半分だけだけど)が手を組むなんて、第二次世界大戦前には考えられない情勢だ。
ともに協力してアメリカ合衆国,ソ連の経済圏(東側世界)に政治・経済・軍事的に対抗しようとした。


けれども〈ド=ゴール〉の“ヨーロッパ”の地図の中にイギリスは含まれていなかった。
1963年にイギリスがEECへの加盟を申請したものの、〈ド=ゴール〉の反対により幻に終わる。


イギリスがヨーロッパにすり寄っている時点で、かつての「大英帝国」の覇権が失われていることがよくわかるよね。

〈ド=ゴール〉はこのように強力な改革を推し進めていったのだが、68年に「大学の自治が脅かされている」として、学生や労働者がゼネストを実施(五月革命)。ド=ゴールの強権的な手法が「世代の対立」として問題視されたのだ。

この年は、アメリカ

日本において、

さらに中華人民共和国のプロレタリア文化大革命の紅衛兵など、

学生が直接参加する大衆運動が世界規模で盛んとなった年だ。
『存在と無』『嘔吐』を著した実存主義の哲学者〈サルトル〉(1905~80) は、若者たちに社会参加を呼びかけ、運動の中心となった。事実婚の相手〈ボーヴォワール〉(1908~86)は、フェミニズム(女性主義) の立場から女性の権利向上を目指した思想家だ。

喧騒の中、〈ド=ゴール〉は1969年に退陣することになった。


戦後の日本

1955年に自由民主党が成立して以降、長期政権を維持した
1956年には日ソ共同宣言が結ばれ、国際連合にも加盟。ただしソ連の占領する北方領土問題が懸案となり、平和条約は結ばれなかった。

1960年代にかけて日本は「高度経済成長」を実現。1960年の日米安全保障条約改定の際には大きな国内的対立が生まれたものの、条約は改定されることになった。1964年には東京オリンピックを開催。1965年には日韓基本条約が締結されている。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