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メンヘラ小説置いてます

   四人の陰 〜スタートラインにさえつけない僕たちは〜

   〜祇園祭〜

 精神障害者の命は、この綿あめのように軽い。そう思わざるをえない出来事が、僕たちの周りに溢れている。
 京都の町の日はとっくに落ちていて、僕たちの横を、甚平を羽織った男の集団や浴衣姿の女が行き来している。そして道の両脇にある、屋台にぶら下がった電球の明かりが僕たちの影を薄暗く揺らしている。僕たちは四人で夏祭りに遊びに行く約束をしていて、東と僕が先に合流した。他のふたりは後から来るらしい。東がさっきそう言っていた。
 家からそれほど離れていないところにある八坂神社を訪れたのは子どもの頃以来だ。知らない間に修復されていて、全然知らない土地に来ているみたいだ。赤い鳥居をくぐって円山公園の方まで足を伸ばそうとしている途中で東は禁断の話題を口にした。
「田村くんが自殺するとはなあ」
 精神病の人間の命の軽さを、デイケアで一緒だった田村の自殺で僕は悟った。田村が亡くなって周りの人々は皆、心のどこかで胸を撫で下ろしていた。喜んでいるわけではなく、ホッとしていると言ったらいいだろうか。
 社会に出ない成人のことを皆どう思っているのだろう。建前は一日も早く社会で活躍できるようにと言っているが、本音では早く消えてくれたらいいのに、と思っているのではないかと邪推する。
 東はきっとこの話題を振ってくると思っていたので、僕はちゃんとした答えを用意していた。
「田村くんには気の毒やけど、僕たちみたいな人間が死んでも世の中は何も変わらへん」
「そんな悲しい事言わんとってー。人生もっと楽しんで行こーぜ!」
 東は僕と真剣に語ろうとはしなかった。確かに悲しい答えにしかたどり着かない議論は避けたいのだろう。
 そう、僕も東ぐらい楽天家に生まれたかった。東は面倒見が良く、気のいいやつだが、たまに見せる気難しさが僕を困惑させることもある。二十二歳と、とても若い。記憶力がとんでもなくあって、昔のことを事細かに覚えていたり、円周率をかなりのところまで暗記していたり、時代が時代ならびっくり人間でテレビに出られるのではないかと思わせるほどだった。
「水田くんは考え過ぎなんちゃうん。リラックスリラックス。ところでねえ、綿あめ食わへんの?」
 東の綿あめはすでになくなっていた。一方、僕の綿あめはひとかじりしただけで、ほとんど残っている。僕が長い間考え事をしていた証だった。
 僕は今までメンタルを病んで生きてきた。小学校で不登校になってから二十五歳までずっと自分の部屋の片隅に佇んでいた。いわゆる引きこもり状態がずっと続いていた。二十五歳の夏に無理やり精神病院に連れて行かれて、あまり覚えていないけど入院もした。そして投薬治療を受けて二十六歳の夏にはこうして夏祭りに行けるようになるまで回復した。でもそんな僕の人生に何の意味があるのだろう。
——ついつい考え込んでしまう。
 金魚が跳ねて、すくう紙が破れて女の子が泣いている。
「もう一回やってええから、泣かない泣かない、ほら」という母親の優しさが、なぜか僕の心を無残に傷つける。なぜこんなことで傷ついてしまうのかは全くもってわからない。
「おーい」
 ひときわ大きな声が僕の鼓膜を震わせる。人ごみの中でも届く外園の声の大きさに感心する。外園の大きな体形は周りを圧倒させる。存在感がここまである精神病の人も珍しい。
「岸くんもいるよー」
 外園の隣にいる岸は恥ずかしそうに下を向いた。
「水田くーん、美味しそうなわたあめなんか持っちゃってー子どもみたいだよ」
 外園はこうしてすぐからかってくる。いじめっ子というか番長というか、父親がお偉いさんだからこれだけ威厳が備わっているのか。
「こ、こんばんは」
 外園に半分隠れて岸が挨拶をする。
「こんばんは」
 とおうむ返しする。
「水田くん硬いよ! リラックスやで」
 東の喝に外園が大笑いする。岸までも遠慮がちだが声を出して笑う。
「せっかく八坂神社まで来たのだからお参りに行こうよ」
「おう、行こうぜ」
 こうして僕たちは四人でお参りをするために移動する。
「綿あめ食べないの?」
「なんか食べる気せーへん」
「ちょうだい!」
 こうして綿あめは番長の外園の手に渡った。
「軽いね、これ」
 僕たちの命の重さもこれくらい軽いんだよ、なんてとても言えない。
「そういえばさ、田村くん自殺なんだって」
 外園はこんな感じで自己中心的なとこがあるけど、みんなを引っ張っていってくれるリーダーシップもある。
「そんなことするようには見えへんかったな」
 東が返事をする。
「この件について、岸くんはどう思う?」
「え、ええと……」
「ええと思う?」
「ち、違う」
「違うと思う?」
「だから……」
「だから?」
 岸は沈黙に沈む。
 外園は精神病の割に普通の人間に近いものを持っている。
 三十三歳と僕より七つ上なのもあって時々こうして僕や岸をおちょくって楽しんでいる。人間関係で優位に立てるところがあって、いじめとも取れる行動をすることもある。ただ行き過ぎていないのでいじめと呼べるものかどうかは受け手次第かもしれない。
 ただ外園は不思議と人を不快にさせない爽やかさを持ち合わせている。とても精神病だとは思えない。いつもハイテンションでマシンガントークを炸裂させている。
 しかしそのハイテンション過ぎるのが病気らしく、躁病と本人は言っているが躁鬱病なのだと推測する。いわゆる双極性障害を持ち合わせているのだろう。父親が国会議員で家が裕福なので、ちょっと普通の人と感覚が違うのかもしれない。
 この四人の中で関東出身なのは外園だけで、あとは皆コテコテの関西人だった。外園は僕の方を向いてニヤリとした。今度は僕をからかってきそうだ。
「ではこの田村くんの自殺の件について水田くんはどう思う?」
 ほらきた、と僕は用意していた答えを言おうとする。しかし横から東が割って入る。
「もうそっとしておこうや。不謹慎や」
「おっと、あずーまくんの意見も聞こうじゃないか」
 東は少し考えてから口を開いた。
「かわいそうやなと思う。田村くんの分まで俺たちが生きなきゃ、って思う」
「ほう」
 それ以降、外園は田村をネタにする、からかいを入れなくなった。
 参拝するために列に並ぶ。ふと岸がいるのか心配になった。よく見ると岸は外園の後ろにいる。
「ごめん」
 何も謝ることないのに。
 岸は今年三十歳になるらしい。僕も引っ込み思案で大人しい方だが岸は輪にかけて静かだった。物音ひとつ立てず動く。だから気がついたら岸が後ろにいて驚く事も多々あった。岸は鬱病だと聞いた事があるが、本人が言っていたわけではないので確かではない。
「水田くんの願い事は何かな?」
 僕が手を合わせると同時に外園はちゃちゃを入れてくる。
「ホカちゃん、あかんよ」
「だって」
「だってもへったくれもねえよ!」
 東の大きな声に周りが一瞬だけ静かになる。先ほどの田村の話でだいぶ頭に来ていたのだろう。東はキレやすいというか怒りっぽい一面がある。まあ僕は個性と思っているけど、社会に出ることを考えているならば直さなくてはならないだろう。それにしても東の怒りの叫びに外園はなんとも思っていないようだ。
「じゃあ、岸くんの願い事は?」
 東はため息を吐いた。
「ホカちゃんは手に負えんわ。岸くん答えんでええで」
「えっと」
 岸は迷っているように見える。
「えっと、これから楽しいことがたくさんあるように。就職できるように。生活保護から抜けられるように」
 岸が生活保護を受けていることは皆知っていた。僕と東は実家暮らしでなんとか免れていた。外園はひとり暮らしなのか、それともお手伝いさんでも雇っているのかわからないが、生活保護とは縁がない。
「真面目だね岸くん」
「それと……」
 全員の視線が岸の口の動きに注目する。
「この後外園くんが計画していることが実行されますように」
「おい!」
 外園は岸を小突いた。
「ばらすなよー」
「ごめん」
 僕は何が何だかわからなかった。東も口をポカンと開けたまま固まっている。「何?」
「ふふ……それはお楽しみってことで」
 東の開いていた口が閉まって、あれか! と叫んだ。
「ホカちゃんマジで?」
「ほらほら、水田くんが気づいちゃうじゃないか!」
 何だろう?
 全く何かがわからない。
「か、カラオケ行くんちゃう?」
 東は適当なことを言って誤魔化そうとしている。東の口笛が僕の猜疑心を煽る。
「お楽しみは取っておかないとね。そろそろ木屋町の方へ行こうよ」
「お、いよいよやん」
 東は楽しそうに反応する。
「なにーさ?」
「ほら、たこ焼き食べや」
 自分だけ何かわからないのはちょっとモヤモヤする。
「たこ焼き食べながら、木屋町の方へ行ったらわかるよ。任せておいて」
 デイケアに入って最初に声をかけてくれたのが外園だった。誰とも喋れないでいる僕に声をかけてくれた。そのおかげでみんなとも友達になれた。それ以来お世話になっている。ここは大船に乗ったつもりで外園についていくしかなった。

 人ごみはどこまで続くのだろうか。さすがは祇園祭といったところか。山や鉾が路上に飾られているが、僕はあまり興味を持てなかった。こんな人ごみに長時間さらされたのは随分と久しぶりだ。幻聴が聞こえることはなかったが、少々気分が悪い。
 それにしても皆いつもより元気に見える。僕たちが出会ったデイケアでは、岸はずっと和室で寝ていて、東は黙々とボードゲームをしている。外園はずっと誰かと喋っているイメージだ。
 だから外園が元気なのはわかるが、東と岸が元気なのはやはりこの後何かあるからだ。
「はい! じゃあドッキリ企画いきますよ」
「もうバレバレやでー」
 僕は全くわからないのだが。
「おっと、水田くんが不満そうな顔してますね」
 何が何だかわからないからそんな顔になってしまうのだろう。
「おりゃー」
 僕の隣から武者震いの叫びが聞こえてきた。よく見ると岸の気合いの入り方が半端なかった。
「心病んでても性欲はあるんじゃー」
 ん? 岸の叫びに反応して、僕は目の前のネオンを認識することになる。そこには怪しいピンクの看板に「爆乳ダイナマイト」と記してある。
「こ、これは……」
「水田くん。君もそろそろ大人の階段を上らないといけないよ。さあ行くよ」
「行くでー」
「おりゃー」
「ちょっと待って!」
 僕は何の準備もできていない。心の準備も、お金の準備も。
「た、高いんちゃう? ってか、こういうのってぼったくられへん?」
 外園は得意げに「ちっちっちっ」とわざとらしく舌打ちして「ここはね三千円ポッキリなの」と嘯いた。
 お金は何とかなるのはわかったけど、僕はこう、女性とどうかなるとか全く経験していないので、店の前で後ずさりした。
「外園企画第一弾だよ。いつまでも子どものままじゃ成長しないよ」
 確かに二十六歳で女性経験ゼロはやばいのかもしれない。
「ここ、どういうとこなん?」
「セクキャバだよ」
「……わかりやすく説明して」
「キスしたりおっぱい触ったり抱きついたりできるとこだよ」
 僕の思考回路は停止した。本能で行こうという気になってしまった。
「ただいま水田くんが爆乳ダイナマイトに向かって歩みを進めております」
 外園の実況通り、僕が先陣を切って爆乳ダイナマイトへ入店した。
 狭い待合室で四人が座る。
「はい、前金四千円ずつね」
 話が違う気がするが、みんな何も文句を言わずに四千円ずつボーイにお金を渡す。
「前来た時は三千円だったんだけどなぁ」
 とぼけた感じで外園が呟く。正直千円くらいなら上乗せでも大丈夫だ。たったそれだけで、あんなことやこんなことができるなら、僕は大人の階段を上がれるかもしれない。
「あ、すいません。今の時間帯は三千円でした。千円ずつ返金します」
 先ほどのボーイが千円ずつ僕たちに手渡しでお金を返してきた。ぼったくられる覚悟もあったのに返金なんて変な感じだ。
「ほら、三千円だよ」
 外園は満足そうに胸を張る。
 そんなことより、これから起こることに対する胸の高鳴りが半端なくてどうしようもない。気分が高揚して顔が赤くなっていくのがわかる。待合室が薄暗くて本当に良かった。
「楽しみだね」
 外園は慣れているのか冷静だった。東と岸もそれほど緊張しているようには見えなかった。特に年下の東のことを意識する。僕の方が年上だから、おどおどなんてしてられない。
「俺こんなとこ初めてやー」
 えっ? 東は初めてなのにこんなに度胸が座っているのか。
「おいらも初めて」
 岸もそうなのか。外園企画で皆デビューするんだな。
 しばらく待っていると「お待たせしました。どうぞー」とボーイが話しかけてきた。さらに狭い通路を通って辿り着いた先で僕たちはバラバラの席に案内された。そして僕の方へ女性が近づいてくる。彼女はシースルーのランジェリー姿で目をこらすと着衣の向こう側が見えてしまいそうだった。だから僕は反射的に目を逸らしてしまう。
「あゆみです。よろしくね」
 挨拶と同時に名刺を渡される。手が震えてしまっているのがバレたくないから、名刺を受け取ろうとしなかった。
「あら、私みたいなタイプは好みじゃないのかな?」
 と隣に座ってくる。好みかどうかとかもうわからなくて、というより直視できないからどんな顔してるかなんてわからなかった。
「あ、緊張してるのね。あーら可愛い」
 緊張感はそのままだが、女性が隣に座ると触れている方が体ごと溶けていくような感覚が僕を襲った。こんな感覚は初めてだ。
「こういう店はよく来るの?」
「初めててて」
 緊張で口が痺れていて言葉がうまく発声できない。
「そうなんだ。友達と来てるの?」
「うん」
 周りを見渡すと視界に外園が入った。
「あの子は随分慣れてるわね」
 あゆみの指す方向には外園が座っていた。
 外園は女の子の肩に手を回しながら楽しそうに話している。笑っているかと思えば、次の瞬間回した手で女の子の後頭部を押して、顔をくっつけて、キスをした。
「私たちもキスする?」
「はい」
 僕は「うん」と「はい」しかまともに発声できない。そして「はい」と言い終えたと同時にあゆみの唇は僕の唇に急接近した。あゆみの息が頬にかかる。体が溶けて顔も頬から溶けてしまいそうだった。そして唇も唇で塞がれ、全身が溶けてしまいそうな快楽に身を委ねた。
「舌出して」
「はい」
 もうどうされているのかわからなかった、ただただ気持ち良い感覚が唇から全身に襲いかかった。
「唇、やわらかいね」
 褒めてくれているのだろうか?
「おっぱい触る?」
「はい」
 あゆみは透けているランジェリーの肩を外した。ふくらみがあらわになって僕の鼓動は再び急上昇する。あゆみは僕の手を取って、ふくらみへ当てがった。
「どう?」
「はい」
「はい、じゃわかんないよ」
「やわらかいです」
「本当に緊張してるのね。京都の人?」
「はい」
「私は最近こっちに来たから京都のこといろいろ教えて」
「あゆみさんは関東の人なん?」
「そうね」
 外園といい、あゆみといい僕は関東の人間と縁がある。緊張が取れて京都のことを話してそれから雑談していたら時間いっぱいになってしまった。
「ありがとうございました」
 四人で外へ出る。
「水田くん、どうだった?」
「と、とてもよかった」
 大人の階段を上がりましたと報告を済ます。
「そりゃよかった」
「あずーまは?」
「うーん。タイプじゃなかった人が来よった」
「それは残念。次回に繋げよう」
「次あるんかい!」
「岸くんは?」
「巨乳が来よった」
「ご満悦そうで何より。外園企画第二弾もお楽しみに。帰ろっか」
 ずっと家で引きこもっていて、治療を開始して一年でここまでこられたことが僕の中で大きかった。外園がいろいろ誘ってくれて、僕は感謝している。
 入院した時にはもう人生完全に終わったと思ったけど、そこでしっかりと投薬治療をスタートできたので逆に良かったのかもしれない。ただ、何がきっかけで入院したのか全く覚えてなくて、周りに聞いても教えてくれない。知らなくていい、と皆諭してくる。
 僕はもっと自分の病気のことを知らなくては、これから戦っていけない。やっぱり働きたいし、できれば就職したい。もちろん障害者枠の利用も考えている。けれどできれば一般枠で就職したい。病気といえども普通に生きたいという思いが強い。自殺した田村の無念も僕が晴らしてやる。必ずこの社会で成功するのだ。
 軽い命として扱われるのは、ごめんだ。

