新年早々事故に会いまして(半年たった今)

今年1/2。両親、私、妹の4人で初売りに行った。その帰りである。母と妹は後部座席で熟睡。父は運転、私は助手席でスマホゲームをしていた。
ある交差点で、対向車が私達の方に突っ込んできた。父は慌てて急ハンドルを切り、車は助手席に激突した。
あっという間の出来事だった。ドアはくの字に曲がり、メガネと携帯はふっ飛ばされた。
私幸運にも擦過傷のみだった。衝撃で足に痛みがあったが幸運にもくの字のドアに挟まれることなく、自力で立ち、割れた窓から引っ張りあげられる形で救出された。父も怪我はしたものの、自分でドアを開けて脱出できた。

問題は後ろである。母は私の後ろで寝ていたため1番傷が酷く、声が出ないほど痛みがあったようだ。
妹は事故直後、痛いよ〜助けてと叫んでいた。私が救出された後、しばらくして出れたのだが、車の外に聞こえる位の声で叫んでいた。今まで書いてきたように、両親はともかく妹はかけがえのない存在だと胸を晴れた。そんな妹が助けを求めている。しかし私は何も出来ない。気がつくと私は泣いていた。周りは痛いからだと思ったかもしれない。けど、私は妹の声が頭の中を反芻し、悔しくて辛くて泣いていた。
母と妹は重傷だったので、救急外来の指定されたところに運ばれた。しかし、受け入れの関係で私と父は別の病院に運ばれた。自分が軽傷なのはわかっていたので、ただただ妹が心配だった。
自分の手当が終わり妹がいる病院に駆けつけた。母は思ったより重傷で事故からしばらくしても面会出来なかった。本来なら母も気になるのだろうが、そんなことより妹だった。私は妹と会えた瞬間泣いてしまった。少しだけ話した。すると、母が事故時、小さい声で痛いと発していたり、妹にごめんねって言っていたらしいということがわかった。それを聞いて、母のことが心配になった。
いや違う。母に何かあって妹の心に負わせてしまったらどうしようと心配になった。

これだけ聞くと親不孝者なのかもしれないが、こうやって少しづつ向き合いだした今でも母に感謝する自分と、私の人生から出ていって欲しいと考える自分がいることがわかる。まだまだ傷は癒えていない。

翌日事情聴取等済ませ妹と母に会いに行った。母はまだ辛そうだったが、元気な私を見て安堵の涙を流した。しかし、私は夢見心地であった。妹については自分の心に反芻させるような状態なのに、母についてはどこか現実味がない。何言か言葉を交わしてその日はかえった。
親戚の車に乗せられ、私は大破した車から荷物を貰いに行った。即廃車と言われるくらいベコベコになり、ガラスまみれ。全てトランクに積んでいたのが幸いした。前列は見るに堪えない有様。一緒にいた親戚や後で処理した父からは良く生きてたなと言われる。

事故から2日経った日。実は高校の同窓会だった(そのために帰省したまであった)。父に後押しされ、無理しないことを条件に参加した。久々のスーツ姿を見た母は何を思ったのだろう。同窓会は有意義なものであった。(1次会だけのつもりが、気のあった友人と三次会までし、ネカフェに泊まって帰ったのだった。)

事故直後から私は色んなところに連絡を取った。私自身はサークル関係者、所属する楽団関係者。そして、妹の担任、顧問、部員(部長なので大変だ)。各所から励ましを頂いた。話を聞いた後輩からも連絡が入った。

今はリハビリしながらの人はいるが一家普通の生活に戻れている。コロナの影響もあり、ベッドでの面会が最後だったが、妹が元気に学校生活を送れていて、楽器に触れていられることを願うばかりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?