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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載69

信夫佐藤氏の勃興

イラスト19-09

 中通り地方で最初に登場する武士。それは〝藤原諸任〟なる人物。諸任は藤原秀郷の子孫と考えられており、平将門の乱(935~940)をきっかけに信夫郡(福島市)へ土着したようだ。――諸任の先祖である藤原秀郷によって将門は討ち取られたが、残党は奥州の各地に逃れた。これらを鎮圧するため、秀郷の流れを汲む諸任が派遣されたらしい。ちなみに秀郷の子孫らは、後に〝秀郷流藤原氏〟と呼ばれるようになる。

 いつの頃からか諸任は、沢股の地(福島市南沢又)に館を構え〝沢股四郎〟と称するようになった。ところが正暦元年(990)に、平維茂との戦いに敗れて討死してしまう。それでも一族の中には生き残った者もいたようで、信夫郡と秀郷流藤原氏の縁が途切れることはなかった。このことが信夫に、新たな秀郷流藤原氏を呼び寄せることになる。

 永保3年(1083)夏。当時の奥六郡(岩手県内陸部)を支配していた清原氏に内紛が勃発。これに陸奥守であった源義家が介入し〝後三年の役〟という戦いが起こった。清原には真衡、清衡、家衡という三兄弟がいたが、源義家の力を借りて勝ち残ったのは清衡。彼こそが奥州藤原氏の初代となる藤原清衡である。

 ところで後三年の役には〝佐藤軍監〟なる人物が、源氏軍に加わっている。軍監とは将兵の戦いぶりを監視する役職で、この任務に当たっていたのは秀郷流藤原氏の佐藤師信であった。師信の家は曾祖父の代に〝左衛門佐〟という官位に就いたので「佐の藤原」を略して〝佐藤〟姓を名乗るようになっていた。

 佐藤軍監こと師信は、源義家のもとで清衡と出会う。戦後、旧姓の藤原に復す清衡だが、じつは彼もまた秀郷流藤原氏の血をひいていた。祖先を同じくすることが、師信と清衡の仲を急接近させる要因となったらしい。寛治元年(1087)に戦いが終わっても師信は京に帰ろうとせず、そのまま清衡のいる奥州にとどまる決心をする。そして新天地と定めた先が信夫郡であった。広大な奥州の中から信夫を選んだのは、おそらく沢股四郎こと藤原諸任の末裔が暮らしていたからであろう。師信からすれば信夫は、まったく縁もゆかりもない土地ではなかったのである。とはいえ何らかの名分がなければ所領を得ることはできない。そこで師信を援助したのが清衡だ。清衡は京の摂関家と交渉し、信夫にあった摂関領の荘園(私有地)を、師信が管理できるよう取り計らってやったと推測されている。

 こうして信夫佐藤という新たな秀郷流藤原氏の家が、奥州で第一歩を踏み出した。信夫郡には後に大規模な荘園(信夫庄)が形成され、その実質的な支配者(庄司)となった信夫佐藤氏は〝佐藤庄司〟という呼び名で知れ渡る。そして庄司としての実力を背景に、奥州藤原氏の盟友として活躍していくのである。   (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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