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中島みゆきサマの歌詞にみる言葉との向き合い方の変遷

中島みゆきというひとの、「言葉」に対する向き合い方の変遷を知りたかったので、それを年代順に並べてみた。1975年のデビュー時には既に数百曲のストックがあったという彼女なので発表年は参考程度にしかならないかもしれないけれど。

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「初期」作品では、

何ンにも言わないでこの手を握ってよ
声にならない歌声が伝わってゆくでしょう
(略)
それが私の心 それが私の涙
(『歌をあなたに』1979年)
愛の重さを疑いながら
愛にすべてをさらわれてゆく
伝えそこねた言葉のように
雨をはらんで土用波がゆく
(『土用波』1988年)

というように、「言葉」「言うこと」というものは、「肉体」や「愛」の前では圧倒的な無力なツールとして描かれている。しかし、一方で彼女が「言葉」を自分を保つためのよすがとしていたことも明らかだ。

部屋を出てゆくなら 明かり消していってよ
後姿を見たくない
明かりつけたければ自分でつけに行くわ
難しい本でも読むために
(『勝手にしやがれ』(1977年)

気持ちを紛らすために「難しい本でも読む」と嘯く。かほどに感情を抑え込む力を持っているのが「言葉」、でもその「言葉」よりもはるかに上位にあるのが「感情」という捉えだろう。

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みゆきさん不惑あたりから少し様相が変わってくる。

記された文だけがこの世に残ってゆく
形ある物だけがすべてを語ってゆく
叫べどもあがけども 誰がそれを知るだろう
(『伝説』1994年)

「言葉」よりもはるかに上位にあるはずの「感情」なのに、それを伝え、残すすべは「言葉」にしか委ねられていないというジレンマに苦しんでいる様子が読み取れる。


で、2007年に発表されたのがこの楽曲。

もしも私の愛の言葉の
あらん限りを君に贈れば
もう明日から言葉も尽きて
私は愛に置き去りかしら
(略)
惜しみなく愛の言葉を
君に捧ぐ今日も明日も
(略)
愛を表す言葉の綾を
私は多く持ちえないから
聞き飽きられてしまわぬために
寡黙であれと風は教える
いいえ私は明日をも知れず
今日在るだけの一日の花
(略)
惜しみなく愛の言葉を
君に捧ぐあらん限りに
  (『惜しみなく愛の言葉を』2007年)

「自分は愛を伝える言葉をそれほど多くは持っていないから、今日愛を伝え切ってしまうと明日は何もなくなってしまうのではないか」と提起し、それを力いっぱい否定する。「惜しみなく愛の言葉を君に捧ぐ」と。「言葉で愛を伝える」と言い切っているのだ。

「感情」が「言葉」よりもはるかに上位にあるならば、そこまで言葉を重ねればいいのだという一つの結論かとも思える詞だ。

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しかし、同じアルバムの中にこういう楽曲も収録されている。

霧に溶けるように波が寄せている
それを描く言葉を二人、探している
事実、心に映ってるのは
海なんかでも霧なんかでもないのにさ
伝われ 伝われ 身体づたいに この心
言葉なんて迫力がない 言葉なんて なんて弱いんだろう
言葉なんて迫力がない 言葉はなんて なんて弱いんだろう
(略)
何故、と言葉で君は求める
僕がさし出せるのは命だけだ

伝われ 伝われ 身体づたいにこの心
言葉なんて迫力がない 言葉はなんて なんて弱いんだろう
    (『ボディ・トーク』2007年) 

同じアルバムで「惜しみなく愛の言葉を」と言いながら、「言葉はなんて弱いのだろう」と嘆く。

「感情の位置まで言葉を重ねればいい」という一つの結論を結論としていいのか、言葉の無力さを思うにつけ、そのもどかしさに不安や焦りを感じているように思える。さらに興味深いのは、「言葉なんて迫力がない」の部分がリフレインされるのだが、それをかなりの迫力を込めて、叫ぶように歌っているところ。それは彼女の楽曲の中でも屈指の迫力なのだ。「迫力がない」「なんて弱いんだろう」と、ド迫力で強く強く歌う。ここにも彼女のもがきが見える気がする。言葉の持つ力を信じたいし言葉は無力だ。

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2012年発表の『風の笛』。

言いたいことを言えば傷つく
大切な総てが傷つく
だから黙る だから耐える
それを誰もが知らない
ならば
言葉に出せない思いのために
お前に渡そう風の笛
言葉に出せない思いの代わりに
ささやかに吹け 風の笛

言葉に出せば通じることもある
言葉に出せばこじれることもある
(略)
言えないこと呑んで溺れかけている
黙るより他思いつかず
決めたんならそれもいいだろう
そして黙る そして耐える
それを誰もが知らない
言葉に出せない思いのために
お前にわたそう 風の笛
言葉に出せない思いの代わりに
ささやかに吹け 風の笛
  (『風の笛』2012年)

