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都立第一商業の改革も4年目へ。ロジックモデルをなくし、"手放した"改革へ。 #学びのライナーノーツ

文:代表・石黒和己

#学びのライナーノーツNPO青春基地の代表・石黒による、連載はじめます。題して「学びのライナーノーツ」。現場でおきている出来事から感じた、気付かされた学びのこと、教育のことを綴ります。とても不定期だと思いますが。

2018年から始まった東京都立第一商業高校での学校改革。3カ年の連携協定のなかで取り組んできたが、今年、5カ年の学校改革へとアップデートして取り組むことになった。

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あらためて想定外の未来をつくる、とは

3年間という節目をこえて、思うことはたくさんある。
わたし自身や組織に大切な変化をもたらしてくれたからだ。この3年間、わたしもチームと一緒に駆け抜けてきて、"長期的に向き合うぞ"という覚悟で掲げた「3年」というスパンは、公立高校という組織開発には相当短く、今では「たった5年間」でどこまでできるかな、と捉えるようになった。
それはなぜか。わたしたちは「課題解決」ではなく、「(価値)創造」をしていきたいと思うようになったからだ。

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写真:3年前プロジェクトが始まった時。当時の大林校長と。

私たちが関わっている都立第一商業高校は、進路多様校の公立高校。日本の公立高校は慢性的に予算が少なく、トップ校でないと特に苦しい状況にある。また時代の変化のなかで「商業高校」の存在意義が問われており、本校も例に漏れず、その迫られる変化と現実の難しさのあいだで悩んでおり、課題意識は強い。
でも、それらの課題を解決するために、わたしたちは取り組んでいない。そうではなくて組織のビジョンとしてかかげている言葉でもあるが、子どもたちや公立高校の未来に「想定外の未来」をつくるために取り組んでいるんだ、とわざわざ言い直したい。
掴みにくい言葉かもしれないが、想定外の未来、とは、”こうあるべき”という正解や道筋や、”自分はこんなもんかな”、という惰性ではなく、自分が好きな世界と出会ったり、新しい自己表現を見つけたり、心をゆるせる友だちと出会えたり、心動かされる出来事がおこること。誰も予測できない結果のことだ。あるべき姿に導くのではなく、一人ひとりが想定外のなかで未来をつくりだしていく、そんな教育のあり方を「生成」とよんでいて、私たちは学力や経済状況にかかわらず、この生成としての学校づくりを目指して、この取り組みを進めている。

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写真:初年度に奮闘してくれた学生インターンたち

ロジックモデルから卒業することにしました

そうして課題解決から価値創造へとだんだん舵をきっていったなかで、それが一番現れたのは、「ロジックモデル」をやめることにしたことだ。そう、3年から5年へとプロジェクトをアップデートした際に、チームで話し合って、敢えてロジックモデルを立てないことにした。
ロジックモデルとは、「成果や変化が見えづらい」と言われ続けてきたNPOやNGOにおいて、より効果的に社会的インパクトを生み出そう、そのためにエビデンスをもって意思決定しよう、と広がったものだ。日本でも2016年のG8社会的インパクト投資タスクフォースを中心に広がり、私自身も物事を考える上でこの思考性がベースになっていた。

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しかし、定められた課題にアプローチするには優れたモデルだが、想定外の未来が生み出されるには、相性が悪い。ロジックモデルとは、選択と集中によってリソースの最適化を図ること。一方自分たちが望むのは、予想できない結果が生まれること。それは大抵、曖昧で、短期的には不要な余白から生まれることが多い。つまり価値創造がされるには、過度な分析を手放して非合理性を受け入れること、そして余白、いいかえると自由が必要だ。どうやら選択と集中、その対岸にいるようなのだ。

