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自己開示のこと

 自分が大学2年生になるかならないかくらいのころ、他の人との会話がなぜかめちゃくちゃにつまらなく感じるようになった。

 そのときには原因がなんだったのかは結局わからずじまいだったけれど、意外にも自分ではそのことにとても悩んでいた。高校のころは、学校に自分が友達だと思えるような人間はひとりもいなくて、唯一所属していた軽音楽部にいる同学年で違うクラスのアコギ弾きだけが毎年の文化祭でデュオのライブをしたりするほどの仲だった。自分のクラスでは毎日昼休みにイヤホンで音楽を聞きながら「かもめのジョナサン」やら村上春樹やらを読んでいたのを覚えていて、それはそれでなんだかんだ自分の中では充実していた気がする。幸いなことに自分の高校は男子校だったので、へんな見栄のはりあいみたいなものもなく、フルぼっちだった僕もいわゆるいじめの対象になったりすることはなかった。それどころか、その当時は比較的クラスの中でも英語ができる人間だったので、あいつは英語と音楽が好きな変わり者、みたいな独特のキャラクターとしてある程度は見てもらえていた。高校3年間の中でTwitterやFacebookで連絡先を知っている友達はひとりもいなくて、そういう意味でも高校生活で僕が人間関係で悩んだり苦しんだりすることは全くなかった。

 家でも、親には学校で友達とかいないということはちゃんと打ち明けていて、それはそれであまり心配はしていないようだった。それよりももっと謎だったのは、友達もいないのにほぼ毎日休まず学校へ登校していた僕の律儀さだったらしい。いくら学校がつまらなくても、自分の中で学校をサボってゲーセンへ行ったり満喫で時間を潰したりするという考えは全くなかった。それ以前に僕の学校はアルバイトが禁止で、親も毎日必要最低限のお金しかくれなかったので、そう考えると色んな意味で拘束されていたのかもしれない。

 話がそれた。とまあ、こんなことがあって大学へ入るまでは普通に数カ月人と会話をしないなんてこともザラで、授業で初めて声を出すから一回咳払いをしないとかすれて声がでないなんてのも普通にあった。そんなこんなもあって、僕は人とどうやってコミュニケーションをとっていいのか、というところがよくわからなくなってしまった気がした。

 高校の頃に軽音楽部に入っていたことが幸いして、僕は大学でも軽音楽研究会に入ることにした。実際にはギターよりもプログラミングをするほうが今思えば自分は好きだったけれど、そんなことよりもまずは大学で自分のいられる場所を作るほうが大事だった。大学に入って驚いたのは、高校と違って、自分が常にダラダラしていていい場所、つまり高校で言えば自分の机にあたるものがどこにもなかったこと。当たり前だけど。そういう意味ではサー室というのはとてもありがたい存在で、自分の知ってる人間だけが集まる温かい場所だった。大学入学直後は、ほぼ毎日授業の合間ごとにサー室に出入りしていて、その当時僕の持っていたスマートフォンがバッテリーの容量が少なかったこともあり、スマホを充電しにくる新入生の子、みたいな印象を先輩には持たれていた。実際には、学内には探せばわりとコンセントが使える場所はあったが、まだ大学に入ったばかりで、かつ数年間もコミュニケーションから離れてきた僕にとって、知らない人間で溢れかえる大学はそこかしこがあまりにも心の落ち着かない場所だった。

 ここでようやく大学2年生の初めにはなしが戻ってくる。大学2年生の初めともなると、ようやく大学にも慣れてきて、サークル以外で、学科にも同期の友達ができてきた。そうなると、ほとんどサー室には行かなくなった。サークルの学内ライブにも何度か出たが、なんともあたりまえのことではあるけれど、練習をしなければギターがうまくならないということが自分にとってはストレスだった。加えてそもそもうまくなりたいほどギターが自分は弾きたいのかというとそうでもなかった。楽器自体は中学から涼宮ハルヒの憂鬱の影響を受けて始めたものの、ギター自体への情熱は高校在学中でほとんど燃え尽きていた気がする。

 そのころの自分がなんとなく感じていたのが、他の人が楽しく話していることが自分にとっては特に面白くなかったということだった。例えば、複数人のクロストークでは誰かがなにかをはなすが、自分以外のみんなが笑っている話題が自分にとっては何も面白くないことが頻繁にあった。なんだそんなこと、と今回想すると思えるが、そのときはもしかして自分がおかしいんじゃないか、ということに本気で悩んでいた。大学に入り、サークル、学科そのほかいろんな関わりの中で対人コミュニケーションが生まれたところで、ふと自分の違和感を感じたのだと思う。ただ、結果から言うと、その悩みは自分の中で解決することになった。つまり、ある日ふと「あっ、これは自分がおかしいんじゃなくて、他の人たちがみんなおもしろくないだけだわ」というどこかからの神託を受けた。そのときの心の晴れ方は本当に半端ではなくて、自分の周りのなにもかもが自分を中心に回っているのだという清々しい気持ちに心打たれた。今思えば、これは本当にベストな選択肢に足を踏み入れていたと思う。偶然にも。

