【夏休み自由研究】室町時代~江戸時代初期の酒造技術伝来史

久しぶりの投稿です。
8月は子供の夏休みということで、家族との時間を大切にしつつ、アウトドア、読書などを楽しみ、控えめながらお酒も楽しんでいました。
そして9月を迎え、「実りの秋」に向けて復活の狼煙を上げようということで、夏休みに自分なりに考えたことを書いてみようと思います。

さて、読者の方は良くご存知かと思いますが、正調粕取焼酎、そして焼酎全般の歴史を語る上で最も大きなミステリーは、技術伝播(海外からの伝来と国内伝播の両方を含む)の記録が残されていないことです。
これまで数多くの書籍、論文などを当たってきましたが、技術伝播について直接の記録はおろか状況証拠さえも不十分という有様。。。
そのような状況を逆手に取って空想を巡らせつつも、最近は若干の徒労感と手詰まり感を味わっています。
(以下、空想を巡らせた記事)

そこで、夏休みは少し発想を変え、乏しい記録を無闇に探そうとするのではなく、「なぜ焼酎伝来の記録が残されていないのか」を考えてみました。
この思考の際に、焼酎の製造が始まった「室町時代」という時期、そして、焼酎に先んじて我が国に根付いていた「日本酒(醸造酒)との共通点・相違点」に着目しました。

■酒造技術の一大転換期であった室町時代

室町時代(1338年~1573年)は、日本の蒸留酒・醸造酒の双方にとって画期的な時代だったと言えます。

以前の記事に書いた通り、焼酎最古の記録は、1546年に薩摩国山川(薩摩半島の南端部)に上陸したポルトガル商人、ジョルジェ・アルバレスによる報告だと言われています。
また、1559年の記録として、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社で「焼酎」という文字が書かれた棟札が見つかっています。
これらの状況証拠から、焼酎(蒸留酒)の製造技術は、室町時代後期の16世紀前半頃に、大陸から九州に伝わったと考えられています。
つまり、室町時代後期は「日本(本土)の蒸留酒(焼酎)が幕を開けた時代」と言えます。

一方、古代以前からの歴史を持つ日本酒(醸造酒)も、室町時代に大きな転換期を迎えました。鎌倉時代に本格化した民間による酒造は、室町時代を迎えるとますます発展しました。
具体的には、応永22年(1415)には京都の洛中洛外に342軒の造り酒屋があったと記録されており、また、畿内及びその周辺の寺院で盛んに「僧坊酒」が造られるようになりました。
そうした中で、「諸白造り」「乳酸発酵による酒母造り」「段仕込み」「火入れ」といった現代に通じる技術が生まれ、品質の高い酒が造られるようになりました。つまり、日本酒にとって、室町時代は「醸造技術に革新が起こった時代」と言えます。
これらの技術の発祥は記録されていませんが、中国(宋)で1117年に刊行された酒造技術書『北山酒経』に「酒母仕込み(菩提もと)」と「火入れ」と同様の技術が記載されていること等を根拠に、室町時代に中国から高度な醸造酒の技術が伝来したとする説が有力です。

ここで注目したいのが、焼酎(蒸留酒)と日本酒(醸造酒)は、ともに「室町時代に大陸から技術が伝来したと考えられているものの、その記録が残されていない」という共通点があることです。

次は、焼酎と日本酒の「相違点」を明らかにするため、それぞれの技術伝来を取り巻く状況を見て行きます。

■庶民の生活技術としての「焼酎」蒸留技術の伝来

ここでは、「焼酎製造技術の伝来=カブト釜蒸留器の伝来」として話を進めていきます(もう一つの伝統的蒸留器である「ツブロ式蒸留器」は敢えて除外します)。

カブト釜蒸留器の発祥について記録は残されていませんが、米元俊一氏は、論文「世界の蒸留器と本格焼酎蒸留器の伝播について」(2017)で、中東発祥の蒸留技術が中国の雲南省へと伝わった際に、当地の「蒸し料理」の技術と融合し、カブト釜式蒸留器が生まれたと推論しています。
そして、その傍証として、蒸し器の蓋を裏返すと容易にカブト釜式蒸留器に変化することを指摘しています(下図参照)。

