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「原爆の父」とよばれた男の栄光と悲劇が問いかけること

  この世に核兵器が無かったら、さぞかし今よりは心安らかだろうと思う。広島や長崎への原爆投下もなかったし、今世界が頭を痛めている北朝鮮やイランの核問題も当然起きてはいない。

 それとも、核抑止力不在の中で人類は通常兵器を使った血まみれの戦争に明け暮れていたのだろうか。こればかりは誰にも分からない。現実に核兵器が開発されてしまったからだ。

 その生みの親は、「原爆の父」として知られる物理学者のロバート・オッペンハイマー。みなさんもよくご存じだろう。ロスアラモス国立研究所の初代所長として原子爆弾開発プロジェクトであったマンハッタン計画を主導した人物だ。

 以前から私も彼には興味があったが、目前の仕事に追われているうちにじっくりと調べてみる機会を逃していた。不幸中の幸いとでもいうのだろうかコロナ禍で自宅に居ることが多くなったので、書架で長く埃を被っていた一冊の本を引っ張り出してみた。

 その本とは、”AMERICAN PROMETHEUS The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer” (邦題は『オッペンハイマー』)である。歴史研究家であるカイ・バードと歴史学者のマーティン・シャーウィンの2005年の共著で、膨大な調査トメイか異な分析からオッペンハイマーの人物像を多面的な視点から描きだしている。人類にとって国家とは何か、平和とは何かを問いかける良書だ。2006年のピュリツァー賞を受賞していることからも評価の高さが分かる。

 英語のタイトルが示すように、オッペンハイマーは栄光と悲劇が交錯する人生を送った男である。少年の頃から天才肌だった彼は、ハーバード大学を3年で卒業し、英国のケンブリッジ大学の研究所で物理学や科学を学んでいる。教授になった後も、学生たちや同僚からの人気は絶大だったという。羨ましいことに女性にもずいぶんもてたようだ。

 そして第2次世界大戦の最中、ついに世界初の原爆開発に成功した。しかし原爆投下の現実とヒロシマ、ナガサキの惨状を知ったとき、オッペンハイマーは悔恨の情に苛まれた。

 「手が血で汚れているように感じます」

 彼は時の大統領ハリー・トルーマンにそう心情を訴えたそうだ。それに対してトルーマンは「これで拭きたまえ」とハンカチを投げつけたという。ひたすら研究に没頭した科学者と現実主義の政治家の違いなのだろう。オッペンハイマーは自分が世界の破壊者となったことを悔いたが、トルーマンは核兵器が対ソ連戦略のカードになることを直感していたのである。

 その後、核兵器に反対し共産党系集会などに参加したオッペンハイマーは、1954年に機密漏洩疑惑で公職から追放されただけでなく、私生活までもFBI(連邦捜査局)の監視下におかれるという悲劇のなか人生の幕を閉じている。ひとりの天才物理学者の生涯から見えてくるのは米国という国家の光と影だった。

 さすが25年にも及んだ調査の集大成である。取材・執筆に時間をかけず、聞き書きでちょちょいと仕上げてしまう日本の昨今の”ベストセラー”本とはまさに月とすっぽんだ。読み終わったあとその表紙を見ながらしばらく物思いに耽った。



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