   〜街外れの夜〜

 薄暗い部屋の片隅にある将棋盤の前に僕は座っている。僕の部屋は常に薄暗い。窓のカーテンは閉まったままで電気もつけないからそうなっているのだが、この薄暗さは僕の心情を映しているようにも思う。常に暗い気持ちを抱えて僕は生きてきた。小学校の頃からあまり変わっていないこの部屋には、今の僕にとってかなり小さく感じる勉強机が部屋の面積を狭めていた。そこに座ることなく、床に直接座る。
 生きる目的もなく生き続けることの儚さよ。僕は何かを成し遂げたいと最近強く思うようになった。病気のこともあるし、無理だろうという思いも強かった。その何かを僕は探し求めていた。
 パチン。
 二階にある僕の部屋で将棋の駒をひとりで並べて遊ぶ。プロの対戦を盤上に再現し、華麗な棋譜に酔いしれる。最近はひとりでいる時は決まって棋譜を並べていた。これが実に楽しい。将棋のプロを目指したいとさえ思っている。しかし将棋のプロになるには二十六歳は遅すぎた。小さい頃はプロになるなんて発想はなかった。やりたいことができてもチャレンジすらできない。もう僕の全てが終わっているのではないかという考えが何度も頭をよぎる。
「ご飯や」
 母が声をかけてくる。
「はい」
 僕は素直に母の声に従いご飯を食べに一階へ降りる。
 食卓には父もいる。
 僕は黙々と白ご飯とトンカツ、その付け合わせのキャベツ、菜っ葉の煮浸しを食べて、食器を洗場まで持っていき、ごちそうさまも言わず二階へ上がる。
 二階に戻ると次の一手を考える。色んな手が見えるがプロの一手は想像を超えてくる。
「そうくるか」
 独り言を言いながらまた次の一手を考える。そんな時間はそれなりに楽しい、が辿り着く場所がない。ずっと駒を並べていても人生に進展性がない。
「ちょっといいか」
 父がドアの向こうから話しかけてくる。
「お前これからどうするんや? 医者の許可がないと働けないのか?」
「だから労働する許可もらったら働くから」
「精神的な病気とかなんとか言っとるけど、わしに言わせたらそんなもん全部甘えや。もっとやる気出していけ。やる気さえあればなんとかなるんや。わかったか?」
「はい」
 一呼吸おいて父は捨て台詞を吐いた。
「いい加減にせいよ」
 そうして父は一階へ降りて行った。
 ほぼ毎日こんな感じなので慣れてはいるが、どうしても凹んでしまう。精神の病気に対して何の理解もないのが何より辛かった。
 こうなると棋譜を並べる気力さえ失ってしまう。そしていつもだったらこのまま寝てしまう。
 このサイクルを繰り返していると一生なんてあっという間に終わってしまうのだろう。
 何も成し遂げず年老いていくなんて悲しすぎる。この世に何かしらの爪痕を残したい。自分にしかできない何かを残したいのだ。父が寝たのを確認してから、僕は深夜の散歩に出かける。
 月明かりを頼りにふらふらと歩く。ペンキの剥がれたポストを意味なく触り、埃で汚れてしまった指先を見て、ホッとしてしまうのは何故だろう。こんなことで生きている実感をしているのだろうか。昼間の暑さの残骸が、僕の全身の肌を汗ばませる。真夏の残り火は、強い怒りを持って僕を責めている。
 夜中の街外れには人があまりいない。昼の街中に溢れかえる、冷めきった視線や、下品で大きな話し声、人ごみで感じる隣の人の生ぬるい体温、それら全てが嫌だった。暗闇と静寂が支配している夜の街外れが好きだ。
 ふと数少ない通行人が横を通る。それだけで全身に緊張が走ってしまう。特に女性だと緊張は何倍にもなる。こんなことではダメだと思いながらも、自分ではどうしようもなかった。
 これからのことをいろいろと考えなければいけない。今はデイケアに行けているだけマシなのかもしれない。
 今、僕は一歩でも前に進まないと、もうこのまま何も成し遂げられないまま、消えてしまう。でも自分が何をしたいのか、それすらわからない。
 やはり働くことが大事なのだろうか?
 社会復帰が本当のゴールなのだろうか?
 デイケアで就労訓練のプログラムがあるけれど、入る気にはなれない。ひたすらチラシを折って何になるのだろう。馬鹿げているとしか思えない。
 それに本当に僕には精神の障害があるのだろうか?
 何か間違いではないか。誤診ではないか。
 最近は薬を飲み忘れることが多々ある。それでも僕の病状は悪化しなかった。だから誤診を疑う気持ちも強い。今は医者の判断で職探しをしていないが、僕は今すぐにでも働きたかった。社会の歯車になりたかった。
 すれ違うセダンのヘッドライトが照らす先には、八坂神社の鳥居があった。数日前のあの日、僕は生まれてはじめてと言っていいぐらい、遊ぶということをした。夜遊びなんて世間的に良くないのかもしれないが、その経験は僕の自信になっている。
 この自信を次に繋げよう。
 外園の次の企画に期待をしながら、ぼーっと赤い物体を見つめ続けた。
 明日はデイケアに行く予定だから早く寝ないと、という思いと裏腹に、朝まで鳥居を眺めていたい衝動が僕の中で大きくなっていく。
 それから一時間ほどで、もう帰ろうという結論に達した。

 デイケアはとにかく暇だった。
 レクリエーションでオセロや将棋、囲碁などができるスペースがあって、僕はだいたい将棋盤の前に座っている。ひきこもっている間、ずっと将棋ばかりをしていたせいか、僕が強すぎてデイケア内にはスタッフを含めても、相手がいなかった。
——水田デイケア名人
 そう呼ばれるようになっていた。まだデイケア内では負けたことがなかった。
 東がデイケアのスタッフとオセロをしているのを見つける。この前は囲碁の盤で五目並べをしていたし、その前は将棋をしていた。東はボードゲームを満遍なく愛しているようだ。
 一方僕は将棋しか、しなかった。
 オセロは勝ち方がよくわからないし、五目並べはうまく守れない。
 僕は将棋一筋だった。
 東と一局指したかったが、東は僕とやりたがらない。勝ち負けは別として、東と将棋で交流したかった。東がオセロでスタッフに快勝したところへ声をかける。
「東くん、将棋せーへん?」
 東は考えるふりをして答える。
「また今度なー」
 と、あっけなく断られる。
「これから散歩行くんやけど、一緒にどうや?」
 と、逆に誘われ、暇を持て余している僕は将棋を諦めて、東と散歩に行くことにした。
 セミの鳴き声が延々と周りに響いていて、刺すような日差しは僕の柔な肌を貫通する。
「テニスっておもろそう」
 散歩中にテニスコートを横切り、東は興味を持ったようだ。
「こんなに暑いのに、死ぬで」
「そういえば水田くんって緊張型なん?」
 何を言っているのかわからなかった。人に対して緊張してしまうところを揶揄されたのかと勘違いして僕は答える。
「知らない人とテニスするのは緊張しそー」
「やなくて、病気の型の事やで」
 そんなこと言われても僕にはわからない。
「知らない」
「そっかー。俺緊張型らしいねん。他の人ってどんなんかなーって思って聞いてみただけ」
 東は話を打ち切ったように思わせて、そこへまた畳みかけてくる。
「そうそう、俺が入院したときって知ってる?」
 そんなこと知らないに決まっている。
「知らんよ」
「それがな、俺東京に行ってしまってん」
「ん?」
「だから、なんでもできるような気がしてひとりで勝手に上京してしまってん。でも俺あんまり覚えてなくて。そのまま警察に保護されてこっちで入院になったみたい」
 興味深い話だった。僕も入院のときのことをあまり覚えていない。それは同じだ。
「それが緊張型ってやつの特徴なん?」
 東は腕組みをして考える。
「よくわからん」
「よくわからんのが特徴っぽいけど」
「確かになあ。まあええわ、ねえ、今度みんなでテニスしよーよ」
 東の興味はテニスに戻った。
「外園くんに言ってみよか」
「ホカちゃんオッケーしなさそー。人の意見とか取り入れないし」
 東は外園の自己中心的なところが気に食わないらしい。
「でも外園くんは他にいいところたくさんあるやん。リーダーシップがあったり、面倒見がよかったり」
 東は眉をひそめた。
「そんな褒めすぎや。あいつ結構ちゃらんぽらんやぞ」
 僕が外園を買っているところが、もっと気に食わないようだった。ここはうまく切り替えして穏便に事を進めよう。
「東くんも面倒見いいし、付き合いもいいし、ええとこいっぱいあるで」
 寄っていた眉は、ハの字に広がり随分と照れているようだった。
「そ、そうかな?」
「うん。行動力もあるし、正義感も強いし」
「そ、そんなに褒めても何もでーへんよ」
「一緒にいてて楽しいし、落ち着くよ」
「もうええって!」
 恥ずかしさのあまり、東は大声を出してどこかへ走り去ってしまった。
 最近、素直に人を褒めることができるようになった。言われた本人はちょっと恥ずかしいかもしれない。ただ僕自身が他人の長所を冷静に見つめられるようになった結果なのだ。
 少しは成長しているのかな?
 社会へ出るための準備というか、世間に通用するものを、小さなことでいいから少しでも持ちたい。社会の歯車に組み込まれるためには日々の精進が不可欠だ。このまま頑張っていったら普通の人になれるような気がしていた。
 

