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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載68

城氏の会津進出

イラスト19-08

 会津最古の寺――。それは磐梯山麓に建てられた慧日寺(磐梯町)だと一般的には考えられている。平安時代の大同2年(807)に、法相宗の高僧・徳一によって開かれた仏教施設だ。――だが会津では「もっと古い寺があった」という伝説が、ずいぶん昔から語られてきた。会津坂下町にある高寺山に、西暦540年に建てられた〝高寺〟という寺院があったというのだ。日本に仏教が伝わったのは西暦538年とされているから、もし高寺が実在したとしたら会津どころではなく〝日本最古の寺〟である可能性も出てくる。近年、高寺山では発掘調査が進められており、2019年の時点で西暦800年代の遺跡が確認されている。

 果たして、もっと古い時代の遺構が発見されるのか――? 何にせよ高寺には慧日寺と同じ年代には、すでに寺があったことは間違いない。そして高寺を開いたのは徳一ではなく、別の僧侶である可能性が高いらしい。というのも「高寺は慧日寺と争い敗れて滅亡した」と、伝説の中では語られているからだ。関東から中通りを経由して会津に到達した徳一に対し、高寺の僧侶は越後から阿賀野川に沿ってやって来たのであろう。いくつもの山越えをしなければならない中通りルートより、比較的平坦な道が多い越後ルートのほうが会津に入りやすいのである。

 仮に高寺が西暦800年代に建立されたとして、その約180年後に同じく阿賀野川沿いから会津へ乗り込んできた一団がいた。平氏だ。平維茂の子孫は〝城〟という姓を名乗り、秋田から越後にかけて勢力を広げていた。この中から城重則という武将が現れ、永延2年(988)に会津へ進出しようとしたのである。城重則は陣ヶ峯城(坂下町)や雲雀城(坂下町)、さらに猿戻城(柳津町)などを築き、足掛かりとした。また喜多方市には〝古四王神社〟なる社があるが、これは〝越王神社〟だったとされ、越後からやって来た城氏を祀ったものという説もある。面白いのは古四王神社~陣ヶ峯城~高寺山~雲雀城~猿戻城が、ほぼ一直線上に位置していること。このラインの中心にあるのは高寺山であり、ひょっとすると城重則は高寺を保護するため会津に移住したのかもしれない。

 一説によると高寺と城氏(越後派)の台頭を快く思わない慧日寺が、正暦元年(990)に越後派への攻撃に踏み切ったとされている。このとき慧日寺から戦をまかされたのは、円蔵寺(福満虚空蔵尊/柳津町)の警護役をしていた武士、斎藤宗顕。斎藤宗顕は城重則を打ち破り、余勢を駆って高寺も焼き払った。伝説にある「慧日寺が高寺を滅ぼした」というのは、この戦いを指しているのであろう。その後、越後派は慧日寺に従属。高寺は〝恵隆寺〟として再興されたという。そして城氏は慧日寺と結びつくことで、改めて会津での勢力拡大を試みていく。    (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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