また、鮫島吉廣氏は講演「焼酎蒸留器に関する楽しい話」の中で、蒸し器(炊飯器)とカブト釜蒸留器の構造が類似していることを踏まえ、「アジアの蒸留器は台所から発生したとしても不思議ではない」と指摘しています。

以上から、アジアで広く見られるカブト釜式蒸留器による蒸留酒の製造は、台所の蒸し料理にルーツを持つ「庶民の生活技術」だと考えられます。
そして、中国から日本への伝来の担い手は「庶民」であり、それ故記録が残されていないのだと私は考えます。
上記の図から分かるように、カブト釜式蒸留器の構造は極めて単純であり、材料は木材と金属(銅、鉄など)のみです。
木材が豊富な東アジア~東南アジアであれば、庶民の模倣を通じて広がったと考えても全く不自然ではないでしょう

ただし、ここで一つ疑問があります。
自由に旅行できる現代と違って、昔の庶民は移動が制限されており、手段も限られていました。そのような中で、どのようにして中国から日本へと蒸留技術が伝わったのでしょうか。
実は、日本に蒸留技術が伝来した16世紀前半は、東シナ海を股に掛けた民間交流が盛んであった時代であり、この潮流に乗って蒸留技術が移転したと考えることができます

当時、中国の明王朝は、国家による貿易利益の独占、海上の治安維持などを目的として、民間貿易に対して「寸板も下海を許さず(一寸の長さの板も海にでることを許さない)」という厳しい禁止政策(海禁政策)を取っていました。
その一方で、明王朝は北方民族の侵攻に悩まされ、戦費を調達するために民間から銀を徴税したため、市場から銀が不足しました。
ちょうどその頃、日本では石見銀山などの開発で銀の産出が急増し、この日本の銀を中国に密貿易して儲けようと活動したのが、歴史の教科書に出てくる「後期倭寇」でした。

倭寇は「日本の海賊」というイメージを持たれがちですが、実際は中国人、日本人、韓国、さらには南蛮人などの多民族が入り混じっており、近年の研究から中国人が主力であったと考えられています。
そして、決して純民間の活動ではなく、中国の役人や軍人、日本の九州や中国地方の戦国大名も密貿易に深く関与し、大きな利益を上げていました(先日の記事で紹介した球磨・相良氏の海外貿易もその一つ)。
さらに、貿易でモノ・カネが動いただけではなく、数多くのヒト(中国人商人など)が日本に渡り、各地に「唐人町」を形成し、定住又は長期滞在しました。

出典:荒野泰典編『日本の時代史14 江戸幕府と東アジア』(吉川弘文館。2003)

中国人が日本に定住又は長期滞在するなら、当然家を構え、日々台所で食事を作ります。
そして、たまには故郷の酒を飲みたいということで、蒸し器(炊飯器)を改造して蒸留酒を造り、それを見ていた日本人が模倣し広まったとすれば。。。

妄想はこのくらいにしておきましょう。

余談ですが、明の貿易商人であり、後期倭寇最大の頭目であった王直(おうちょく)は、15年に渡って長崎県の平戸に居住し、当地の戦国大名である松浦氏の庇護を受けていました。
この王直は、日本への「鉄砲伝来」(1543年)に関わったという説があります。
彼は、戦国時代真っただ中の日本に鉄砲を売って大儲けしようと考え、ポルトガル人に鉄砲を持たせて種子島に漂着する「芝居」を打ったというのです。
ただし、この説が本当だったとしても、王直の目論見は外れたと言わざるを得ません。
銃を入手した種子島の大名・種子島時尭(ときたか)は、地元の鍛冶職人に鉄砲の製作を命じ、早くも一年後には国産第一号が完成しました。
そして、時尭がその技術を公開したため、銃の製法は一挙に国内に広がり、数年後には堺(大阪府)や国友(滋賀県)などで量産されるようになったのです。