   〜真夏の甲子園球場〜

 八月に入って十日ほど経つと、外園はみんなを集めた。
「外園企画第二弾は甲子園での高校野球観戦だよー」
 提案はとても健全なものだった。
 東のみんなでテニスを、という意見は全く通らなかったが、東も納得しているようだった。
 発表があった次の日、僕たち四人はデイケアをサボって、甲子園へ向かって早朝に出発した。
「甲子園まで遠いなー」
「私鉄を乗り継げばすぐだよ」
「ほんまかいな」
 東は言いがかりをつけているようだが、表情が柔らかかった。
「俺、甲子園マニアやねん」と東は自信満々に胸を張る。
「じゃあいろいろ教えてよ」
「もちろん!」
 甲子園の最寄りの駅に着いたら、すでに第一試合が始まっていた。すぐに試合を見に行くのかと思ったら外園は「ハンバーガーとポテト食おうよ」とファーストフード店へ誘う。東だけは早く見に行きたがっていたが岸と僕も小腹が減っていたので、三対一の多数決でファーストフード店へ入ることになった。
「今日の第一試合の注目は先頭バッターの連続出塁記録やね」
「どゆこと?」
「先攻のチームの先頭バッターがな、地方大会の一回戦から先頭打者でずっと出塁してるねん」
「そんな見所あるなら早く言ってよー」外園が大きな声を出す。
「だから早く行きたがってたのか」僕は納得する。
「で、結果は?」
 東は携帯でチェックする。
「お、ツーベース打ってるやん!」
 実に嬉しそうである。
「他に今日の見所は?」
「じゃあ、今日の見所いうでー。第二試合の強豪校同士の対決、第三試合の初出場校同士の対決、第四試合の後攻のチームのエース、角田くんの連続無四球記録の更新やな」
「第四試合の記録はすごく地味だね」と外園。
「地味やけどすごい!」
 東は記憶力がすごくいいから、いろんな記録知っているんだろう。
「ポテトもう一個買って食べていい?」外園はジャンクフードに夢中だ。
「ダメダメ」
 と強引に東は外園を店の外に出して、蔦に囲まれた野球場へと向かわせた。
「外野席だと無料やで」
 東の提案に外園は反抗する。
「何言ってるの? ここはアルプス席でしょ」
 対抗するかと思われた東は「アルプスもありやな」と素直に合意した。僕と岸にはほぼ決定権がないので、有料でアルプススタンドに行くことに決まった。
 アルプススタンドには応援団がいて、太鼓の音や声援でかなり煩かった。それにテレビでしか見たことのないチアガールがたくさんいる。露出の多い服装をしていたので僕は視線のやり場に困った。テレビだと何でもないのに不思議なものだなと、ひとり思っていた。
 第一試合は終わっていて、すでに第二試合が始まっている。グレーのユニフォームを着ているチームがこちら側のアルプススタンドで応援している。
「これは優勝候補のチームやね」と東は嬉しそうに周りを見渡す。
「こっちのチーム強いん?」と聞いてみたら
「まあ見てなって」
 自信ありげに東は腕を組んだ。
「あずーま、監督みたいやな」外園は視線を違うところにやりながら呟く。
「ホカちゃん、チアリーダーばっか見てたらあかんで」
 東のツッコミに岸がクスッと笑う。
「みずーたもガッツリ見てるやん」
「ワハハハッ!」
 僕は視線を一瞬たりともチアリーダーに注いでないのに。完全に濡れ衣を着せられる。でも皆に笑いが起きて盛り上がっていいかな、とも思ってしまう。このメンバーだと不思議と心を許せてしまう。そんな自分のことを僕は少しだけ好きになれそうだった。
 盛り上がってきて東の解説にも力が入る。
「岸くんバンドやで」
「お、おう」
「岸くんヒットエンドランやで」
「うん」
「岸くん、パンチラやで」
「知ってる」
 岸はある意味しっかりしていた。
 外園も知っているようだった。僕だけ知らないみたいなので周りをちゃんと見渡したら、それらしきものが見えたので、視界に入れないようにした。恥ずかしさが性欲を上回っているのはどうやら僕だけのようだった。
「打ったー」
 打球の行方を追っていくと、ボールは外野スタンドに入っていった。すると周りにいる人全員が立ち上がって拍手をし、応援団の演奏に合わせて掛け声をかけた。
「ホームランやー」
 僕はボールの行方を追って首筋が痛くなった。横を見ると外園と岸も同じように首を気にしているようだった。ただ東だけは気合の入り方が違っていて、首が痛いなどのそぶりは一切なく、双眼鏡片手に試合の説明を一生懸命してくれていた。その後も攻撃の手を緩めないこちらのチームが勝利を収めた。
 それから、こちら側の学校の校歌が流れ出した。驚いたのは東も一緒に校歌を歌っていることだ。
「なんで知ってるの?」
「有名校やもん」
 記憶力がいいからいくつもの校歌の歌詞もすぐに覚えてしまうのだろう。
 第三試合は投手戦になった。
「しびれるなあ」と喜んでいるのは東だけだった。僕と外園と岸は派手な打撃戦を欲していた。見方によってはお互い打てないだけの試合かもしれない。
「打てよー」
 僕たちの思いは叶わない。
「打たないならもう帰ろっか」
「えっ、第四試合は?」
「もういいんちゃう」
「連続無四球記録見たいでー、すごく見たいでー」
「そんなん退屈過ぎるし、却下」
 外園の一声で東の楽しみも吹き飛ばされた。
「ちぇ、楽しみにしてたのに」と今にもグレてしまいそうな東に岸が「疲れたからちょっと休めるとこに行こう」と話しかけた。
「そやね、炎天下でみんな消耗してるもんな、仕方ないな」と機嫌を損ねないで済んだ。岸も長い文章を喋れるんだなと、それと妙な説得力があるなと改めて感じた。
「行ってみたいとこあるねんな」
 東はここぞとばかり自分の主張を通そうと必死だった。
「とりあえず大阪まで戻ってから考えよう」
 主導権を握っていたい外園は東をけん制する。
「新世界に行きたいけどなー、行こうぜー」
 東の強行突破に
「あの辺怖いし却下」
 外園は一刀両断する。僕は新世界に少し興味があった。なんでもとても強い将棋指しが集まっている道場があるらしい。でも僕の意見なんて聞いてもらえない。そのとき
「おいらも行ってみたい」
 と岸が東の方に味方した。
「僕も」と便乗して三対一の構図を作ることに成功した。
 こうして珍しく外園以外の意見が通って、僕たちは通天閣がそびえ立つ新世界へ向かうことになった。


   〜新世界〜

 雑然とした街の片隅にある立ち飲み屋には信じられないほど多くの人たちがたむろしていて、煤を被ったような髪の毛やヒゲが不気味に蠢いていた。街中には派手な看板が転がっていて、日が暮れてからよりいっそう派手になるのだろうと安易に想像できた。広めの道もあるが、なぜか狭い道の方に人が大勢いて、歩いていて皆とはぐれないか心配になるほど一時停止を余儀なくされた。幾多の串カツ屋が軒を連ねていて、その中には看板がない店もあった。
「この串かつ屋、有名なんちゃうん」と行列ができている店を指差す東だが。
「並ばないよ」と外園の許可は下りない。
 珍しく岸が何か言いたそうにしている。
「そ、そこはどう?」
 岸の視線の先にあるのは、ほったて小屋のような、何屋かわからない、全てがボロボロでしかない空間だった。
「岸くん、あそこはちょっと」
「ここはきつい」
「ごめんね」
 と岸の意見は三人ともに却下された。
 僕も行きたい店を探してみることにする。食べ物屋を見つけるつもりだったがやはり心のどこかで将棋道場を探していた。するとそれらしきものが見えてきた。僕は夢遊病の患者のようにスーとそちらの方へ引き込まれていった。
「水田くん、ちょっとどこ行くの?」
 ガラス越しにある盤は、将棋にしてはちょっと細かすぎるマス目に見えた。それは碁盤だった。
「囲碁できるの?」
「いや、将棋かと思って。違ってた」
 その道場には中年、もしくは初老ぐらいの男たちがウヨウヨいて、黒と白の石を交互に盤に打っていた。得体のしれない圧力がその空間から放たれていて、とても近寄りがたかった。
「ねえ、奥の方将棋やっとるみたいやし行かへん? ってか行こうぜ!」
 東はひとり先頭に立って店に入っていく。残された僕たち三人は慌てて東の後を追う。
「たぶんお金いるよ。早く戻っておいでよ」
 いつになく心配性な外園だった。
「見学させてください!」
 東は正々堂々正面から攻めた。受付に座っている頭の禿げたおじいさんが対応してくれる。
「見学だけかい? 指したくなったらまた声かけておくれ」
 と見学の許可が下りた。僕たち四人は好きな盤の元へそれぞれ歩みを進めた。
 それにしても東はとても熱心に将棋を見ている。僕も東の隣にいって同じ盤を見る。すると東が僕に話しかけてきた。
「ねえ、なんで飛車を守らないの?」
 一目見て僕は答える。
「今が飛車の捨て頃なんだ。相手に飛車を取らせている間に一気に攻め潰してしまおうという作戦だよ」
「それじゃあ相手も飛車を取らなければいいんじゃない?」
「飛車を取る手以外に有力な手がなさそうだけどね、もう困ってるんじゃないかな」
 僕と東が話し込んでいたら後ろから声をかけられた。
「兄ちゃんなかなか手が見えてるやないかい。俺と一局どうや?」と肩を叩かれた。でもいきなり知らない人と対局するのは抵抗があった。
「デイケア名人の力の見せ所だね。頑張れ!」
 外園の一声で僕は勝負しようと決意した。ただ僕はほとんどインターネット上で将棋をしていて、実際に盤に駒を並べて指すのはデイケアにいるときだけなのが心配の種だった。
「まーさんが指すってよ。珍しいこともあるもんだ」と近くにいたおじさんが目をむいていた。すると僕の相手のまーさんは鞄から平べったい桐の箱を取り出した。
「こいつでやろう」
 と平らな箱を開ける。そこには将棋の駒が入っていた。しかしその将棋の駒は普通の駒ではなかった。駒の文字は木地深く彫り込まれていて、その迫力のある字体に目を奪われる。駒の木地の部分は艶やかな飴色をしている。それ以上に美しいのは黒光りしている文字の部分だ。駒がまるで宝石のような輝きを放っていた。
「この駒は一体な、何なん?」
僕はあまりにびっくりして失礼な言い方をしてしまった。まーさんは笑いながら答えた。
「びっくりしたやろうな。これは大阪駒ゆうやつや」
「大阪駒?」
 初耳だった。
「そう大阪駒。字体は蜀江っていうんや」
「しょっこう?」
「そうだ」
 将棋のことはよく知っていても将棋の駒のことは全然知らなかった。こんな魅せる駒があるなんて初めて知った。この駒は気品もあるが、それ以上に迫力が凄かった。彫りの深さは、向こう側に穴が開くのではないかというほど深く、彫った黒い部分は艶かしく僕を惹きつけた。この駒のことが気になって仕方なかった。
「この駒はいくらくらいするのでしょうか?」
 失礼のないよう丁寧にした僕の質問にまーさんはニコッと笑った。
「勝ったら教えてやるよ。さあ始めるぞ」
 僕は自信があった。一手一手をしっかり考えて指せば絶対に勝てる。
 道場にいる人のほとんどが僕とまーさんの将棋を見に集まっていた。これだけ注目されるのは初めてだったので、緊張でうまく手が動かない。でも勝たないと、この駒のことを教えてもらえない。
 一手指すごとにまーさんの強さが伝わってきた。隙がなく僕はどうしていいのかわからなかった。僕から攻める手順はない。だがまーさんから攻めてくる手順は山ほどある。それなのにまーさんは駒組みを続けた。僕はその間に守りを固め、まーさんの攻める手を消した。
「なかなかやるねえ」
 次の手がとんでもなく厳しい手だった。僕は一目で自分が不利になったことを悟った。まーさんの作戦は僕に守らせて、さらにその上の手を指して、メンタルごと潰そうという作戦だ。ここで困った顔を見せてはいけない。平気な振りをして逆転できそうな手順を探す。不利なときは戦線拡大、という格言に基づいて、僕は相手の意表をつく手を指す。これで勝負はまだまだわからない。
「ほー、思ってたよりずっと強いね」
 ちょっとバカにした言い方に僕は腹を立てる。よし、見てろよ。
 今度は僕が一手指すごとにまーさんの顔が真剣になっていく。あれだけ喋っていたまーさんが無口になる。
「あれ、まーさんやられてるんじゃない?」
「ボウズ、やるじゃねえか」
 外野が騒がしくなってきた。粘り強い僕の手がいつの間にか僕を優勢にさせていた。まーさんの顔が熱を帯びて赤くなってくるのがわかった。僕の体温も同じように上昇しているのだろう。
「水田くんすごくね?」
 外園が東に話しかけている。東はじっと僕とまーさんが指している将棋盤を見つめている。東も僕たちの将棋にのめり込んでいるようだ。
 まーさんの手番だけど、まーさんはなかなか指さない。
 大長考と言えるほどの時間を費やしてまーさんは次の手を指した。それは何の変哲もない、予想できる範囲内の手だった。よし、これならやれる。僕は安堵した。
 しかしこの時点で僕はすでに負けていたのだ。
 顔を真っ赤にしたまーさんは僕が指すとノータイムで指し返してきた。次の手もまたその次の手もノータイムで返してくる。そう、先ほどの大長考で全てを読み切られていたのだ。すでに手順を変化させることが難しいところまで来ていて、僕が負けるシナリオが盤上を支配していた。
「いつの間にかまーさんが勝勢になっとるぞ」
「どこで逆転したんだ?」
 外野が騒ぎ始めて僕は自分の見解が正しいのだと、知らない間に負けになっていたことを認めざるをえなかった。まーさん側の駒たちが躍動しているのが誰の目にも明らかだった。
 そして僕は「負けました」と頭を下げた。
 負けたことの悔しさより、駒のことを知れない悔しさでいっぱいになる。
「強かったよ」
 まーさんの顔はまだ赤かった。
「完敗です」
 僕はその場を去ろうとした。
「おい、小僧。この駒のこと知りたいんやろ?」
「はい、でも……」
「教えるだけならタダだからな」
「この駒のこと知りたい。値段だけでなく、どういうものかということも、知りたい。お願いします」
 僕はもう一度、頭を下げた。
「これは十万くらいらしい。作者は関西在住のアマチュアの駒師だよ。ある大会で優勝して景品で譲り受けたんだ」
「十万円もするんですか」
「高い駒はもっと高いぞ」
 十万よりもっと高い駒って誰が買うのだろうか。
「作者の名前とかわかります?」
 まーさんは王将の駒を指で挟んで、駒の下の部分を見せてきた。
「剣水作、と彫ってあるだろう」
 剣水、その名を僕は胸深くに刻み込んだ。
「一度お会いしたことがあるが、あれは豪快な男だ」
 どんな人がこんな素晴らしい駒を作ったのだろう。僕の好奇心が疼いて仕方なかった。
「どうしたら剣水って人に会えますか?」
「さあな」
 会うことはなかなか難しそうだ。僕は気を取り直してまーさんに頼んだ。
「駒の写真撮らせてもらっていいですか?」
 まーさんは難しい顔をする。しかし次の瞬間吹き出していた。
「わはは、そんなもん許可なんかいらんぞ。何ぼでも撮ったらええぞ」
 僕は携帯で写真を撮る。二十枚くらい撮っていたら、またまーさんは笑い出した。
「そんなに撮ってどうするんや。もう笑ってまうやないかい」
 そう言われてからさらに何枚も写真を撮って僕は満足した。
「ありがとうございました」
 まーさんたちに頭を下げて、僕たちは道場を後にした。
 外に出るともう暗くなっていた。通天閣がカラフルに輝いていて、僕たち四人の視線を集めた。
「あの人強すぎだわ」
 かっこをつけて外園は視線を通天閣に向けたまま真顔で言い放った。
「手の意味が全然わからんかったわ」
 東はわざとらしく外園の真似をしている。
 岸は僕の方を見て「凄かったよ」と目をパチクリさせる。
「将棋のプロになれるんちゃうん?」
 最近デイケアでよくされる質問だったので答えには困らない。外園の視線はまだ通天閣の放つ怪しい光に固定されている。
「プロは僕なんかより、はるかに強いよ。それに二十六歳までにプロにならないといけないという年齢制限もあるし」
「今二十六歳なんとちゃうん?」
 飽きたのか、外園の真似をやめて、普通に聞く東の質問にも丁寧に返事をする。
「プロになるまでには何年もかかるし、プロになる人は小学生くらいで奨励会っていうプロの卵たちが集まる組織に入って、そこでかなりの好成績を残さないとプロにはなれないんだ」
「ふーん。じゃあもう絶対無理なの」
「うん。百パーセント無理やで」
 それからみんなあまり話さなくなった。みんなかなり疲れているのと、家が遠いこともあって夜の街に行こうという提案もなかった。帰りの電車の優先座席で僕たちは眠りに落ちていた。


