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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載74

奥州藤原氏とふくしまの人々

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 平安時代の末期、天下人となっていた平清盛は、当時の中国王朝である宋国と貿易を行うことにした。嘉応2年(1170)9月のことである――。大陸と取り引きするためには、日本もそれなりの物を用意しなければならない。そこで平清盛が目をつけたのが〝奥州の金〟であった。純度の高い奥州の金は、大陸でも珍重されていたのである。

 貿易開始に先立つこと4ヶ月前、清盛は平泉の藤原秀衡に対して「金を献上せよ」と打診。もちろん「ただでよこせ」とは言えない。そこで清盛は代償として、秀衡に官位を与えることにした。官位とは〝天皇に認められた身分〟のこと。この時代、京から遠く離れた地方に住む武士たちは、簡単に官位を得ることができなかった。それはみちのくの覇者を自負していた秀衡も同様である。

 「ここで官位をもらえれば、朝廷から正式に奥州の支配を承認してもらえたことになる」

 そう考えた秀衡は、清盛の求めに応じようと決心。任命されたのは鎮守府将軍という役職だった――。鎮守府将軍は、奥州における軍事権を一手に掌握できる。平泉のある奥六郡(岩手県内陸部)だけでなく、陸奥国すべての武士を指揮下におくことが可能だ。「陸奥全土に影響力を強めたい」と願っていた秀衡には、まさに打って付けの官位であった。

 嘉応2年(1170)5月、秀衡は晴れて鎮守府将軍を名乗ることになった。すると、さっそく就任を祝う宴が催されている。場所は、平泉にある奥州藤原氏の居館・柳之御所。じつは、この宴に招待された客のリストが残されている。平成2年(1990)に柳之御所が発掘調査された際、杉板に書かれた名簿が発見されたのである。

 では12名の出席者を挙げよう。まず信寿太郎(国衡)に小次郎(泰衡)と四郎太郎。この3人は秀衡の息子だ。つづいて橘という姓が2名に、瀬川次郎なる者。この3人は秀衡の側近だったと推測されている。肝心なのは残る6名。石川太郎、石川次郎、海道四郎、石埼次郎、大夫小大夫、大夫四郎だ。このうち石川氏は、福島県石川町の武士。海道と石埼は福島県いわき市の武士。そして大夫を名乗る2人は福島市の信夫佐藤氏。つまり招かれたのは、現在の福島県に住んでいた武士たちだったのである。彼らの名にはすべて〝~殿〟という敬称がつけられているから、奥州藤原氏の家来ではなく来賓、つまり同盟者であったことが分かる。

 ちなみにこの名簿、宴会で着用する服を貸し出すために作成されたもの。当時の正装は赤い服だったようで、秀衡は全員に赤い服を着させている。このことから名簿は〝人々給絹日記〟と呼ばれている。

 〝人々給絹日記〟は「奥州藤原氏とふくしまの人々が対等な立場にあった」ことを伝えてくれる、非常に貴重な史料と言えよう。     (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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