見出し画像

語り継がれた物語を繋いでゆくということ

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな。」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・・その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって。」
ー星野道夫 「旅をする木」より

 
 何かしらの出逢いが自らの心の琴線に触れて、自然と変わってゆこうという衝動が湧き上がってくるという体験は人生においてかけがえのないものであり、自分の歩みに力強さを生み出し、変わってゆくことへの勇気を与えてくれる。受け取り手が真に心を動かされ変わってゆこうと思わせる人間の表現者・体現者に共通しているように思えるのは、自然と調和していること、唯一無二の個性があること、真摯さ、そして、無私であるか無私に近いことであることではないだろうか。先日、そんな稀有な体現者たちの在り方に続けて触れる幸運に恵まれた。

 
 まずは、書道家の嶋田彩綜先生との出会いである。不思議な巡り合わせにより、新しい仲間たちと共にお話を直接伺い、魂が込められた作品たちに囲まれて、ゆっくりとそれらに感じ入る贅沢な時間を与えられたのである。特に、たまたま部屋に一人きりになった時に、先生の2016年の作品である「大宇宙のまなざし」の目の前に身を置かせていただくと身体が微細に振動し始め、それに自らを委ね目を閉じると間も無く深い静寂が身を包んだ。そして、その心地良かった静寂がさらに深まり、ほんのりと心のざわつきのようなものを感じ始めたことがわかると無理をせずに、息をスッと吸い込んで目を開けた。すると、いつの間にか先生がすぐ近くに立っていらっしゃって声をかけてくださった。時間にすればほんの短い時間だったが、特別な時間だった。

 
 何か大切なものが語り継がれるということが起きた時に、まずは自分がその受け取り手としてその場に居合わせるという恵みに感謝することにきっとなる。そして、その大切なものが真正で大きいものであればあるほど、その邂逅は今まで培ってきた自分という器の大きさと透明さが試される場となる。伝えられたものの純度や広大さが自分の器を凌駕していても壊さなかった時に、受け入れることが起こり、それは自らの器のさらなる透明化と成長を促す。そして、その受容と同時に使命感のような責任と生命力が湧き上がり、受け取りはじめたものを自分の身体、心、魂に丁寧に時間をかけて通していくことで変容を遂げることができるだろうか。真摯に歩みを進めてゆけば、自分独自の在り方と表現でいずれ大切な何かを伝える繋ぎ手になることも出来るのかもしれない。

 
 先生が言葉で語り継いでくださったこと、そして、作品を通して感じさせてくださったことを受け容れるのにはまだまだ時間がかかるかもしれないが、伝えられた何かを自分のやり方でいつか誰かに語り継ぐことができるように前を向いていきたい。今は多くの人に先生の作品群に直接触れていただきたいので、ここでは先生のホームページを紹介させて頂きたい。それを必要とする人が、先生の作品を実際に目にすることを願う。

 
 もう一つ起きた幸運は、映画「人生フルーツ」で描かれた津端修一さんと英子さんの美しき人間としての、そして、滔々と溢れる愛に包まれた夫婦としての在り方を目にしたことだった。生きるスピードが上がり続ける世の中で、揺るぎない信念の下に自然に即した緩やかなペースの中で日々の営みに真摯に取り組む修一さんとその傍らに寄り添い、自らも丁寧に暮らしを営んでゆく英子さんの姿とお二人が創り上げた優しさに満ち溢れた家と70種の野菜と50種の果樹に彩られた庭。一度も夫婦げんかをしたことがないというお二人の間で絶えることのない静かな愛情の流れとその豊潤さが自然と周りの人たちをも豊かにしている様子。そこに映し出されていたのは、未来に語り継がれるべき老夫婦の理想の暮らしだった。

 
 静かな感動と感謝の気持ちを感じさせて頂いたのだから変わってゆこうと思う。今の自分を否定して、それを乗り越えるつもりで変わってゆくのではなくて、今の自分を抱きとめて、さらに大きな円を描いて抱きとめなければならないような未知の自分にゆっくりと変わってゆけるだろうか。そして、自分もいずれ大事な何かを語り継ぐ体現者の一人として、豊潤な生命の循環に加われたらと思う。

風が吹けば、枯れ葉が落ちる。
枯れ葉が落ちれば、土が肥える。
土が肥えれば、果実が実る。

こつこつゆっくり、人生フルーツ。


スキやコメントありがたいです😊