   〜駒の会〜

 あれから僕は、あの日見た将棋駒のことばかり考えていた。衝撃は日を追うごとに僕の中で限りなく広がっていく。いつの間にか僕の全ての意識はそこに注がれていた。
 そして僕はひとつの答えにたどり着いた。
¬——自分で将棋の駒を作りたい。剣水氏に弟子入りして駒作りの真髄を教えてもらいたい。
 いきなりあんなに迫力あるものはできないにしても、なんとか形にはなるだろう。
 でもいったいどうやって作るのだろうか?
 文字の黒い部分の墨はどうやって入れるのか?
 そもそも何の木でできていて、どこから切り出しているのか?
 わからないことだらけだった。そんなときに東が手掛かりになりそうな情報を調べてくれていた。
「みずっち、こことかいいんちゃう」
 とホームページを印刷した紙を数枚くれた。そこには『大阪将棋駒研究サークル』の文字が躍っていた。
「ここに行けば何とかなるぜ。あの駒作った人もいるかもなー」と相変わらず楽天的な東であった。
「大丈夫かなあ」
「そりゃあ大丈夫よ。俺もついて行ってやんよ」
 僕は素直に東の好意を受け入れることにした。
 こうして東に連れられて僕は次の一歩を踏み出すことができた。今回は東とふたりで大阪に出ることになった。東は僕より若くて、行動力がある。
「ありがとね」
「気にせんでええよ」
 持つべきものは友である。
「やれるところまでやればいいじゃん。水田くんには無限の可能性があるのだから」
 後ろから声をかけられたのでびっくりした。振り返ると外園の笑顔があった。
「でも忘れちゃダメだよ。人はあるがままでいいってことをね。無理は禁物。わかった?」
「ただ自分の駒を作ってみたいってだけやけどね。でもそんな小さな一歩でも僕の中ではすごく大きいことなんや。やりたいことがあるってすごく前向きになれて、気分も清々しくて」
「やりたいことがあってもなくてもいいんだよ。今の自分自身でいいんだ。自分を認めてあげることがとっても大事なことなんだ」
 外園にしては真面目な話である。
「ホカちゃんにも信念っていうものがあるんやね」
「当たり前だよ東くん」
「外園くんも来る?」
「いいや、いかない。これは大人数で行くもんじゃない。頑張れ水田くん」
「みんなありがとう」
 外園の後ろに隠れていた岸も「がんばれー」と声をかけてくれた。
 僕ひとりじゃきっと何も行動できなかっただろう。仲間の力添えが僕を前に進ませた。

 梅田の迷路のような地下通路を歩き、昼間からギラギラした看板を尻目に行くべき路地を探し、僕たちは目的地にたどり着いた。
「ここやんね?」
 僕は東に確認する。
「そのはずなんやけど」
 と東も頼りない返事を返してくる。
「どこから入るの?」
 入口らしいものが見当たらなくて困っていると、どこからかおじいさんが三人やってきた。白髪の人と、杖の人と、ロン毛の人がいた。そして壁と壁の間を横向きになって入って行こうとした。この人たちが将棋の駒を作っている人たちかもしれない。
「あのう、将棋の駒を作っている人たちでしょうか?」
 僕は勇気を振り絞って丁寧な言葉遣いで声をかけた。
 一瞬の間が長く感じた。
「そうやで」白髪の人が答えた。
「君たちはホームページ見て来たんか?」と杖の人が言うと僕はすかさず「は、はい!」と軍隊でも通用しそうな大きな返事をする。
「わはは、生きがいいのが来よったな」と白髪。
「若いのは大歓迎や」とロン毛の人が初めて喋った。
 まずは受け入れてくれて嬉しいのだが、これからここにうまく馴染めなかったらと思うと、緊張が全身を駆け抜けた。右手と右足が同時に前に出る。
「そう硬くならんでもええよ。リラックスリラックス」
 年の功だけあってなんでも見抜かれてしまう。そして隣では東が笑っている。
「わざと? 笑わせようとしてる?」
「違うよ」と真面目に返すと、今度は腹を抱えて笑い出す。僕は東が普通に戻るのを根気強く待った。
「悪い悪い。つい面白くて、吉本入るのかと思ったわ。吉本……じゃなくて駒作りのサークル入れてもらい。俺はここで帰るわ」
「えっ、一緒に来てくれないの?」
「俺の使命は水田くんを駒作りのサークルまで連れてくること。任務は完了やでー」
 僕は不安いっぱいだったが、ここまで連れて来てもらえたのだから、ここからはひとりで頑張らないといけないと気を持ち直した。
「友よ、ありがとよ」
「もー、また笑わせにくる。いつの時代の人やねん、ははっ、じゃあねー」と笑いながら東は帰っていった。
「さあ駒サー始まるよ。早く行こう」僕は背中を押されて駒作りのサークルへ出席することになった。
 真夏の昼下がり、僕の胸の鼓動は今まで生きてきた中で一番、高鳴っていた。

 い草の一本筋の通った香りがほんのりとする和室に、僕は通された。
 そこにはすでに数人の参加者がいて、皆僕よりも随分年上のように見えた。
「若い子はいることはいるが、今日は来ないんじゃないかな」
「そうですか。ここは関西の駒師がたくさん所属しているんですか?」僕はあの駒の作者、剣水氏が所属しているのかを知りたかった。
「まあいろいろおるよ」
 じゃあ、と核心に触れる。
「剣水って名前で大阪駒を作っておられる方はいますか?」
 いるわけがない。でもわずかな可能性にかけたかった。いなくても手がかりぐらいはあるだろう。
「ああ、おるよ。今日も来るんじゃないかな。あの人は熱心だから」
 世間は狭いというか、駒の世界が狭いというか、僕はいきなり金脈を掘り当てたのだ。しかしこう周りを見ると、老人ばかりで、剣水氏もかなり高齢の方なのかと思わざるを得なかった。
「剣水さんに会うのが目的だったのかな?」
「はい。でもまさか本当にいるとは思いませんでした。それと自分でも駒を作ってみたいなと思ってまして……でもこんな若造には無理ですよね」
「まあいい駒を作ろうと思ったら長年の経験とか卓越した技術とかが必要やけど、作るだけだったら熱意があればできるさ」
「熱意はあります!」
 と思わず大きな声を出してしまい、周りの視線を集めて恥ずかしくて顔を赤らめてしまった。
「若いっていいねえ」
「わしにもあんな時代があったなあ」
 余計に恥ずかしくなるので「トイレに行ってきます」とその場から逃げ出した。
 廊下には昔の棋士の肖像画がいくつか飾られていた。故永世名人の肖像画の奥にトイレはあった。三つ小便器が並んでいて、僕は何となく真ん中にポジションを取った。
 すると左側にラグビー選手のようなガタイのいい男が、右側に白髪の老人がやってきた。白髪の老人は先ほど道案内してくれた人だ。そして僕を挟んで会話を始めた。
「うまくいっとるんか?」と白髪が視線を便器に向けたまま話しかける。ガタイのいい男がドスの効いた笑い声を上げる。
「ガハハ、そう見えるか?」
 僕の腹の底までガタイのいい男の低音が響く。
「いや、お前さんのことやからいい感じなんやろ」
「まー、リョウコはいい感じやなあ」
 僕には何がいい感じなのかよくわからない。リョウコとは古めかしい女性の名前のように思える。
「また聞かせてや」
「ああ、後でたっぷりとな」
 僕より後に来たふたりが先にトイレから出て行く。話の流れからすると北新地のホステスを口説き落とした、という感じだ。
 部屋に戻るとさっきまでなかった桐の箱に入った駒が十組くらい机の上に並べられていた。みんな駒を見たがって前に押し寄せて、後ろからはしっかりと見えない。ここにいる誰かが作った駒なのだろう。
「せっかくだから見せてもらったら?」
 白髪に背中を押され僕は駒があるところまでたどり着いた。
 なんだ、この輝きは……
 僕にはあまりに眩しく、直視できない。
「それは錦旗やな。こっちは菱湖。どっちもオーソドックスなやつや」
「キンキ? リョウコ?」
「そう。書体の名前やな」
 リョウコがいい感じ、というのは北新地のホステスの名前じゃなくて、将棋の駒の書体の名前だったんだ。ということはあのガタイのいい男はいったい?
「長録もあるで」
 ドスの効いた低音ボイスが背後から響く。
「水無瀬も源兵衛清安もあるで」
 振り返ると、やはり先ほどのガタイのいい男がいた。
「兄ちゃん、いっぱい駒見いや。見る目を養い」
「は、はい」
 そう答えて近くにある駒を手に取った。
「兄ちゃんお目が高いな」
 僕の手は震度五くらいの地震が来たかのように震えていた。
「この駒はな……」
 僕が震えている様子を察してガタイのいい男の声が途切れた。僕も言うべき言葉があったので、それを口に出すしかなかった。
「こ、これ、蜀江ですよね」
 何度見ても惚れ惚れしてしまう。書体の良さ、彫りの深さ、文字の黒い部分の輝き、これはまさしく剣水作の蜀江であった。
「ということは、あなたが剣水さん?」
「俺そんなに有名人だっけ? ガハハ」
 職人だから無口なイメージがあったけれど、思っていた人とは全然違った。それは悪い意味でもいい意味でもなく、存外なだけであった。そして僕は自分でも驚くぐらい早く次の行動をとった。
「あ、あのっ、僕に駒作りを教えてください! お願いします!」
 剣水氏は驚いているような、そうでもないような表情を浮かべて冷静に答えた。
「ええぞ。ただ駒作りは思っているより手間がかかるぞ。根気や丁寧さが必要になってくる。それにお金もかかる。大丈夫か?」
「あの、お金がかかるって、どれくらい?」
 働いていない僕は余分なお金なんてほとんど持っていない。
「そうだなあ。例えば駒を一組作るとしよう」
「はい」
「まずは駒木地に安くて一万くらいはいる」
「はい」
「木地を彫る彫刻刀が一本五千円、文字を埋める漆を用意するのに一万、駒を磨くサンドペーパー代もバカにならんし、彫刻刀を研ぐ砥石もそれなりにする」
「は、はい……」
「他には、砥石を平らにする道具が四万くらいかな」
「はあ」
「駒木地のいいやつは十万、二十万するのは当たり前だから、いい木地で駒作りたかったら、また余計に金はかかる。なんとかかんとかいって他にもいろいろお金要るよ」
 とりあえず医者の許可を得て働かなければ前に進まない。
「本気でやりたかったら連絡ちょうだい。それと、これやるよ!」
と剣水氏から名刺と、紐の付いた歩の駒を渡された。そこには連絡先が記されていた。
「あ、ありがとうございます! このストラップみたいな駒は?」
「最初はみんな一歩ずつってことを忘れるなよ。ってことでお守りやね。あと君の連絡先も教えてやー」
 僕は剣水氏に連絡先を伝えた。心強いお守りも手に入れ、大阪を後にした。

