桃花源記

3.2.3 社会経済の変化 世界史の教科書を最初から最後まで

後漢の末から南北朝に分裂する時代を通じ、地方で影響力をもっていた有力者のことを、歴史学的には「豪族」というよ。

教科書に書いてある言葉の中には、この「豪族」のように、当時の人たちが使っていたわけではなく、後世の人々が分析するための言葉として作った言葉も混ざっているから注意しよう。
また、日本の歴史に登場する「豪族」というグループとは別モノだから、それにも注意。

史料 後漢の政治家・崔寔(さいしょく、?〜170年)の『政論』
「豪族は巨万の富とたくわえ、大名のように広い土地をもち、賄賂で役人を買収して国の政治をうごかし、ごろつきを養って民をおどしつけ、罪なき人びとを殺すなど、横暴の限りをつくしている。……だから普通の農民はほんのわずかの土地もなく、親子ともども首をうなだれ、小さくなって奴隷のように豪族に仕え、妻子ともどもこれに使役されている。豪族なぜいたくな毎日を送っているのに対して、貧乏人はいつまでたっても奴隷のようなみじめな暮らししかできず、衣食にも事欠くありさまである。一生働き通しても、死んだときに葬式さえ出せない。ちょっとした不作の年には、家族はちりぢりになり、妻子を売ったりしなければならない。まったく農民の生活は、なんのために生きているのかと言いたいほど、痛々しいものである。」

柿沼陽平『中国古代の貨幣―お金をめぐる人びとと暮らし』吉川弘文館、2015年、150-151頁



彼らの中には山のひとつやふたつを持ち、多数の小作人や奴隷を抱えている者もいて、地方に配属されたひよっこの役人では、とてもじゃないけどコントロール不能。
鉱山や農地の利権獲得のため、中央の役人の中にも豪族とグルになる者すらいた。

そんな中、前漢の皇帝武帝の時代以降、地方の豪族が「コネ」で中央の役人になれちゃう制度(郷挙里選)ができたものだから、豪族の横暴は止まらない。

「どうにかしないと」というわけで、三国時代の魏のときにつくられた改善策が九品中正(きゅうひんちゅうせい)という制度だ。
これは、中央の役人が地方の豪族の子供や親族を9等級にランク付けして、それに応じて中央の役人に任用しようというもの。


しかし、結局のところ高いランクに就けるのは、家柄の良い有力者。
根本的な解決にはならず、むしろ家柄を固定し、歴史学的に「貴族」と呼ばれるグループを生み出す結果となっていったんだ。
こちらも「豪族」と同じく、当時はなかった言葉だよ。

詩人として名高い謝霊運(しゃれいうん;シエリンユン)は、謝氏という名門貴族の出身。

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書の達人 王羲之(おうぎし;ワンシージー)も、琅琊(ろうや)の王氏という名門貴族出身だ。
彼らはアート(書画)の文化や仏教・儒教・道教の担い手として、一目置かれる存在となっていく。

当時のエリート貴族の間で流行した清談(せいだん)という”哲学トーク”も、政治的な失言による左遷を避けるためだったとも、自分の教養の高さを示しキャリアアップにつなげるためだったとも言われている。琴の名手 嵆康(けいこう;ジーカン)や、”白眼視”で知られる阮籍(げんせき;ルァンジー)率いる竹林の七賢という一団が有名だね。

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一方、戦乱の多いこの時期に土地を失った農民は、「貴族」をはじめ地方の有力者がもつ私的な土地の働き手として吸収されていった。
国のコントロールを逃れた彼らの土地を荘園(しょうえん)といい、穀物、野菜、家畜、海産物、手工業製品を、なんでも自給自足できてしまうほどの経済力を有していたんだよ。



魏はそうした状況に一石を投じようと、流れ者の農民に土地を与え、兵隊としても働かせる屯田制(とんでんせい)という制度を始める。
晋の時代の占田・課田制や北魏の均田制も、土地を国のコントロール下に置き、税収を確保させようとする政策の例だった。

しかし、東晋の詩人の陶潜(とうせん;タオユェン)が『桃花源記』で描いたように、なかには戦乱を避けて山奥深くで自給自足の生活を送る集団もあって、なかなか効果はあがらないのが現実だった。

桃花源記





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