言葉の無力さ、言葉の不完全さ。言葉は意味を規定してしまうので、思いのすべてを包括することは不可能。それゆえに伝えることすらあきらめようとしている人たちに(そこには自分自身も含まれている)新しいツールであるところの「風の笛」を提示する。先述の『伝説』と同年(1994年)に発表された『風にならないか』という楽曲の中に

むずかしい言葉は自分を守ったかい
振りまわす刃は自分を守ったかい
降りかかる火の粉と
降り注ぐ愛情を
けして間違わずに来たとは言えない
二度とだれかを傷つけたくはない
されど自分が傷つきたくもない
(略)
もう風にならないか
ねぇ風にならないか
  (『風にならないか』1994年)

という詞がある。「むずかしい言葉」と「振りまわす刃」はイコール。自分を守るはずの言葉たちであったはずなのに、言葉は不完全だから「火の粉」と「愛情」を間違えてしまうこともある。

「風」は肌に直接感じるものであり、形を持たぬもの。言葉というものが、いくら重ねても不完全であるものならば、「感情」を「言葉」で表すのではなく、形を持たぬものに託した方がいいのではないか。

その「風にならないか」を、さらに深めたのが上記の「風の笛」なのだろう。「言葉にできない思い」の代わりとしての「風の笛の音」。彼女はここで「言葉」を見切ってしまったかにも思える。

海へゆこう 眺めにゆこう
無理に語らず 無理に笑わず
伝える言葉から伝えない言葉へ
(『ジョークにしないか』2014年)

ここで、ついに「言葉」は「感情」を表す道具としての役割を終えてしまう。

「海へ行こう眺めにゆこう」という場面の続きを私たちは『ボディ・トーク』で知っている。

霧の溶けるように波が寄せている
それを描く言葉を二人、探している
事実、心に映ってるのは
海なんかでも霧なんかでもないのにさ

2007年『ボディー・トーク』で見た、言葉の無力さに対するもどかしさと不安や焦り、そこから「言葉」を見切ることで脱け出す。「無理に語らず」「伝えない言葉へ」と。

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そして、「感情」と「言葉」の結論ともいえる楽曲。

愛という言葉を一度も使わずに
あの人だけわかる文(ふみ)を書く
誰か覗いて見ようとしても
季節伺いと読めるだけ
あの人だけ読みとれる言葉散りばめて
心当たりにそっと触れる言葉散りばめて
手を触れて
愛と云わずに互いの心に手を触れて
白日のもとに文(ふみ)を書く
愛という言葉に愛は収まらない
さりとて伝えずには伝わらない

喉元に答迫るような言葉は
あえて使わない
読みたい文字 他人は探して読み進む
裸な文字を探り当てるために読み進む
嘘じゃない
愛と云わずに慕わしさに衣を着せかけて
白日のもとに文を書く
 (『愛と云わないラヴレター』2016年)

「愛という言葉に愛は収まらない」と「言葉」の不完全さを認め、さらに「さりとて伝えずには伝わらない」と妥協点を見出す。『ボディー・トーク』で「伝われ 伝われ」と繰り返されていたことが、「愛と云わずに互いの心に手を触れて」というところに帰着する。


「言葉」という不完全なものを様々な形で駆使して私たちへ、また伝えたい人へ、彼女はずっと心を伝えようとしていていた。そしてその都度、あまりの伝わらなさに苛立ちとかなしみを抱いてきた。しかし、ここで「互いの心に手を触れ」ることが伝える方法として最良だと結論づけたのだ。それは冒頭の『歌をあなたに』でうたわれていることでもある。「何ンにも言わないでこの手を握ってよ/声にならない歌声が伝わってゆくでしょう」

おそらく、1979年の『歌をあなたに』では直観でしかなかったそれを、長い年月を模索し続けることで、確信へと築き上げたのだと思う。

漱石が「I love you」を「『月が綺麗ですね』とでも訳しておけ」と言ったやら言わなかったやらという話があるが、この『愛と云わないラヴレター』には、それに近いものを感じる。他人が読めば何の意味もない「言葉」でも「互いの心に手を触れて」いる言葉なら伝わる。確実に伝わる。それが「互いの心に」触れているものであれば。

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まとめが上手く書けないのでこのあたりでやめますが、長々とおつきあいくださった方、ありがとうございました。うーん、無理やり何か結論めいたことを書くなら、「中島みゆきは、漱石の域に達した」って感じですか(笑)

*これも、他のSNSにUPしてたものを加筆訂正したものです。今は何だかバタバタしてて、ここまでゆっくり考えられない(笑) でも、もっと時間と気持ちにゆとりがあったら、もう少し論文っぽくしてみたいなあとは思っているのですが………限界っ!(笑)



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