 歩の駒を見ながら僕は思う。立派な駒が作れるような人になりたい。心の病気は気のせいかもしれない。たまたま悪い時期にそういう診断が下されただけなのではないか。
 僕は普通だし、今の自分が精神病だと、とてもじゃないけど思えない。障害者枠で就職しなくても、一般人のようにバイトから正社員になれるのじゃないか。そして働きながら駒を作る。
 帰りにコンビニで求人のフリーペーパーを取って家に帰ってすぐに広げた。医者の許可は出てなかったが、そんなもの今の僕には関係なかった。まあ大丈夫なのではなかろうか。
「ここがよさげやな」
 すぐに連絡を入れたが、夜遅かったので電話がつながらなかった。
 僕の全ては良い駒を作るためにある。
 アホと呼ばれてもいい。駒作りを極めたい。
 失うものは何もない。
 もうやるっきゃないのだ。


   〜おばんざい枡屋〜

 駒作りを生業として生きることのできる人生を思い描く。
 好きな将棋駒を作って、自分の名前を駒底に彫って存在を示す。なんて素晴らしいことなのだろう。
「何ニヤニヤしてるん?」
 外園の声で急に現実に戻された。僕は退屈で仕方がないデイケアに来ていた。
「いいことあった?」
「駒作りへ向けていろいろと頑張れそう」
「外園企画第三弾も参加してくれよ」
「わかってるー」
 今日は念の為、医者の許可を取りに来たが、医者が僕の労働をよしとしないのだ。調子が悪くなったら、その時はその時だ。と割り切っている僕を受け入れてくれない。
「今の君には負担が大きいから、まずはデイケアの職業訓練を行うようにしよう」
 どうしてこんなに対応が遅くて、本人の希望を受け入れてくれないのだろうか。
「どうしたら働く許可が出ますか?」
 医者は考える素振りを見せつけて答える。
「まずはデイケアで訓練を受けてもらう。チラシを半分に折るという簡単な仕事だが、続けるのは大変だ。その大変さを受け入れられれば、次のステップに進むことができるでしょう」
 そういやデイケアでチラシ折ってる人たちがいたような。あんまりはっきり見てなかったのでよくわからないが。
 次の日「俺もチラシ折りしてる」と意外な人物から声をかけられる。
「岸くんって就労を目指してたんやね」
「うん」
 会話はあまり続かないが、チラシ折りはもう半年も続いているらしい。
 ということは、半年かそれ以上の期間チラシを折る必要性があるということだろうか。人生は長くない。こんなプログラム、僕からしたら欠陥だらけだ。
 実際にチラシ折りをやってみると、折るのが速い人、遅い人、丁寧な人、雑な人、といろんなタイプに分けられた。僕は折るのは遅いが丁寧に仕事をするタイプらしい。
 そして思ったことがひとつある。一番求められている人は折るのが速い人なのだと。デイケアのスタッフは否定するが、仕事が速い人が一番崇められ、尊敬される。今の世の中は第一にスピードなんだ。
「丁寧に仕事するのも大事やで」と岸は珍しく意見してきた。
「でもな、丁寧に三枚折る人より、同じ時間でちょっと雑でも十枚折って一枚おじゃんにする人の方が今の世の中には求められてそうやけど」
「……今は、だけど」と岸は意味深に呟く。
「岸くんは遅くても丁寧に仕事する人の方がいいと思うの?」
「うん」
「なんで?」
「水田くんの目指してる将棋の駒作りなんてそうやん。丁寧に仕事した形がずっと残る」
「うーんなるほど。ということは、僕は駒作りに向いてるのかも」
 岸のおかげで前向きな気持ちになれた。
 週二回チラシをひたすら折り続けて一ヶ月が経った。僕のチラシを折るスピードは随分と速くなり、それでいて丁寧な仕事をすることの両立ができた。
「水田くん成長早い」と岸は拗ねるように言う。
 いつの間にか岸より速く、かつ綺麗に折れるようになっていた。
「思い切って仕事探してみたら?」
 外園が横から割り込んできた。東は僕が就労の訓練をしだしてから、なぜか僕に近づかないようになっていた。応援してくれていたはずなのに、実際に僕が社会復帰に向けて動き出しているのを不快に感じたのかもしれない。東を置いてきぼりにするのは忍びないが、それでも僕は前を向いて歩いていく。でも気になることではある。
「ねえ東くん最近どうしてるの?」
 変な間があって、外園が口を開く。
「再入院したよ」
「えっ!」
「なんか状態悪くなって。今保護室にいるよ」
「お見舞い行こうよ」
「面会謝絶だってよ」
「そんな……」
 もしかして僕の就労騒ぎが東に悪影響をもたらしたのかもしれないと思うと申し訳ない気持ちになった。
「東くんの心中は複雑だったんだろうね。きっと水田くんがどこか遠くに行ってしまうような気がしたんじゃない」
 人の心の繊細さを思い知る。
「誰が悪いわけじゃない」
 静寂が僕たち三人の間を支配した。
 このよくわからない病気……どうしたら僕たちは病魔から逃れられるのだろうか。
「こんなんじゃいつまでたっても前に進まないよ」
 僕は悩んでいた。医者の許可なしで働く勇気がなかったから従っていたが、現状に不満を抱いていた。でも東のように急に調子を崩して再入院などもありえるから無理はしたくなかった。
——それでも
 僕は携帯と求人誌を手に取り、最初に目に入った求人に、ためらうことなく電話した。
「もしもし、求人誌を見て電話しました」
「ありがとうございます。『おばんざい枡屋』のホールスタッフの求人でお間違いないでしょうか?」
「はい。年齢は二十六歳です。どうしてもお金が必要なんです。働きたいんです。よろしくお願いします!」
「では面接の日時を伝えますね」
 とすんなり面接することになった。しっかりと熱意が伝わったのかもしれない。
 面接はあるかないかわからないようなものだった。挨拶をして「いつから来れます?」と質問されて「じゃあこの日からお願いします」と言われ終えた。
 面接で落とされる可能性が高いと思っていただけに運が良かったと思う気持ちと、不可解な思いが交差する。
「それって障害者求人なの?」
 外園は興味津々だった。
「違うで」
「じゃあ一般求人なん?」
 岸が横から割り込んで聞いてくる。
「そうやな。と言ってもアルバイトやで」
「自分が障害者って言ったの?」
「言ってない」
「ノーカミングアウトか」
 外園は考える人のポーズをとっている。
「すごいねすごいねすごいね!」
 岸の賞賛の連呼を浴びる。
「それは続いてから言って」
 僕は不安が大きかったが期待も少なからずあった。
「よし! 行ってこい!」
 外園が僕の背中を強く叩く。僕はゴホゴホとむせる。
「それじゃ今度皆で会うとき東くんのお見舞いに行こうか」
 それから他愛のない話をしてデイケアから皆で帰宅する、
 僕が家路に着こうとしている時にボソッと外園が言った。
「自分も頑張らなきゃな」
 それは誰にも聞こえないように発せられたものだったのかもしれない。聞こえてしまった僕は聞こえなかったふりをして、落ち葉の行方を追う。
 職業訓練を受けている間に夏が終わり、秋が深まってきている。ぼーっとしていたら僕の人生はあっという間に終わってしまうのではなかろうか。
 早く次に進まないと、バイトをして駒を作って、早く早く……。
 気だけが急かされてしまうのは良くないことなのだろうか。僕は家に着くとすぐに剣水氏の歩の駒を手に取り、じっと見つめ続けた。

 バイトの出勤初日、僕は思った以上に緊張していた。左手と左足が同時に出るくらい硬くなっていた。
「君が水田くんね。あなたの教育係の斉藤です。よろしくね」
 少し年上くらいの女性がマンツーマンで僕に付いた。お金をもらって働くことが初めてだったので、何をしていいのかが全くわからなかった。冷静にもなれないし、人前に出ることが苦痛だった。
「料理の乗ったお盆をそのままお客さんの前に出します。見ててね」
 斉藤さんは優しかった。
 料理の乗った長方形のお盆をお客さんの前に出すだけの実演を見学する。すごく普通のことだが、自分が同じようにできるのか自信がない。
「じゃあ、これ同じようにやってみて」
 お盆の上の料理が違った。それにお盆の大きさが先ほどのより少し大きかった。
「これ、大きさ違いますけど、同じで大丈夫ですか?」
「ええと、同じようにお客さんの前に出すだけだから、一緒かな」
 言われてみればそうだが、不安いっぱいで、少しでも例と違えば聞いてしまう。
「さっきお客さんの右から出してましたけど、左からでも大丈夫なんですか?」
「え、ええ、大丈夫ですよ」
 斉藤さんは戸惑っているようだった。
 自分でもわかってる。すごく基本的な質問をしなければ、漠然とした不安は払拭できなかった。
 お盆を出すとき、指先が激しく震えた。お客さんが声を殺して笑う。
「君、新入り?」
「は、はい」
「頑張りやー」
「はいっ」
 お客さんの励ましに少し驚いてしまう。
「手、震えちゃったね」
「すいません」
「緊張しとるね。ま、精一杯やればいいさ」
 僕はこの日はずっと緊張が取れなかった。奥で皿洗いをしていても、ゴミ捨てに行っても、僕の指先は震えていた。この日はずっと震えが止まらなかった。
 次の日、僕は酷く気持ちが落ち込んだ。なんとかバイトに行こうとしたが、立ち上がることすらできなかった。この気分の落ち込み方は覚えがあった。それは学校に行けなくなったときと同じ症状だった。仕方なくバイトは休んだ。
 また次の日、僕はずっと眠っていたようだ。気がついたら明後日になっていた。寝ても寝ても寝足りない。思っている以上にバイトで精神が磨耗しているのかもしれない。たった一日外で働いただけでこんなにボロボロになるなんて思わなかった。悔しい、情けない、という感情より、なぜ? という思いが強かった。
 どうしてこんなに僕は弱いのだろう。
 それからデイケアにすら行けなくなってしまった。外に出ると誰かに襲われるのではないかという恐怖が生まれていた。なぜこんな恐怖心が芽生えるのかわからない。食事をとることもできなくなってきて、バイトどころか普通の生活もできなくなっていた。
 僕は夢ばかり見ていた。夢の中で僕は自由だった。ある時はバイトを完璧にこなしていて、ある時はデイケアの四人で遊びに行っていて、またある時は空を飛んで京都の街を見下ろしていた。道が碁盤の目になっていたが、ふともう一度見渡すと全部の道が歪んでいて、それを見ていると気分が悪くなって頭がおかしくなってしまいそうで目が覚める。その時は頭は大丈夫、だと自分では思っていた。そして目が覚めてもトイレに行って帰って来たら、もう僕は寝てる。
 砂漠の真ん中で自分だけ水浴びをしている夢は、自分は特別な人間だという意識が作っているのだろうか。その夢の中で僕は延々と水浴びをしていて、もう水浴びをやめたいと思ってもやめることができなかった。苦痛だった。なんとか目が覚めてホッとした。
 起きてもすぐに寝て、またすぐ次の夢を見る。
 誰かに追いかけられている夢で体が思うように動かないのはなぜなんだろう。動きがスーパースロウの自分はそれでも逃げ切れると思っていた。しかし追っ手が迫ってきて心の底から震えて目が覚める。
 このサイクルは、訳がわからなくなるくらい続いた。それでもいつかはピリオドが打たれる。
 夢の中で僕はバスに乗っていた。そこで僕は「バスジャックが来ればいいのに」と強く願っていた。すると停留所で覆面の男が乗ってきて、そいつは刃物を振り回した。なぜか僕はワクワクしていた。夢の中だとわかっていたからだ。覆面男が運転手にどこかへ向かうように指示する。そして覆面男は一人ずつ舐め回すようにジロジロと見ていて、何かのチェックをしているようだった。僕の番になって覆面男の視線が止まった。僕は怖かったが目が覚めたら全てが終わることを知っていたので、この覆面男がどうするのかが楽しみでもあった。僕は夢の中で八つ裂きにされるのだろうか。別に殺されても、目が覚めればなんともない。
 覆面男は僕の近くまできて、囁いた。「みんなで遊びに行こうよ」と。
 何を言っているのかわからないことより先に声質に恐怖を覚える。それは外園の声だった。覆面男をよく見ると背丈も外園と同じくらいだった。なぜ外園が僕の夢の中でバスジャックをしているのだ? ふと隣の席の人を見るとそこには岸が静かに座っていた。反対側に目をやると、東がワケのワカラナイことを呟きながらうなだれている。
 覆面男が僕だけに聞こえるように囁く。「楽しいドライブだね」
 バスはどんどん加速する。ふと周りを見ると、僕たち四人しかバスに乗っていない。他の乗客はいつの間にか消えていた。バスの速度が尋常じゃなかった。僕は目が覚めるのを待った。しかしなかなか目が覚める気配がない。バスは高速で走り続ける。乗っているだけで怖いのに、覆面男の囁きにさらなる恐怖を植え付けられる。「楽しいかい?」「みんなでセックスしに行くよ」「もう俺たち双子になろうよ」
 心の底から怖かった。早く夢から逃げたかった。
 夢の中で地震が起こった。揺れがすごくて目が覚めそうだった。「おーい、おーい」と覆面男はさっきまでと違う口調で言葉を発する。「大丈夫かー。しっかりしろー」
 能天気な口調に違和感を感じる。「おーい起きろー」とでかい声が僕の頭の中に響く。揺れがますます大きくなる。でも隣にいる岸と、反対側にいる東は全く揺れていない。「起きろよー」
 白衣を着た男の人の顔が僕の視界の中央に入る。
「大丈夫かー? ここどこかわかるかー?」
 全くわからなかった。夢から覚めたことはわかった。
「ここは病院や。わしは当直のドクターや。君には休養が必要やからこのまま入院やな」
 当直医の言葉通り、そのまま精神科の急性期病棟に入院することになった。

