Q2:「運命の趣味」と出会うにはどうすればいいのか?

塾長:師も我輩も全国各地を旅してきました。ただ、師の旅をみるにつけ、自分の旅はどうやら「見聞」というものだったと気づきもうした。
ご承知のとおり、我輩は幾多の社会的遭難を経験しております。だが、これらにしても、「たった一度の人生、すべて見てやろう」という精神の発露であったようですな。
そんな見聞欲求は、日本の風土・歴史にとどまらず、世間のしくみ、そして自分という人間に対しても向けられています。
なので、あまりひとところにとどまって、つぶさに観察するという精神に乏しく、以前、師が吉備路に二泊三日(でしたか)逗留したと聞いて、対象に対する向き合い方の違いに愕然といたしました。
かように、我輩の趣味とは「見聞」(あるいは「総覧」)というものでありまして、この姿勢はスタンプラリーにはうってつけといえますなw
子供をみていると、自分というものを知る機会にもなりますが、我が坊やはまさに「総覧」志向でござる。
彼は鉄道好きなのですが、それを深掘りして、車両の形式をすべて暗唱するという方向にはゆかずに、全体像をつかむことで楽しむという指向性を持っています。我輩もこんな感じなのだろうと、興味深く見守っております。
ただ、総覧とはいっても、荒俣宏的な博覧強記を目指すというわけでもないのですな。関心領域はかなり限定されていますから。
この限定のありように、自分の「運命」というものが見えてきそうですな。
我輩の関心は、日本の歴史と地理、政治や経済なども含めての世間の仕組み(それも日本を主とした)に向いております。
これらを総覧して、それぞれを歴史=x軸、地理=y軸、世間=z軸として位置づけてゆき、おのれの座標軸を確立しようとしてきた。そんな衝動を持ち合わせているようですな。
そして最終的には、「いったい自分とは何者なのか?」――この問いに対する答えを得たい。この歳になってはじめて、そんなことがわかってきもうした。
この衝動の背景には、我が親からめちゃくちゃな「座標軸」を植えつけられ、めちゃくちゃな磁場を内包させられてしまったという「運命」がありそうです。
「おれはこのままでは生きられない。なんとかせねば」――このように言語化できていませんでしたが、思春期の我輩は強烈な焦燥感と危機感にかられていたようですな。
我輩はこれまで、司馬遼太郎、内田康夫、五木寛之、村上春樹、宮脇俊三といった作家の作品を(ほぼ)読破してきましたが、そこで得ようとしたのは、読書の愉しみというものではなく、彼らのような「大人」の謦咳に接したかったからのようですな。
彼らを身近な大人として感じられるくらい肉薄するためには、やはり完全制覇的読書が不可欠でした。自分の興味の赴くまま、つまみ食いしていては、その域に達することはできないですからな。
吉田松陰は、名文を筆写することで、その思想を血肉化できると考えていたようですが、我輩は全作品を読破することで、その人物を自分の中に取り込もうとしていたのです。そんなことに、今回気づかせられました。最高です。

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