一生懸命な母親がやっていたのは「子育て」ではなく「子守り」だった。

たとえば、加熱したヤカンがあったとする。それに触らないようとするのが「子守り」だ。一方、あえて触らせて学習させようとするのが「子育て」だ。もし大火傷するようであれば、むろんそんなことはさせないが、そうでない限り、学びの機会は摘むべきではない。子供を生涯護りつづけられるわけではない。人生体験から得た叡智を、どれだけ子供に授けられるかが、子育ての本質なのだ。夫婦喧嘩の多くは、子供への向き合い方が発端となる。その多くは、母親の「子守り」対父親の「子育て」という図式ではないか。すくなくとも、我が家ではそうだ。うちの場合、坊や自身が、みずからの成長を決然と望み、母親からの「子守り」をはねのけてしまった。我が子ながらたいしたものだ。うちの子に限らず、子供というものは生来的に成長を望んでいる。それが生物としての本能でもある。だが、母親からの愛情の押しつけをはねのけるタイミングを得られないまま、それを受け入れているうちに、しだいにそれに耽溺してしまう。世にいうマザコン男というのは、「子守り」を受け入れつづけてしまった、のんびり屋のお人好しなのだろう。一般的に、母親は自分の子供、とくに男児を「弱いもの」と考える傾向があるらしい。弱いのだから守ってあげなければという無垢な気持ちが、こうして裏目に出ることは枚挙にいとまがない。芸能人の息子が問題を起こしたとき、純情な母親による「一生懸命の子守り」が露見する。財力を持った母親が息子をダメにするのは、淀殿と秀頼の時代から変わらない。本来、子育てという「教育」を担うのは父親なのだが、忙しくて家にいないし、たまにいたところで、母親から教育権を取り戻せるわけがない。かくして、子守りに馴れきった男児たちが馬齢ばかり重ねてゆくのである。息子に対するなんたる裏切りだろうか。

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