   〜保護室〜

 狭い保護室の中で僕は自分のことを振り返る。たった一日仕事のストレスがかかっただけで精神がぶっ壊れるなんて思ってなかった。自分の心の弱さを知った。そして自分は病気だということを強く実感した。折れやすい心とどう向き合っていくかがこれからの課題だと考えていた。バイトをしながら将棋の駒を作るという、僕が思い描いていた未来は白紙になった。
 将棋の駒を作りたい。その思いは変わっていない。だから将棋の駒作りに集中したい。駒を作ってネットオークションで売りさばいて生計を立てたい。今は精神的に疲れているから、しばらく休んで回復してから、また目標に向かって歩み出せばいい。僕は心を落ち着かせることに専念した。普通に勤めることを諦めて自分の道を突き進む人生を目指そう。焦らずゆっくり良くなろう。
 暇な時間が支配する空間は、退屈に満ち溢れていた。何も起こりえない閉鎖空間の中で僕は記憶の海を泳ぐ。その時思い出したことがある。
 前回入院した時の記憶である。
 僕はその時、錯乱状態になっていた。
 家で寝ていて、起きたら宇宙空間に浮かんでいた。そこから青い星が見えていて、僕の意識は青へ吸い込まれ、急に息ができなくなった。死ぬと思い、もがき苦しんでいたら、横にチープな素材でできた将棋の駒があった。僕の家の駒に似ていた。そして将棋の駒が笑いだした。駒の笑い声は僕を不快にさせた。その時なぜ将棋の駒が笑い声をあげているのか不思議に思わなかった。笑われて当然だと思っていた。次第に笑い声が大きくなっていき、耳を押さえてもそれは聞こえてきた。気が狂いそうだった。いやすでに気が狂っていたのだろう。奇声を発して僕は床に転がった。それでも止まらない笑い声が本当に怖かった。奇声を発し続け、気がついたら病院のベッドの上にいた。
 妄想、幻聴、幻覚、それらすべてが病気のせいと片付けていいものか、僕は先生の言うことを全て信じていいのかわからずにいた。それでもそれらを病気のせいにして、自分から切り離していかないと一般社会では生きていけないのだろう。
 いろいろ思い浮かんでは消えていく記憶の海を泳いだ挙句、過去はもういいやという結論に至り、心を落ち着かせることに専念した。保護室の中で僕は僧侶のように瞑想をしていた。二週間か一ヶ月かよく分からないくらい時間が経過して僕は保護室から出ることになった。
 病室を出ると見覚えのある人影があった。ホールにひとりでいる彼は将棋の棋譜を並べているようだった。彼と将棋を指したことのない僕は彼の熱心な様子に驚いた。彼は悩んでいるようだった。僕は声をかける。
「ここは銀を引いて守った方が良さそうやで、東くん」
 東は敏感に僕の声に反応した。
「おおっ、みずっちやないか。入院してたんや」
「うん。最悪やわ。東くんもだいぶ良くなったんやね」
「うん、そやね。みずっちもゆっくりしてき」
「まあ、こうなったからにはね」
「そうやなあ」
 東は銀を手に取り、斜め右後ろへ動かした。
「守るってこういうこと?」
「えっと、こっちじゃなくて玉に近い方へ引くといいかも。この盤面で銀を引くのは勇気がいるけど、玉に近づくことで必ず終盤で役に立つから」
「ほー」
「ちなみにここで角が出る手もあるよ。攻めの手やけどね」
「こんな手、危なくない?」
 僕は盤面の駒へすっと手を伸ばす。
「ん?」
 東がわかっていないようだったので、さらに手を進める。
「んん?」
「こうなった時に角の睨みで相手の玉の動きに制限かけられるから有力だと思う」
「……そんなに読んでいるんだ」
 東は感心している、というより驚いていた。
「噂以上やね」
 東の視線はいつまでも盤面に注がれていた。
 それから僕の日課は東の駒並べを遠くから見て、東の視線を感じたらアドバイスをするということに終始していた。
 食事が運ばれてくると僕と東は将棋盤を片付けていの一番に列に並んだ。こんなところだから皆食事くらいしか楽しみがないようで、早くから列ができていた。味は病院食のイメージとは違って美味しかった。評判も良かった。食事を終えると東はまた将棋盤を取り出し駒を手に取り、プロの棋譜を並べる。
 東は将棋のことについて聞いてくるけど勝負しようとは決して言ってこなかった。僕はぼーっとすることが多くなっていた。
 時間は全く進まない。退屈な空間は心の修復に大切なものだけど、何もしない、何もできないのは案外苦痛だった。
 退院は、いつできるのだろう。
 そして、いつから駒作りができるのだろう。
 次の日、僕は診察を受けた。
「次はちゃんと許可とってから働きなさい。もうこれ以上再発したら症状が酷くなっていくから社会復帰も難しくなってくるよ」
「はい、すみません」
「じゃあ退院の日取り決めようか」
「え、まだそんなに日が経ってないのに大丈夫なんですか?」
「君が再入院してもう三ヶ月経つよ。もう」
「えっ、そうなんですか」
 意識がしっかりしてなかったから時の流れが把握できていなかった。
 やった! 退院できる!
 こうして、ひとつの心配事は杞憂に終わった。
 ふと、窓へ目をやると、景色が白かった。ここは山の麓だから京都でも雪が積もるのだろうか。
 知らない間に新年が明けていたようで、もう一月も終わろうとしていた。

 退院日は奇しくも東と同じ日だった。
「やっとシャバに出れるやん」
 東は心底嬉しそうだった。どうして再入院になったのかは結局本人には聞かなかった。聞かない方がいいような気がしたから、そっとしておいた。
 二月の初旬、ほんの少しだけだが雪が積もっていた。白い地面に触れるとすぐに土が顔をのぞかせた。
「ふたりともお帰り〜」
 外園が両手を振っている姿が目に入った。
「迎えに来てくれたん? サンキュー」
 東と外園はハイタッチで喜びを分かち合う。そのあと僕も外園とハイタッチをして、なぜか僕と東もハイタッチをする。よーく見ると外園の後ろに岸が隠れていた。
「岸くんも、ありがとね」
「う、うん」
「さあ、みんな揃ったから、遊びに行くか!」
「金ねーよ」
「お金のかかる遊びなんてしないよ」
「ならオッケー」
 太陽の反射で白く輝く僕たち四人は、前途洋々な気分だった。
 そんなような気が、本当にしていたんだ。

   〜地方裁判所〜

 将棋駒作りの資金の目処が立たないから、少しでも腕が上がるように小学生の頃に使っていた彫刻刀をタンスの奥深くから見つけて、彫る練習をすることにした。
 家にあった割り箸や、外から拾ってきた木屑に、マジックで金と書いて、彫った。彫ったけど形にならない。僕が下手なだけなのか、やり方がまずいのかは分からない。やっぱりちゃんとしたやり方で駒に使う素材を使わないとダメだ。
 そんな時、剣水氏から将棋駒のコンテストに出ないか、と声をかけてもらった。
 僕は、バイトをして調子を崩して入院していたこと、そのため駒作りはできていないことを正直に話した。
 そこで剣水氏が駒材と道具を貸してくれるという話が出た。だけど僕はその話を断った。申し訳ないと思った。
 しかし剣水氏は出世払いでいいと、駒材と道具を提供してくれた。
 感謝しかなかった。
 宅急便で届いた駒材と道具はどれも立派なものばかりだった。中にはメッセージカードが入っていて「わからないことがあったらいつでも聞いてこい!」と書かれていた。感謝の気持ちで心が震えた。
 やってやる。
 最初にしたことは字母紙を選ぶことだった。コンテストに出るには三作品必要なので、デイケアに字母紙を持って行って皆に選んでもらうことにした。
 まずは四大書体というのがあって、錦旗、水無瀬、菱湖、源兵衛清安がそれに当たる。その中から三つ選ぼうと思い、字母紙を見てもらった。
「へー、いろいろ種類があるんだね」
 と外園は字母紙を真剣に見比べている。錦旗を見て水無瀬を見て、菱湖で手が止まる。それからずっと菱湖を眺めているようだった。
「もっと種類ないの?」
 と東が僕の手元のファイルを見て聞いてくる。
「あるんやけど、この四つの中から三つに決めたいと思ってる」
「あかんで。こんなん普通っぽいのばっかりや。三つ作るんやったら一つぐらい変わったのが必要やで」
 そう言われればそんな気がしてきた。僕は手にしている字母紙全てを東に見せた。
「変なのもあるやん。見たことない駒ばっかりや」
 東は変わった形をした字母紙に夢中になった。
 もちろん岸くんも字母紙を見てくれている。岸くんは一番基本形とされている錦旗をじっと見ている。それから東の見ている様々なマイナーな字母紙も見たそうにしていた。
「東くん、岸くんにも見せてあげて」
「ああ、もちろん!」
 岸も珍しいものが好きなのだろうか。いろいろ見てくれて選んでくれている。岸が見ているものは東とは違って、マイナーな普通っぽい書体を見ていた。
 皆、思った以上に興味を持ってくれている。ありがたい話だ。
「これええやん!」
 東の大きな声に僕は振り返る。
「長録ってやつよ。すっげえええよ」
 その長録という駒は確かに変わった感じの駒だった。しかし駒としてのまとまりはあった。また不思議な魅力も感じられ、作ってみたいという思いを持てた。そしてこの駒は自分では選ぶことができなかっただろう。よしこれを作ってみよう。
「あの、これはどう?」
 岸の小さな声に耳を傾ける。岸の手には宗歩好という書体があった。
「宗歩好はとてもいいと思う」
 岸おすすめの宗歩好は勇壮な太字の書体であった。瞬間で僕の頭に天野宗歩が思い浮かぶ。幕末の伝説の棋士の名を博した素晴らしい書体だった。
「かっこええね」
 僕は宗歩好を作ることを即決した。
 あとひとつはあれになりそうだな。僕は外園に視線を移す。外園はずっと菱湖に見入っている。ただただ眺めている。
「菱湖も作ってみるよ」
 うんともすんとも言わない外園はとても珍しかった。

 次の日、デイケアに行く前に僕の携帯が鳴った。東からだった。
「デイケアサボってサシで遊ばへん?」
「いいよ。どこ行く?」
「えっとね、裁判所行こ」
「ん?」
「傍聴するの」
「膨張?」
「だから、裁判を見に行くの」
 裁判って一般人が見れるのだろうか?
「そんなん見て大丈夫なん?」
「うん。入院中に一緒になったおじいちゃんが裁判見に行った話してて俺も行きたくなってん」
 いい経験にはなりそうだった。
「いいよ。行こう」
「そうこなくっちゃ!」
 こうして僕たちは裁判所へ向かった。

