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清華苑の桜

 ケース担当のうちの一人のご利用者Sさんが3月頃から体調を崩されていました。一時は意識も朦朧とされ、もしかしたら今日、明日の命かもしれないとまで言われ、大変危険な状態でした。幸い大事には至らず、順調に回復され、桜の季節を迎える事が出来ました。
 
 Sさんは桜がとても好きな方でした。以前おられた病院にも桜の木があったそうですが、「清華苑の桜が一番綺麗。今まで見てきた桜の中でも3本の指には入るわ。」とおっしゃられていました。
ホールから桜を見ると、「今年も綺麗に咲いたね。」と大変喜んでおられました。

 特養3階のホールからも桜の様子はよく見えますが、一番よく見えるのはやはり2階ホールからの眺めでした。

 「その方にもっと近くで桜を見せてあげたい」そう思ってはいましたが、病み上がりで、車椅子に10分程座るのがやっとという状態のSさんからすれば、いくら好きな桜を見に行くとはいえ、2階まで行くのは負担になるのではないか、その上、2人介助で移乗介助を行っているSさんを忙しい業務の中で、先輩職員に一緒に起こして欲しいと言って良いものだろうか、等と色々考えていました。

 今となっては深く考えすぎだと思うのですが、その頃の私は、人見知りで先輩職員への遠慮もあり、自分の意見を前に出して言う事はなかなか出来ずにいました。そうして胸の内で思うだけで、しばらく過ごしていたのですが、ある日、先輩職員と業務が一緒になった時にSさんの話題になりました。

 その時、本当に何気なく「Sさん、桜が好きで、今年も桜が見れて嬉しいってすごく喜んでたんですよ。もっと近くで見せてあげたいんですけどね。」と私が言うと、先輩職員は「じゃあ見せてあげよう!2階やったらよく見えるし、絶対Sさん喜ぶよ!」と言ってくださりました。

 私が「でもSさんそんな長い事起きとけないですし、移乗介助大変じゃないですか」と言うと先輩職員の方は「そんなん大丈夫!手伝うよ」と言い切ってくださりました。先輩職員が一緒になって動いてくださり、Sさんを2階ホールまでお連れすると、Sさんは満開の桜を「綺麗やわ。ホンマに綺麗。」とうっとりとした表情で眺めておられました。

 そして、私が心配していた事なんて何でもないんだと証明するかのように、Sさんは普段よりもずっと長い時間、車椅子に座り、桜を眺めておられました。「連れてきてくれてありがとう。こんなに近くで桜が見れて嬉しかったわ。」Sさんはとても穏やかな笑顔でそう言ってくださりました。その後、Sさんの体調は安定し、以前とお変わりなく生活できるようになりました。

 しかし、数ヶ月後に体調が急変され、そのまま息を引き取られました。亡くなる直前まで普段とお変わりなく過ごされていた為、知らせを聞いた時は、信じられない気持ちでいっぱいでした。

 毎年、清華苑の桜を見ると、Sさんの事を思い出します。その時、思い浮かぶのは桜を嬉しそうに眺めておられた、あの時の笑顔なのです。あの年の桜がSさんにとっての最期の桜となってしまいましたが、一緒に見に行けて良かったなぁ、と今でも思います。もしあのまま一人で考え込み、行動に移せていなかったら、きっと一生後悔していたと思います。

 あの時、先輩職員が自然と後押ししてくださった事がきっかけで、私は少しずつ周りに自分の意見を話せるようになりました。先輩職員の方からするとそんなつもりはなかったかもしれませんが、一人で仕事しているのではないのだと改めて感じ、ここの職員さんはちゃんと自分の話を聞いてくれるから、自分の考えを言っても良いんだという自信につながりました。

 私が今でも仕事を続けていれるのは、あの日の出来事があったからだと思います。あの時の先輩職員の方には感謝の気持ちでいっぱいです。

特別養護老人ホーム 清華苑 
楠本由紀子

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