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植民地婚活狂騒曲 -女たちよ!

18・19世紀のフランスの植民地主義者にとって、大問題は女性であった。

男性は、様々な理由で植民地に行く。
しかし植民地で、男性が根付くためには、妻子を持つ必要があった。
根付かない植民者は、ただの出稼ぎ、投機師、搾取者であった。
根付いてこそ、長期的タイムスパンでの思考が生まれ、責任感が生まれ、それが将来の植民地の繁栄につながると思われた。
それゆえ植民地主義者には、女性が必要だった。女性は未来だった。希望だった。
(注:西願個人の意見とは関係がありません。)


しかし植民地は慢性的女性不足に悩まされていた。


・ケース1 異民族間結婚

フランス革命期、神父モンリノは、南米ギアナに、フランスの受刑者や貧民を植民させる計画を出版した。
モンリノは博愛主義者であった。
彼は、受刑者は不衛生な牢屋に監禁されるよりは、屋外で働いて暮らした方が健康に良かろうと思った。それに受刑者は刑期を終えた後も、故郷では前科者だと後ろ指をさされ、生きにくいだろうから、新天地を与えてやるべきだと思った。

しかし問題は女性であった。
彼は考えた、
ヨーロッパから女性を運んではいけない。
何故なら植民地で「いさかいを引き起こす」。

かくしてモンリノは、植民者と現地の黒人女性との結婚を提案した。
特に受刑者のためには、黒人女性とのあいだに、子供を一人つくれば、刑期を一年間、短くし、六人つくれば、六年間、短くするとした。

ちなみに、計画は実現されなかった。


・ケース2 集団お見合い結婚

7月王政期、約10万人のフランス人兵士が、先住民の抑圧のために、アルジェリアに動員された。

アルジェリア総督ビュジョーは、この軍人たちが、除隊後、フランスに帰ってしまうのは、もったいない、と思った。
兵隊であると同時に農作業をする、屯田兵となって、アルジェリアに居残ってくれればいいのに、そう思った。

しかし問題は女性であった。
1847年3月20日付の『アルジェリア官報』によれば、
総督はトゥーロン(フランス南東部の地中海に面した港湾都市)の市長ブールマンに打診した。
屯田兵と結婚してくれるフランス人女性を幾人か、トゥーロンの付近で探してくれないかね。

市長は同意した。
女性の人選は、ピノ大佐の娘がしてくれることとなった。
20人の女性が集まり、各々にトゥーロン市から200フランの持参金が渡された。
総督はさっそく20人の屯田兵をトゥーロンにおくり、男女は同意して、結婚した。

『アルジェリア官報』によれば、その後、20組の夫婦はアルジェリアに行き、仲むつまじく暮らしましたとさ。


・ケース3 植民地主義×(婚活+就活)=フェミニズム

第3共和政期、1897年1月12日、フランス植民地協会の講演会で、シェレイ=ベールは次のような講演をした。

フランスでは、若い女性たちを取り巻く環境が、著しく変わりました。
彼女らはますます自由に、自発的に行動するようになっています。
その一方でファッションや趣味のための出費がかさんで、彼女らは貧しくなっています。

また近年では、結婚のための持参金の額が増加傾向にあり、適齢期の女性はなかなか結婚ができません。
親たちも困惑しています。

一部の若い女性は勉強をして、幾つもの試験を受けて、資格を取得しますが、それでも職を見つけるのは至難の業です。

それゆえフランス本国では、「職も未来もない若い女性」がいっぱいです。

反対に、植民地には、配偶者を求める独身男性がいっぱいいます。
植民地では、女1人につき男5人の割合となっています。

そこで提案したいのです。
若い女性たちを植民地に移住させてあげましょう。
誤解しないでください。
第1の目的は結婚ではありません。
第1の目的は女性が職を見つけることです。
メイド、服の縫子、学校の先生、子守り、電信技手などの仕事です。

仕事を見つけて生活できるようになれば、放っておいても、夫を見つけることでしょう。
結婚が増加して、植民地は繁栄するでしょう。

私たちがするべきは、植民地に移住させる女性の人選です。
候補者に、質問用紙に記入してもらいましょう。
住所、氏名、年齢、学歴、現在の職業、植民地でしたいこと、行きたい植民地、そして健康状態。
医師、教師、雇用主の証明書も添付してもらいましょう。
あと写真も!

選考基準で最も大切なのは、健康です。
フランスでは、最近は結婚相手の財産が重視されますが、むしろ大事なのは健康です。
また性格も大切で、植民地でやっていける性格の持ち主が望まれます。

そして彼女らを、気候の温暖なところ、アルジェリア、チュニジア、ニューカレドニア、トンキン、マダガスカルなどへ、移住させてあげましょう!


こうして講演は終わった。



歴史家の仕事は読者に考える材料を提供すること。

まあ、「考える」なんて堅苦しくなくても、暇つぶしの昔話になったら、幸いです。


史料
Charles Monlinot, Essai sur la transportation comme récompense, et la déportation comme peine, Paris, an 5.
Moniteur algérien, le 20 mars 1847.
Union coloniale française, L’émigration des femmes aux colonies, allocution de M. le comte d’Haussonville et discours de M.J. Chailley-Bert, Paris, 1897.

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