「証人前へ! 裁判長! 証拠を示してください」
 駅の改札口前の待ち合わせで見つけた東は、ひとりで裁判をすべて再現しているようだった。
「そんな、どはまりなん?」
「その発言、異議あり!」
 毒されやすそうだから仕方がない。僕は苦笑いを殺して付き合うことにした。
「本当に入って大丈夫なの?」
「大丈夫らしいよ」
 僕たちは恐る恐る地京都方裁判所の建物に入った。
「今日の裁判の予定表です」
 警備員の方が親切に教えてくれた。
 裁判の予定表をペラペラめくっていると、道路交通法違反、覚せい剤不法所持、窃盗、詐欺、殺人などいろんな容疑者が並んでいた。
「順番に見ていこう」
 東と僕は傍聴席の一番前で裁判が始まるのを待った。少し待っていたら裁判は始まった。
「被告には長年にわたる無免許運転の疑いがかけられている。被告は前へ」
「はい」
「被告は自動車運転免許を持たず、十八歳の頃から自動車を運転し、無免許運転を繰り返していた。認めますか?」
「は、はい。認めます」
「罪の意識はありましたか」
「あまりありませんでした」
「悪いことだと思いますか?」
「はい、今は思います」
「当時は思っていなかったのですか?」
「少しは思っていました」
「自分で反省できていると思いますか?」
「反省はしています」
「私にはそうは見えませんが」
「反省しています」
「以上で質問は終わります」
 ここで検事は持っていた資料の束をテーブルの上にドンと音を立てて置いた。
「おおこわっ」
「こんなに責められるんや」
 僕は怖いもの見たさで最後まで無免許運転の裁判を見たが、被告が悪という予定調和で、趣味の悪い演劇を見ているようでならなかった。
「なんかいじめみたい」
「わかる。ある意味弱い者いじめ」
「でも悪いのはいじめられている方やもんね」
「社会の中にある、正しいいじめ」
 東の「正しいいじめ」というフレーズにゾッとする。
「僕たちも『正しいいじめ』をされる対象なんやろうね」
「俺たちは社会に参加さえさせてもらえない。いじめと言うより無視されてる感じやな」
 確かに働く場もないし、あったとしても作業所などで雀の涙ほどしかお金はもらえない。「正しいいじめ」なら国家機関でも正々堂々としていられるんだな。またひとつ勉強になったよ、と皮肉を込めて心の中で呟いた。
「ねえ、次の裁判見ようよ」
 次の裁判は殺人事件の裁判だった。そのせいか、かなりの人が集まってきて、僕たちは人混みをかき分けて、なんとか一番後ろの傍聴席に座ることができた。
 現れた被告は穏やかな雰囲気を醸し出していた。丸刈りに微かな笑み、無抵抗な歩き方と、悪いことをしたという自覚がなさげな表情、そして何よりキラキラした瞳が印象的だった。
「この人、殺人犯っぽくないよな」
 東はそっと僕に向かって呟く。
「なんか雰囲気が僕たちに似てるね」
 僕はなぜかそう思った。
「被告は路上で携帯画面を見ながらふらふらと歩いているところを被害者に注意され、逆上し、近くにあった石で何度も頭を殴打し、死に至らしめた。異議はありますか?」
 被告人席に座っている彼は両手を広げ天井を見上げている。キラキラした瞳からは涙が流れているように見えた。
「裁判長、被告は精神疾患を患っており、責任能力はないものと思われます。犯行当時も相手の威圧的な態度に恐怖を感じ、慌てて近くにあった石で反撃したのです。被告は幻覚と幻聴を見ることが多々あり、攻撃してきた人も幻だと思っていて、早く消えてほしい一心で近くに転がっている石で反撃したのです。よって無罪を主張します」
 僕と東は顔を見合わせ、目をパチクリさせた。
「多分だけど、僕たちの病気と同じだよ」
「俺もそう感じた」
 そこへ検事の発言が始まる。
「被告は石で殴ると人が死ぬという認知はあったと考えられます。それに被告は幻覚に対して石を使って攻撃することなど今まで一度もないと、被告人の施設の方々も言っておられます。そもそも人の邪魔をする様な歩き方をしている被告に落ち度があるのに、注意されただけで逆上するのは被告の性格に問題があると言えます。したがって精神疾患は関係なく、被告の素質と性格に問題があったと思われます」
 気持ちが高ぶってくるのを抑えられない自分がそこにいた。そして隣にも。
「ふらついて歩いてるのも、幻覚を見すぎて疲れてそうなってるんだよ。被害者にも落ち度はあるよ」
 東はいつもにも増して熱くなっていた。そしてまた弁護士側の主張が始まった。
「被告は肉親にも見放され、施設で育ち、施設内でもイジメに遭い、人よりも愛情を受ける機会が少なかったため、自らの感情をコントロールする能力が一般の人より弱く、強い刺激に対して攻撃性を抑えられなかったと考えられる。被害者の注意の仕方にも問題があると考えられます」
 僕と東は「そうだ、そうだ」と口を揃えて頷く。
 検事は声を張って弁護士に反論する。
「被告が凶器を振りかざして被害者を殺害した事実は変わりません。責任能力の有無は争点にならないと我々は確信しております。たとえ幻覚を見ていても、人の命を奪った罪をなくすことまでできるでしょうか。もしあなたの娘さんが精神障害者に殺されて、それが無罪放免となったらあなたはどう思いますか?」
 僕はその精神障害者に対する差別的発言に腹が立ったが、隣から感じる殺気のあまりの強さに辟易していた。
「あいつ、殺す。あいつ、殺す。アイツヲコロス!」
 東は猪のように法廷内の柵をぶち破って、検事の胸ぐらをつかむ勢いで突進していった。警備員が慌てて東を取り押さえる。
「離せ! あんな発言許せねえ。障害者がみんな犯罪者みたいに言いやがって。あのな、ほとんどの障害者はおとなしく社会の隅っこで肩身狭く慎ましく生きているんやぞ。どうして法廷で弱いものをより追い詰める発言をするんや。テレビとかネットもそうや。あのな、みんな仕事もなければ信用もない、お金もなければ生きる意味も持てない。それでそんな差別までされたら、もう俺たちこの世では生きていけへんわ! ふざけんな!」
 東は法廷の外へ連れて行かれた。僕はその場に立ちすくむことしかできなかった。


     〜届かぬ思いを長録に〜

 東はどこかの精神病院に強制入院させられたと噂で聞いた。外園も岸も、東がどこにいるのか知らないでいた。僕たちは突然に東を失ってしまった。
 僕はどうしていいのかわからなかった。家にいるときに部屋の窓から吹く風に揺られて字母紙のファイルがテーブルの下に落ちた。開いたページには見覚えのある個性的な駒文字があった。
「東くんは長録が好きって言ってたよな」
 長録の字母紙をじっと見つめると、東の面影があるように思えた。
 東のために自分の全てを、長録を作ることに捧げよう。そして東に見せつけてやるんだ。あいつを心底驚かせてやるんだ。
 そうと決めたら体が素早く動く。まず字母紙を駒に貼るところからだが……。確か表面を磨くんだっけな、といきなり躓く。
 よし、剣水氏へ電話だ。いつでも聞いてこいとお墨付きを得ているから大丈夫だ。
「おーどうした?」
「すすす、すいません、今から駒を作ろうとしてるんですけど、どこからどうしていいのかわからなくて」
「おお、ついに始まるんやな。まずはな落ち着こうや。目を瞑って深呼吸してみよか」
 デイケアの友達以外に電話することがあまりないので緊張してしまったようだ。僕は言われた通り目を瞑り、肺を大きく膨らませた。
「少し落ち着きました」
「よっしゃ! まずはサンドペーパーの四百番を用意しよか」
「わかりました!」
 こうして僕の駒作りが本格的に始まった。
 駒作りをしているとすぐに壁にぶつかる。わからないことだらけだ。
「剣水さん! どうやって彫るんですか?」
「剣水さん、彫り終えたらどうするんですか?」
「剣水さん! 剣水さん! 漆を入れたいんですが目止めは薄くした方がいいんですか?」
「剣水さん! 電話出てください!」と剣水氏がでない時でも、すぐに電話をかけ直した。
 少し間があって剣水氏の声が聞こえる。
「兄ちゃんちょい待ってえな。今うんこしとるねん」
 悪いことをしたな、と思いつつも絶対いい駒を作りたいので、わからないことがあればまたすぐに電話をかけた。
「えらい熱心やな」
「はい!」
「一作目から長録チョイスはどうかなと思ったけどな」
「絶対長録がいいんです!」
「あれは普通の駒を作り飽きた頃に作るもんやけどな」
「あの、二度目の目止めのことなんですが……」
「ほんま熱心や。感心するわ」
 剣水氏は嫌そうな言い草をしながらも、とても丁寧に駒作りの基本を教えてくれた。
 さすがの僕も夜中の二時にわからないことが出てきても電話はできなかった。漆の入れ方がどうもよくわからないのだ。こういう時にどうしたらいいのか、自分が試される時だ。もしかしてこういう時にインターネットで検索したらいいのかもしれない。僕は「将棋」「駒作り」「漆」のワードで検索した。
 検索したら意外に将棋の駒を作っている人が多くいてびっくりした。駒作りの工程を細かく写真入りで書いている人もいて二度びっくりした。さらに参考になりそうなページを作っている人が剣水氏だったことに三度びっくりした。
「結局、剣水さんに教えてもらってるんやなあ」
 剣水氏は僕の偉大なる、駒作りの師匠である。
 駒は一週間ほどで完成した。その半分は漆が乾くのを待つ時間だったから三、四日あれば駒を一組完成させることができることがわかった。完成した長録はなかなかいい出来栄えに思えた。変な感じの文字が不思議な魅力を放っている。そこには見る者を愉快な気持ちにさせる何かがあった。
 仕上がった長録の写真を剣水氏へ送る。するとすぐに返事が返ってきた。
「最初やから仕方ないけど彫りがしっかりしてないな。あとは目止めが残ってしまっとる。漆も入りすぎやな」
 そんなに一度にダメ出しされても困る。
「ひとつずつ順番に言ってくれないとわかりません!」
 謎に強気に言ってみる。
「わかった、わかった。まずは一番大事な彫りから言うよ」
 こうして僕はますます駒作りに没頭することになる。駒を作ることは思ったほど難しくはなかった。ただ極めようとしたらきりがないとも思う。
 長録を作り終えて僕はひとつ成長したと感じた。もちろん駒作りもだが、東のため、東を思って作品を仕上げられたのは自信になった。僕の作った長録は東のように場を和ますような駒だった。これを東に見せられる日が早く来るように願っていた。

 駒が仕上がってデイケアに持っていくと外園が思いの外、喜んでくれた。
「いい物見せてもらったよ。ありがとね」
 外園は駒の表裏を舐め回すように一枚ずつ見ていった。
「へえ、こんなにも文字が揃っているんだね。さすが。ねえ駒の裏って赤色じゃないの?」
 外園は質問までしてくる。
「あれは玩具の駒だけの話みたい」
 ネットで調べた時に、ついでに見た情報がこんなところで役に立った。
「へえ」
「次は外園くんがずっと眺めていた菱湖を作ろうかな」
「お、頑張って。外園企画もまたよろしくね」
「もちろん」
 ふと気がついた。岸の姿が見当たらない。僕の頭の中を見透かしたかのように外園は察する。
「ああ、岸くんね。最近デイケアにも来ないんだ。なんか東くんがああなったことにショックを受けたって聞いた」
「そうなんだ」
 目の前で見てしまった僕の方が何倍もショックを受けているはずなのに。だからこそ岸の弱さ、脆さが浮かび上がっている。
「今日デイケア終わってから、岸くんを誘って遊びに行かない?」
 外園らしい友達思いの発言だった。
「もちろん」
 デイケアは昼の三時まであって、今はまだ朝の十時半だった。暇だったのか外園が僕に将棋を教わりたいと言ってきた。
「レッスン代いくらくらい?」
 と戯けてくるから
「初回無料。次回から有料」
 と、戯け返した。
「やるな」
「将棋の方はもっとやるよ」
「お手柔らかに」
「よし! 長録を使おう!」
「え、いいの?」
「使い終わったら磨くの手伝ってね」
「いい仕事、しますよ」
「別にそんなに汚れないけどね」
 こうして僕は外園と盤面で向かい合った。
 駒の動かし方やルールは知っているみたいでとりあえず平手で一局することになった。一手目から長考する外園はさまになっていた。名人さながら、外園は角道を開けた。
 もしかして外園は強いのか。
 僕は慎重になった。角道を開けずに飛車先を伸ばした。外園には雰囲気がある。将棋がどうこういうわけでなく敵わない感じがする。外園は次の手で角道を止めた。そのあとはスラスラと手が進んだ。アマチュアではよくある居飛車対振り飛車の構図になる。ここまで組めるほど詳しかったんだ。
 外園の方から歩をぶつけてきて戦いが始まった。
 戦いが始まって、力の差がはっきりしてきた。外園がどんどん損をして、僕の優位が確立する。ここからは僕のワンサイドゲームで外園は玉が詰まされるギリギリまで粘っていた。
「強いねえ」
 僕は外園の雰囲気には完全に負けていた。きっとそこは一生勝てない。
「さて、東くんの好きな長録を磨かないとね」
「ありがとさん。東くん元気なんかなあ?」
 外園は黙りこんでしまった。
 あれだけ喋る外園が黙るなんて珍しい。けれどそれだけ東の事態は深刻なのだ。僕も現場にいながら東を助けられなかった自分を責める時がある。どうしようもなかったのだ。
 気がついたらデイケアも終わりの時間で、僕たちは岸の家に向かった。道中、外園の口数はいつもより随分と少なかった。将棋で負けたことがそんなにも悔しかったのだろうか。
 岸の家に着いてインターホンを鳴らす。意外にもドアはすぐに開いた。
「岸くん大丈夫?」外園が優しく語りかける。
「う、うん」
 岸の表情は暗かった。頬が欠け、やつれている。尋常な暗さではないように思える。
「ちゃんとご飯食べてる?」外園は言葉を続ける。ここは外園に任せておこう。
「昨日、ゆで卵食べ……た」
 岸は話すことすら辛そうだった。
「もしかして鬱が酷くなった?」外園は鋭く切り込む。
 岸はうなだれるように下を向く。
「診察行ってる?」
「……うん」聞き取れるかどうかギリギリの大きさの声がした。
 もう今にも死んでしまいそうなくらい、岸から生命力を感じなかった。外園が「今からご飯でも行かない?」と誘っても「うん」と言ったきり動く気配がなかった。あまりにも動かないから、立ちながら寝ているのかと思ったほどだ。僕たちは岸を外に連れ出すことはできなかった。とてもじゃないがそんな状態ではなかった。
「元気がない、というより完全に鬱だったよね」
「そうやね。お薬効かないんやろか?」
「状態最悪って感じだもんね」
「ほんま心配やね」
「東くんはどこかの病院に閉じ込められてしまうし、岸くんは部屋に閉じこもってしまうし、辛いね」
 東は閉鎖病棟から出られたらそれで大丈夫だけど、岸の場合は自ら引きこもってしまっているので長引くかもしれない。家に着いて鞄を置くと駒がぶつかる音がした。長録は強制入院させられてしまった東のために作った。次は岸を励ますために宗歩好を作ろう。岸は家にいるのでいつでも見てもらうことができる。それで岸を励ますのだ。
 よし! そうと決まったら気合を入れてやるぞ。僕はまた本気モードに入った。


