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【熟年離婚】男の言い分〈その7〉

 B氏、64歳。元・会社員。62歳の時、63歳の妻と離婚。

昔の〝過失〟を何年も蒸し返される―命を削られる思いです。

 

 この間、散歩がてらに古本屋に寄ってみたんです。そこで、中年の女の顔が大写しになった表紙の本が目に入った。―それがなんとも気味が悪い。表題は「狂う女」って…。

 これを見たとたん、なんとも言えないイヤな記憶が体中に戻って来たんですよ。

 表紙の内側の、簡単な紹介を読んでみると、島尾敏雄という作家とその妻の人生を追いかけたノンフィクションでした。とにかく読んでみようと、本を買って帰りました。

 いや~読むんじゃなかった…島尾の妻の、気狂いじみた嫉妬、しつこさ、狂気―後で本当に狂っちゃうんですけどね、夫の浮気が許せなくて咎めるんだが、それがしつこい。過ぎたことを何度も何度も、ついさっきのことのように思い出しては夫を責めるんです。―それが何年も続く。島尾は、そんな妻とのやりとりを「死の棘」という小説にして、それで作家として成功したんだそうです。

 文学なんかとは無縁の毎日を過ごしてきた私が、たまたま読んだ本が、これ。―実は自分が島尾になったような気分になりましたよ。

 もう、思い出したくもなかったことを、たまたま見かけた本に掻き出された、っていう気分です。

 私は、全国に支社のある会社に勤めていたので、あちこちに転勤しました。二人の子供がいますが、上の子が小学校に入る時から、「親と一緒に引っ越して、転校を繰り返すのはかわいそうだ」と、どこの転勤族もするように、私も単身赴任を続けていたんです。

 そうして49歳の時、九州のF市に赴任した。アパートで自炊の毎日にはなれっこです。東北に住んでいる家族には九州は遠すぎて、訪ねて来るのも大変。こっちも仕事が詰まって、なかなか家に帰れない。―わびしい一人暮らしが続くと、男は外で息抜きしたいよねぇ。仕事が終わって、やれやれと一杯、が至福のひとときです。

 地元に馴染んでくるうち、気に入った店ができました。小さなスナックで、40歳前後のママが一人でやっていました。沖縄出身という彼女は、いかにも南の人らしく、いつも明るい。

 私が、仕事でつまずいてクサっている時など「なんくるないさぁ!」と励ましてくれる。客みんなで盛り上がると、沖縄の踊りをやってくれる。丸顔でちょっと太めでお世辞にも美人とは言えないが、客はみんな彼女のファンでしたね。

 赴任1年目を過ぎたある夜、飲みすぎで気分が悪くなった私を、彼女がアパートまで送って来てくれた―そのまま泊まっていったんですが、まぁ、世間で言う〝まちがい〟を起こしてしまったんです。次から、店には気まずくていけませんよ。

 その後、1カ月もしないで妻がやって来た。赴任してから初めてでした。「あらあら汚くして」なんて妻はいそいそ台所を片付けたり、洗濯したり、掃除したりしていました。久しぶりの〝家庭〟の雰囲気をのんびり味わっていた私に、突然、押し殺したような声で「これ、誰の?」と妻が掃除機の前に座って何かつまみ上げている。結婚以来、見たこともない恐ろしい顔で「誰の髪の毛?」と…女の長い髪の毛1本です。スナックの彼女のでした。「ゴミパック、換えようとしたら、これ、出てきちゃった。私のじゃ、ないよね」と睨む顔のすごかったこと。私は黙って妻の前に座っているだけ。

 「さっぱり帰って来ないのは、浮気してたからなんだ!」と大騒ぎです。帰らないのは仕事のせいでしたが、浮気、と言われれば、たった1回でも、それは本当です。洗面所なんかに、女のイヤリングとか口紅なんかが忘れられていて、単身赴任の夫が妻に糾弾された話はよく耳にしていましたが、まさか、掃除機の中のゴミパックとはね…。

 女性のひんしゅくを買うかもしれませんが、ワキが甘かった。その後の〝修羅場〟は思い出すのもいやです。

 単身赴任は3年で終わって、家に戻りましたが、それからがまた地獄だった。私には〝済んだこと〟〝十分に反省して二度と妻を裏切るようなことはしない〟と誓ったことでしたが、妻は納得しない。テレビCMなんかに髪の長い女が出てくると「彼女、髪長かったのよねぇ」「あんなに長い髪ができるんだから、彼女、若いのねぇ」、たまに寿司でも食いに行こうかと言うと「彼女とも行ったの?」「彼女、お寿司が好きだったんだ」とくる。―こういう〝切り込み〟が2、3年続いたんです。私も、身から出たサビとして我慢しました。妻は一人で家庭を守って、子育てして、夫がちっとも振り向いてくれない、揚げ句に浮気も…と悔しかった気持ちが分かる。ここは辛抱だ、俺が悪かった、と―。

 ところが、5年経っても10年経っても、何かの折にふっと妻の口から昔のことが出てくる。「あの時はショックだった。誰かの髪の毛が出てきたんだもの…」「あなたを信じていた私がバカだったんだ」「あの人、元気でいるの?」「あれ、長い髪だったわねぇ、彼女、似合ってた?」―などなど、昔の〝過失〟を昨日のことのように何年も蒸し返される―命を削られる思いです。

 もしかしたら、妻はノイローゼか若年性認知症ではないか、とも思いましたが、普段、近所の主婦たちと楽しそうにお茶飲みしたり、買い物や旅行に出かけたり、ヨガの教室に行ったりと、ごく普通のおばさんです。ところが、私と二人だけになると、「あの時ね」「彼女はさぁ」が始まる。本に出ていた、島尾と同じ気持ちですよ。島尾という人は、そんないやなことを小説にできたからいい。あくせく働くこと意外は無能な私には耐えられないですよ。

 60歳の定年を迎えたら、野菜を作ったり、蕎麦を打ったりして暮らしたかったんですが、エンドレスに妻の「あの時さぁ」を家で聞かされると思うと、たまらなくて、2年間の再雇用を願い出ましたが、そうしたところで妻のグズグズが治まるわけではない。

 もう、子供達も独立した。妻もまだ先がある。ここで、妻のネチネチの攻撃から解放されたい、清々して残りの人生を送りたい、と思って妻に離婚を申し出たんです。

 妻は、目をまん丸にして驚きました。私が、離婚したい理由を告げると、「愛しているのに…」と泣く。「グズグズ言ったのは愛しているから」なんて、私にはただただムシのいい言い訳ですよ。「結婚する時、一生大事にするって言ったでしょう」と、半世紀近くも昔のことを、ここでも引っ張り出す。そう言ったかもね。「でも、あんたは、夫に大事にしてもらう気遣いをしたかい?」と言いたいところだったが、また「あの時…」を持ち出されるのが心底いやで沈黙を通しましたよ。

 例の本は、中を飛ばして―最後だけ読みました。島尾はどうなったか―書斎の片付けをしながら倒れて、「もう、終わりだ」とつぶやいて死んだそうです。島尾は、死ぬことで妻のネチネチ地獄から解放されたんでしょうかね。

 私は今、清々した一人暮らしが楽しい。あの本ですか? 古本屋に売ってきました。

          (橋本 比呂)


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