しかもわたしたちにとっての価値創造は、自分たちが直接なにかを生み出すというよりも、公教育という場になにかが生み出されることを指す。そうして結果だけでなく、主体も手放してしまったとき、私たちは、なにならできるのか。
それは想定外の未来が生まれやすい「環境設定」や「場」をつくることではないか、そう現在は考えている。「土壌を耕す」「カルチャーをつくる」など今は一旦、いろんな言葉で呼んでいて、組織や人の営みの土台となる空気感や風土、文化や雰囲気といったもののことだ。ここを耕すことで、そのコミュニティにいる人々の関係性が変化したり、潜在的な部分も含めた一人ひとりの個がひらいたりして、自ずと変化や創造が生まれてくると考えている。

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写真:1年目、とても印象的だった日の様子。

なぜ課題解決をしないのか

この土壌づくりから始めよう、という考えに至ったのは、一言でいうならば疲れてしまったからだ。今、日本の公立高校は正直に課題ばかりだ。学びの変革が叫ばれて長いが、正解主義はなかなかに根強いし、多忙感も強い。リスクヘッジや学校ばかりに依存される責任感に創造性が削られていて、先生たちは疲れている。それで先生自身が望まない結果を生み出していることもある。そうやって目の前にみえてくる課題を追いかけていると、モグラ叩きのような気持ちになる。つくりたい未来から遠のいていく感覚が生まれる。この頃、「なんだか焼け石に水なんです」といろんな人に相談をしていたくらいだ。つまり課題解決に従事することは、伸び続ける枝葉を切るようなものだった。しかもどれも大事な枝葉だから余計に抜け出せなかった。

しかし先生たちと楽しく仕事をするには、枝葉との戦いではなく、その枝葉が伸びるメカニズムそのものを変化させていく必要があるのではないか。2年目の後半頃に「結果が望めないなら、プロジェクトを中止するべきではないか」とチームで何度も議論を重ね、それで辿り着いたのが「価値創造」への転換だった。それがカルチャーや土壌づくりだ。組織を駆動させる原動力を少しずつピボットさせていくような感覚だ。そう捉えたら、あれやこれや無数に見えてくる課題は、「今すぐなんとかしないと」ではなく「今はこんな状態なんだな」という症状として捉えられるようになった。そうするといつのまにか課題が縮小することさえ生まれるようになった。なにより背負おうとしていた課題から放たれて、ずいぶん楽しくなっている。敢えて、当事者意識を捨てる、と言ってもいいだろう。ソーシャルセクターなのに。ここまでこれて、よかったなと、思う。『Zero to One』の著者・ピーター・ティールは「いま目に見えている課題を解決するなんて志が低い」と言っているそうだが、わたしたちはこっちの方が楽しいから選びたい。

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写真:3年間で延べ600名以上の社会人や学生が授業に関わってくれた

教育とは成果の得られない仕事?

なぜならこの在り方だと、知らないところへ連れていってもらえるからだ。想定外の未来が生まれることこそ、つくることの醍醐味であり、歓びだろう。だから、そもそも教育に携わっているんだよな、とも思う。教育はそもそも、誰も予測できない結果を育てていく行為だからだ。
だから教育者たちがつくれるのは、カリキュラムや学校に流れる時間や空間、コミュニケーションだけだ。そこに子どもたちが交ざりあって、なにかが生まれる。その成果は誰も予測できないし、教育者たちのものではない。だからわたしたちは、いい大学に進学したとか、地元に戻ってきてくれたとか、あの子が学校をさぼらなくなったとか、将来ノーベル賞を受賞したとか、一般的に成果と言われるものを「副産物」だと捉えていて、「教育とは成果の得られない仕事だ」と定義している。そうやって、学校の存在意義を知識の伝達システムにとどめず、経済や政治などの合理性の渦にも巻き込まれない社会の「余白」と捉えたら、どうだろうか。

ということで、4年目に突入する都立第一商業での学校改革では、引き続き学校の土壌づくりを実践し、その研究を邁進していきたいと思う。ちなみに、ロジックモデルをやめることになったことも、結果を手放すことを教えてくれたのも、どれもインターン生たちのおかげだ。創造することは、これから生まれつづける新しい世代の方が圧倒的に得意みたいで、今度は彼女たちの話をしてみたいと思う。


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