このエピソードから、16世紀前半の東シナ海でヒト・モノ・カネが縦横無尽に駆け巡っていた様子、そして日本人の外来技術習得能力の高さが伺われます。
複雑かつ危険な鉄砲の国産化を短期間で成し遂げた日本人ならば、カブト釜蒸留器の模造など児戯に等しいのでは…と感じざるを得ません。

■寺社の経済活動としての「日本酒」醸造技術の伝来

室町時代の醸造技術の「伝来」については記録が残されていませんが、当時の技術の内容については、現存最古の民間による酒造技術書である『御酒之日記』(1489年成立?)から伺い知ることができます。
以下、Wikipediaからの引用です。

『御酒之日記』は室町時代当時の具体的な酒造技術が書かれている資料であり、奈良菩提山正暦寺製『菩提泉』や河内国天野山金剛寺製『あまの』など往時の銘酒、重陽の節句に用いられた菊酒、筑前博多の練酒『ねりぬき』などの製法も記されている。
段仕込み、諸白造り、火入れ、乳酸菌発酵など、現代の日本酒造りでも使われている技法が多く記述され、当時の酒造技術の高さがうかがえる。

日記の内容は論文「『御酒之日記とその解義』-佐竹文書より-」に譲るとして、ここでは冒頭の「能々口伝(よくよくくでん)、可秘(ひすべし)、可秘」(秘伝の書であるとよくよく後世まで語り伝えよ)という一文に着目します。
つまり、室町時代の日本酒醸造技術の伝来について記録が残されていないのは、「造り手が技術を秘匿したから」だと私は考えます。

では、誰が秘匿したのでしょうか?
ヒントは、日本酒の歴史をつづった堀江修二氏の大著『日本酒の来た道』にありました。

この方法(乳酸発酵による酒母造り)は浙江省地域の紹興酒の酒母造りに非常に似ており、当時、勘合貿易の盛んな中国から日本にもたらされたものではないかと思う。なかんずく、当時の酒造りは僧坊酒といわれるように各地のお寺が中心で、中国からの留学僧たちの情報も大きな力になったのではないかと思われる

醸造技術伝来の担い手として「寺院と僧侶」が浮上してきました。
以下では、主に政治・経済の観点から、この「寺院と僧侶が中国からの酒造技術伝来の担い手となった」という説を深めていきます。

寺院による酒造り(=僧坊酒)の歴史は、平安時代に始まります。
当時は「神仏習合」(神道と仏教が融合した信仰の在り方)の時代であり、大寺院の中に神社があることは珍しくなく、その神社に奉納するために酒造りが始まったと言われています。

平安時代初期までは、朝廷の造酒司(みきのつかさ)という組織が酒を造っていましたが、中期から後期にかけて藤原家の摂関政治、院政、平氏政権の樹立などによって朝廷が衰退すると、酒造りの技術や人員が京都周辺の大寺院に流出し、僧坊酒の商業的な製造が開始されました。
大寺院には、米(全国各地の荘園からの収穫物)、労働力(多数の学僧や僧兵)、広大な土地、豊富な資源(水や木材)などがあり、最新の知識・情報が集まっていました。まさに当時の先端産業である日本酒づくりに打って付けの環境だったと言えるでしょう
そして、鎌倉時代、貨幣(平清盛が輸入した宋銭)の普及によって商取引が活発化して日本酒が広範囲で取引されるようになり、大寺院の僧坊酒と、京都の酒屋(民間酒造業者)が急成長して二大勢力を形成しました。

ところが、室町時代を迎えると、僧坊酒に逆風が吹きます。
鎌倉幕府は、基本的には寺社を庇護する姿勢を示し、国庫から寺社運営費の一部を支出していました。例えば源頼朝は、僧坊酒「菩提泉」で有名な奈良の正暦寺に対して、銀1000貫文(今の貨幣価値で約60億円)の支払いを保証していたそうです。
しかし、次の室町幕府は、直轄領が少なく経済基盤が弱かったため、当時発展していた商業・流通への課税を強め、その一環として、一大経済勢力であった寺社への運営費の支払いを停止し、逆に課税するようになりました。