   〜励ましの宗歩好〜

 岸は最初、ごく一般的な錦旗に興味を持っているようだった。そこから宗歩好に興味を移したのはやはりこの太字に魅力を感じてのことだろう。宗歩好の太文字は力強さを感じさせる。岸はきっと宗歩好の力強さに魅せられたのだろう。
 太字の宗歩好はなんとなく剣水氏の蜀江を思わせた。そういえば字母紙に蜀江がなかったことに今気づいた。やはりあれは剣水氏の専売特許なのだろう。いつかは僕も蜀江を彫ってみたい、なんて考えていたら大きなあくびが出た。
 宗歩好の字母紙を駒に貼り付けて今日はもう眠ろう。
 眠りにつくと、夢の中で僕は「助けて」という声を聞いた。東なのか、岸なのか、わからないまま「助けて」の声は歪んで消えていった。あれは一体何だったのだろう。
 次の日、僕は字母紙の上から印刀を入れる。太文字のせいか前作より彫りやすい。グイグイ彫り進める。僕の駒を彫るペースが上がっていき、トップスピードに入った時、僕は駒と一体になれた気がした。駒が体の一部のような感覚に襲われた。それは脳内がふわっとする感じで心地よかった。僕の魂が駒に乗り移る。魂を込められた駒はよりいっそう輝きを増す。
 ハイペースで駒作りは進んでいく。
 前作と違って作り方は一通りわかっているのでスイスイと進む。太字なのでかなり深く彫ってしまったのが気がかりで剣水氏に連絡したら「深く彫る、浅く彫るは好みだから自分がいいと思うならそれでいい」という答えをいただいた。蜀江ほど深さはないが、それに通じるものがある。最終的に目指すものは大阪駒の蜀江なので、深彫りは歓迎だ。彫っていて、彫りが深い方が自分の好みだということがわかった。
 彫りが終わり、目止めをし、漆を入れて乾くまで二、三日作業が止まる。その間僕はデイケアにも行かず、家でじっとしていた。そして昔ひきこもっていた頃を思い出そうとする。あの時何を考えていたのか、何を思っていたのか。思い出そうとしてもうまく思い出せないでいた。自問自答してあの日々を無理やり思い出す。
 好きでひきこもっていた? ――そんなわけがない。
 恥ずかしくなかったのか? ――死ぬほど恥ずかしかった。
 何がしたかった? ――この世から消えたかった。
 死にたかった? ――すでに心は死んでいた。
 なぜ死ななかった? ――死ぬ準備をするエネルギーがなかった。
 生きててよかったか? ――。
 ――。
 ……。
 …………生きていて、本当によかった。
 外園、東、岸たち友人と出会えたこと、そして何より将棋の駒作りと出会えたこと。たとえ今が絶望の海に沈んでいても、どこかで希望の青空に浮かぶ時が来るのが人生だ。僕なりの答えだった。
 岸はどんな気持ちで引きこもっているのだろう。
 僕とは違う見解かもしれない。それでも僕は岸の気持ちを汲み取りたい。本当に東のことだけがひきこもる原因なのか。僕にはそうは思えない。岸には岸の戦いがある。
 漆が乾くまでそんなことを考えていた。
 二度目の漆も乾いて、研ぎ出しをしていると電話が鳴った。
「もしもし、一緒にどこか遠くに行かない?」
 外園の声がした。
「遠くってどこよ?」
「誰も知っている人がいないところかな」
 急によくわからないことを言ってくる。
「急にどうしたの?」
「考えることが多くて」
「あんまり無理しちゃダメやで」
 そこで外園はしばらく間を空けた。
「そうだね」
 東と岸のことで参ってしまっているのだろうか。
「あのね、駒がそろそろ出来上がるんよ。岸くんを励ますためによかったら一緒に岸くんのところに行かない?」
「……行かない」
 初めに耳を疑った。次に外園の体調が悪いのかと思った。
「体調悪いの?」
「ちょっと、メンタルの方がね」
 岸に続いて外園まで調子を崩すとは。僕はなぜか、すごくびっくりしてしまい返す言葉すら見失ってしまっていた。
「最近不安定なんだ」
 それからうまく会話が繋がらなくなって外園は「じゃあ」とだけ言い残し電話は切れた。
 そのあと研ぎ出しの続きをして、時間をかけて丁寧に仕上げた。
 宗歩好の仕上がりは上々だった。
 漆の入った黒い太字は妖艶な美しさを醸し出していて、研ぎ澄まされた駒木地と共に輝いている。その駒を持って岸の家へ向かった。
 岸の家のインターホンを押しても誰も出ない。居留守を使っているのか、それともコンビニに買い物でも行っているのかわからない。僕は宗歩好を駒袋ごと郵便受けに入れて帰ることにした。一度その場を離れてから、慌てて僕は岸の玄関口まで戻った。紙に「岸くん一緒に頑張っていこう」と書き、うつ病の人に頑張れが禁句なのを思い出し、紙を破り捨てた。頭を掻き毟って悩んでいると、コンビニの袋を下げた岸が立ちすくんでいた。
「どうしたの?」
 岸は下を向いたまま低い声で話しかけてきた。
「岸くん、これ作ったんや。よかったら見てみてや」と郵便受けから駒を取り出そうとする。
「中からしか取れないよ」と岸は笑う。
 僕は岸の笑顔を見てほっとする。
 岸は玄関の鍵を開けると郵便受けの取り出し口から駒をそっと取り出した。中身を開けていいか、目で合図を送ってくる。僕も目でいいよと合図をし、岸は駒袋を開け中の駒を取り出す。
 駒を手に取り、岸の目は輝き出す。宗歩好の太字の良さが伝わっているのだろうか、岸は夢中で駒を見つめる。一通り見て岸は口を開いた。
「これ、本当に水田くんが作ったの? 凄すぎない?」
「岸くんにそう言ってもらえて嬉しい。この駒は岸くんのために作ったんだから、コンテストが終わったら貰ってくれる?」
「えっ、いいの?」
 僕は声高らかに「もちろん!」と。
 岸は「こんなおいらなんかのために……ありがとう」と涙ぐんでいた。

 それから岸はデイケアに出てくるようになった。完全に元気になったとは言えないが、岸はまたチラシ折りを始め、仕事に対する意欲を見せている。働けるか働けないかは別にして、岸は前を向いて歩き出している。
 一安心、と思いきや、今度は外園がデイケアに顔を出さなくなってしまった。外園がおかしいと気づいていたが、こうなるまでどうすることもできなかった。しかし外園の思いが全くわからない。こういうところに居る訳だから、心は病んでいる。それでも外園は他の誰よりも状態は良かった。僕はどうしたらいいのか、誰も答えを与えてくれなかった。
 外園の携帯に連絡を入れても繋がることはなかった。そしてある噂がまことしやかに囁かれた。
 外園は死んだ、と。

   〜菱湖〜

 気がついたら僕は駒木地を磨いていた。そして磨き終えた駒木地に、外園が無言で見つめていた菱湖の字母紙を貼り付けていく。
 菱湖は他のどの駒とも違っていた。書体のバランスの良さが桁違いだった。まるで外園のようだ。字母紙を貼り終えて、少し休憩する。気合いが空回りしないよう、深呼吸して落ち着きを取り戻す。
 彫り始める前に昨日の出来事を確認する。外園の死の噂を決定付けることがあった。それは外園の父親が黒づくめの服装で病院に来ていることだった。国会議員の外園の父親を見かけたのは初めてだった。新聞記事の写真でしか見たことのない外園の父親は、政治の場以上に厳しい表情で、外園の担当医に深々と頭を下げていた。
 僕は何があったのかを聞きたかったが、怖くて聞けなかった。外園の死が本当だとわかってしまうのが怖かった。
 外園ともう会えないのだろうか。
 僕はまた再会できる時を万全の準備で迎えたかった。
 とにかく今は菱湖を彫ることだけに集中する。
 スタイリッシュな菱湖はやはり外園そのものだった。彫れば彫るほどその思いは高まっていく。ひとつ歩を彫るごとに僕は外園に近づいていくような気がした。二枚の余りの歩も合わせて二十枚の歩を彫り終えた時、外園のおかけでここまで来られたと実感する。外園がいなければ、僕は今もただのひきこもりだった。香車、桂馬、銀将、金将と彫り進めて外園は将棋の駒に例えるとどれだろうと考えるようになった。角行、飛車、そして王将を彫って、やっぱり外園は王将だと自然と思えた。岸は歩兵、東は桂馬かな。そして僕はなんだろう?
 やりたいことに一途な香車かな、と自負する。      
 今こうして頑張って、僕は成香になろうとしている。成香になれば外園に近づけるだろうか。
 彫り終えて時間を置かず目止めを塗る。乾いてからもう一度目止めを塗り、また乾いてから漆を入れる。
 今回は一日だけ乾かしてすぐに二度目の漆を入れる。あとは漆が乾くのを待って研ぎ出しをして完成だ。二度目の漆は完全に乾かさないといけないのでここで必ず暇な時間ができる。
 僕は考える、外園が死んだとしたらなぜなのか。
 自殺なのだろうか。あの父親の様子からしてそう考えるのが自然だった。死の噂が出てから外園の姿を見たものはいないし、気配もない。
 ――どうして僕を置いて、いなくなってしまったの?
 僕の張り詰めた心にヒビが入る。膨らみすぎた風船が割れるように、僕は突然泣き崩れる。将棋の駒なんか作って外園が帰ってくるとでも? そんなわけがあるはずない。様子がおかしいのはわかっていたのに、僕は何もできなかった。あれだけお世話になったのに、恩返しすることが全くできなかった。
 後悔の波はとめどなく押し寄せる。
 何のための将棋の駒作りだ。何のために生きてる? 仲間って何だ? 死ななくていい人が死ぬのは勘弁だ。心の病を背負った人間の命が綿あめのように軽いなんて思っていた自分が恥ずかしい。自分も含めて心が病んでいたとしても、命は重いよ。とっても重いよ。外園の死をもって、やっとわかったよ。きっと自殺だ。いや、絶対に自殺だ。どうして相談してくれなかったんだ! どうして黙って僕の前から消えてしまったんだ。リーダーだろう? 外園企画はどうした? もっともっと企画してくれよ。もっといろんな経験をさせてよ。僕の知らないことをたくさん教えてよ。
 目を閉じれば、そこに四人がいる。
 外園と東、岸と僕。
「はーい、外園企画番外編始まるよー」
「もう変な店行かへんでー。ほんま自分勝手なんやから」
「……」
「じゃあ岸くんのご要望で夜の街に潜入するよー」
「……」
「岸くん何にも言ってないやん!」
「水田くんも行きたいんでしょ。顔に書いてるよ」
「ほんまや、顔に書いたるわ」
「じゃあなんて書いてあるん?」
「夜の街に行くと知ってて来ましたーって」
「……ほんまや」
「はい、岸くんの第一声いただきました!」
「……でどんなジャンルの店に潜入するん?」
「グイグイくるね、岸くん素敵! さてそろそろ発表するよー」
「どーせエロい店用意してるやろ?」
「ここまできてエロくない店やったらちょっと怒る」
「今回はなんと! ――――――――」

 夢から覚めた僕の手のひらの中には、作りかけの菱湖の王将と、宗歩好の歩兵、長録の桂馬が握られていた。

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静寂といいます。メンヘラ小説書いています。 ただいま無料で読めますのでよかったらどうぞ。