 ただ、自分でも認めるところではあるが、自分はあんまりコミュニケーションが得意ではなかった。なぜコミュニケーションが得意じゃないのか、というようにもう少しこのことについてブレイクダウンしてみると、そもそも僕は自分が興味のない物事に集中力を傾けるのが得意ではなかった。だから、他人との会話、とりわけ雑談があまり好きではなくて、会話の話題が急に興味のない話題になると、会話へのエネルギーがあっという間になくなってしまう。概して他人のする会話に興味がないというのは僕の周囲の、とくに男友達は多くが同意してくれるところではあるが、その「興味のなさ」の度合いが、僕はどこかしらパンピーの範疇を超えているような気がするわけだ。それも、困ったことに割と態度や顔にその感情がでてしまう。こいつは本当に困りごとだ。この「興味のない態度」は、ある程度仲のよい友達になると、それはそれで受け入れてもらえるものではあるけれど、あまり親しくない間柄でやられると、この僕でも「なんじゃこいつは」という態度になる気がするわけだ。

 これ自体は予てから自分の中で認識していた僕のコミュニケーション上の弱点ではあったのだが、ここ最近で加えてふと感じたのは、会話の中でそもそも自分自身の自己開示をしていることがあまりないのではないか、ということである。というのも、自分の中では、たとえば初対面の人となにか会話をするときに、そもそもその関係のコミュニケーションが盛り上がらないというのは当たり前で、そんなに深い会話をすることがまずないという前提が長きにわたってずっとあったからだ。当然ではあるけれどこの考え方は間違えていて、それを言い始めると大学で仲のよい友達はなぜ僕のことを理解してくれているのかという疑問には答えられない。人によっては僕はどうやらある程度の自己開示をしているようではあるけれど、他の人と比べるとその量はあまり多くないと思う。とはいえ、自分以外でどれくらいの人たちが、どれだけ自己開示をしているのかということを考えると、思い返して見る中ではみんながみんな自己開示をしているとは思えない。もちろん、自己開示をするタイミング、しないタイミング、この2つがそれぞれあることは間違いないけれど、これはもしかすると自分自身が相手に対して自己開示をしてこなかったから相手のことを知ることができずに終わってきたのではないかということだ。たとえば、あの人は自分とは特段仲のよい関係とは言いづらいが、他の人とは仲がよい、というのはそこに彼・彼女らのあいだで然るべき自己開示があるから、というわけである。

 なるほど言われてみればまったく当然のことではあるけれど、端的に自分は他人とのコミュニケーションが下手なのだ、という思い込みではこの考え方は出てこなかったように思う。この考え方に至ったひとつのエピソードとして、あるイベントでの経験に触れたい。そのイベントはとあるIT系のイベントで、自分は初参加でちょっとは緊張していたのだが、自分が会場に着き、イベントの開始を一人で待っていると、となりに座ってきたお兄さんが話しかけてきたのだ。これ自体は特段面白おかしいことではない。そもそもイベントで人に話しかけるというのは普通だ。彼が一味違ったなと自分で思うのは、会話のバトンが彼に渡ったときの彼の会話の量が明らかに僕とは違うというところだ。つまり主導権が彼にあるときには、彼は自分の経験や持論を展開するし、相対的に会話の量は多い。ただのおしゃべりと言われてしまえばそれで終わりではあるが、おしゃべりであることがここでの本当の強みだ。ともすると「自分の話ばかりしすぎてうざいと思われないか」「この話題は他の人にとってつまらないんじゃないか」みたいな、単純な他人からの評価軸という恐怖はいつでも僕の頭にある。思い返してみれば、小学生や中学生の頃にこんな心配をしたことはなかったし、自分の会話について考えをめぐらしすぎることも全くと言っていいほどなかった。大学に入り、これまでの自分の活動圏とは全く異なる人種のひとたちと一緒になったり、インターンを経験して社会人のコミュニケーションというものに触れるにつけ、自分自身を積極的に自己開示するということに対して「怖い」という気持ちを持ってしまうようにもなる。この原因にはもしかすれば、高校の頃の経験も関係しているのかもしれない。

 けれど、僕が感じる僕自身の自己開示に関するひとつの障害となっていたのは、そもそも「怖い」というものではなく「諦め」だった。どうせ自分のことを話しても相手には興味は持ってもらえないだろうという、行動に移す以前の自分自身の正当化だったのだ。これはある意味では「怖い」という感情への回避行動なのかもしれない。確かに、自己開示をすることで自分が認められない、というところには「怖さ」がある。だが、相手が自分をDisるかそうでないか、という問題以前に、自分自身がまず自己開示をしなければ、それ以降のコミュニケーションが先へ進むかは分からない。僕はコミュニケーションをしようとする姿勢を持つまえに、はなっから相手のことを諦めていた。

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