こうした中で、僧坊酒を造っていた大寺院は、ライバルであった京都の酒屋(民間酒造業者)、そして他の寺院との競争に勝ち、多くの運営費を確保するため、より「美味しい酒」を造ろうと努力しました。
大寺院の僧侶たちは、先進国である中国(明)を模範として、留学僧がもたらした情報や文献などをもとに紹興酒を模造するなかで、新しい技術を身に着けていった
と考えられます。
そして、当時の酒造は寺社の存続に直結する経済活動であったが故に、技術が「可秘(ひすべし)、可秘」とされ、そのルーツに関する記録が失われたのではいでしょうか。

こうして飛躍的に品質を高めた僧坊酒は、応仁の乱や大地震によって京都の酒屋が衰退したこともあって、室町時代後期の市場を席巻することとなりました。
しかし、その栄華も長く続かず、当時各地で台頭してきた戦国大名、そして天下統一を推し進めた織田信長・豊臣秀吉は、一大政治・経済勢力であった仏教勢力に圧力をかけ、争いに敗れた大寺院の勢力は衰退し、僧坊酒の製造は下火になっていきました。
この一例として、前出の正暦寺は、室町時代末期になると経済的利益を追求するあまり酒造を担当する僧侶(禅徒)が増え、彼らと学問に勤しむ僧侶(学衆)との争いが頻発し、嫌気がさした学衆が寺から離れてますます統制が取れなくなり、その結果為政者によって活動が規制されてしまったそうです。

戦国大名は、城下町の町衆(新興商工業者)を集めて酒造りを担わせ、次の江戸時代以降は純民間の酒屋が酒づくりの主役となりました。
江戸時代初期は『童蒙酒造記』などの酒造技術書が数多く書かれていますが、それは、大寺院から高度な酒造技術が流出したことによる影響なのかもしれません。

■「童蒙酒造記」で交わる二筋の川

繰り返しますが、焼酎(蒸留酒)と日本酒(醸造酒)は、ともに「室町時代に大陸から技術が伝来したと考えられているものの、その記録が残されていない」という共通点があります。
しかし、これまで見てきたように、記録が残されていない背景・理由は大きく異なり、焼酎の蒸留は庶民の「生活技術」として、日本酒の醸造は大寺院の「経済活動」としてそれぞれ伝来したと考えられます。

そもそも、両者は製法が全く違いますし、室町時代における発展段階も大きく異なります。
焼酎は当時まさに誕生したお酒でしたが、日本酒は既に長い歴史を持っており、室町時代の出来事は「技術革新」と言えるものでした。
したがって、焼酎と日本酒の技術伝来が全く別個の出来事であることは、当然と言えば当然のことだと思います。

ところが、室町時代の終焉(1573年)から百年後、「二筋の川」のように別個の存在であった焼酎と日本酒の製造技術が、突如として交わることとなります。
そう、あの『童蒙酒造記』(1687年刊行と推定)です。この書籍は日本酒の製造技術書・経営指南書ですが、その中に焼酎(粕取焼酎)の蒸留法が組み込まれています。

九州北部に定着した粕取焼酎の蒸留技術は、江戸時代初期に全国各地に広がったようですが、その伝播の担い手、ルートなどは謎に包まれています。
様々な資料で、福岡出身の農学者・宮崎安貞が広めたとする説を見かけますが、一次資料が存在せず、個人的には疑問を感じています。
また、天満宮の神領田ネットワークを通じて広まったとする説(太宰府天満宮=福岡、北野天満宮=京都、防府天満宮=山口)は、福岡と京都が含まれていることは魅力的ですが、これも一次資料が存在しません。

とは言え、狭い日本国内のことですし、地方(北九州)から中央(京・大坂とその周辺)は情報が流れやすいので、ここまで考える必要は無く、自然と技術が伝播したのかもしれません。

謎が謎を呼ぶ展開となりましたが、今回はこのくらいにしておきます。

<完>

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