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第24話 その存在だけで背中をおしてくれる友達【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】


大阪のトシの家は大阪湾岸にある。駅でいうと弁天町だ。弁天町の駅から中央大通りを大阪湾に向かってしばらく歩いたところにある。もっと歩いていくと広い公園や天保山観覧車というのもある。あとで知ったが天保山は有名なスポットのようだ。

この辺りは東京の古い湾岸地域の下町と同じように、小さな工場が多く、建物も四角くて少しさびついてて、少し斜めになっているような、全体に茶色や灰色っぽいイメージのエリアだ。

すぐ近くに荷物をあげられる船着き場もある。街を散策していると、いつの間にか倉庫や荷揚げ処理施設などのエリアにはいっていることがあり、境界線がわからない箇所が多い。人影は少なく、ひっそりと、さみしさがただよっている。

大阪のトシは実家が重機屋さんで、家に大きなトラックが1台とまっている。おそらく4tトラックか。大きなトラックがとまっているとは言っても広いスペースがあるわけではなく、駐車場の一角には8畳くらいの物置小屋があり、トラック1台ぎりぎり入るスペースがあるだけ。

トラックの上は屋根と突き出したベランダになっている。そのトラックの陰に屋外トイレも無理やり収まっている。

トシはその物置小屋を改造してロフトやロフトの上のベッド、洗面台、床、壁を自分で木工でこさえて生活している。

まさに自分だけの秘密の部屋というか基地というか、「おれもこういうのしたいなあ」と嫉妬させられるような部屋だ。

母屋とは離れているから家族の目を気にせず、やりたい放題になる。

毎晩のように友達が遊びにきては飲んで、もちろん女の子だって家族の目を気にせず招くのはたやすい。

ぼくがそこに居候させてもらった10日間ほどの間も、地元の幼馴染の友達を呼んでくれて毎晩のように一緒に飲んだ。そして毎晩のように歌を聴いてもらった。

それで飲んでいると当然おしっこをしたくなるんだけど、男子は夜はトイレは使わない。入口をあけたらそこは歩道で、目の前にびわの木が植えられているからそこに男子は「たっしょん」をする。

そのびわに実がなれば食べる。それもおいしい。

また、トシは5人兄弟の2番目で、一人だけそんな優雅な暮らしをしているから、兄弟の中でもちょっと特別なキャラなんだろう。インドに行くくらいだから当然とも言える。

5人兄弟のうち、上4人は男、一番下はたった一人、みゆちゃんという女の子だ。当時小4だった。時々学校帰りにトシの部屋に直行してきて、「うちの先生、めっちゃしぶいわー。しぶくて好きやわー。」とか言いながら宿題をしていた。

みゆちゃんも結構な変わり者の片りんを見せていた。

食事の時は母屋の方で食べる。ぼくも毎日のように食卓に呼ばれて食べさせてもらった。食事の時間になると秘密基地側にある母屋の窓を開けて、
「SEGEくーん。ご飯ですよー。」
と呼んでくれる。

5人を育てたお母さんにとっては一人増えてももうなんともないのか、息子のように扱ってくれてとても感謝している。

お風呂もいつも一番風呂に入れさせてもらった。せまいガタピシした青くて細かいタイル張りの壁に、膝を曲げなければ入れないステンレスの浴槽は、この町に似合っている。むしろそれがぼくの心をいやしてくれた。

夕食の時は、仕事を終えて帰ってきた、座椅子に座ったお父さんの晩酌のお相手をするのがぼくの常になった。トシがまだ仕事から帰ってきていないことがあるからだ。

お父さんは愛媛生まれで大阪に上ってきて土建屋を立ち上げた、細かいことは気にしない、やんちゃなドヤ声のお父ちゃんだ。

お父さんの背中側にあるテレビにはだいたい阪神戦が映っている。

ぼくは椅子の生活になれてしまっているので、実は地べたに座る生活に慣れていない。けどそれは我慢するしかない。

「SEGEくん、あの歌知ってるやろ。あの歌最高やな。」
「兄貴、死んでくれいうてな。」

ぼくは毎日のように同じ話を聞かされていたが、そんなお父さんの言葉だけが今でも頭に刻まれている。でも、『兄貴、死んでくれ』の話がどんな話の中で出てくる言葉だったのか、よく思い出せない。

ぼくの頭にはお父さんの話が入ってこなかったようだ。それは地べたが慣れていなかったということにしておこう。

それと、トシのお父さんは松本の自称やくざのおっちゃんを彷彿とさせた。年をとると同じ話を何べんも繰り返すようになる人が多いのだろうが、そういった人はどこか共通した人格を持っているように思える。

お父さんは、ぼくが歌を歌っているとトシが紹介しても、とるにたらないという感じだった。自分が知っている歌にかなう歌はないというようなことを言っていた。

ぼくはもちろんそういう方たちの言っていることがよくわかっていたから、お父さんの演歌談義を素直に聞いていたが、あるときトシの部屋の飲み会にお父さんが顔を出した。

「おとん、SEGEくんの歌きいてや。ええで。」

お父さんは何かごにょごにょ言っていたような気がする。演歌の方がなんとかとか。でもぼくは歌い始めた。

歌い終わるとお父さんは絶句していた。目の前にいる人をほめるとか、そういうことをあまりしたことのないタイプの人だろうから、「すごいなあSEGEくん。」とはならない。

「な。SEGEくんの歌ええやろ。」
とトシはお父さんに言い聞かせているのか、もしくはお父さんの心の声を代弁してあげたのか分からないが、そう言ってくれた。

たぶんどっちもだったろう。

その日からぼくに対するお父さんの目が少し変わった気がする。
「自分の歌をコード会社に送る人もいるみたいやで。」
とか、そんなことをぼくに話してくれるようになった。

そんなお父さんとともに歩んできたお母さんもかなりの人だ。お父ちゃんの男気のいいところもいやなところもあるだろうが、けんかしたところを見たことがないし、男のやることを尊重して口出ししないという気構えを感じた。

5人の子供たちの個性もそれぞれだし、トシがインドへ行こうが、ぼくのような変わった友達を居候させようがなんでも受け入れられる心の広さがあるし、それでいてどっかりと地に足がついてぶれない、静かな強さのある人だと思った。

それにこんなぼくにもトシの兄弟のことについて相談してきたり、トイレのドアノブが壊れていることを相談してきたりしてくれた。

どこの馬の骨とも知れない居候を頼ってくれるなんて、こんなうれしいことはない。

ぼくは恩返しにと思ってトイレのドアノブを交換して修理してさしあげた。でもそんなことではトシの家族にしていただいたことには到底およばないが。

ぼくはこの後の日本二周目もトシの家にお世話になったし、全部で1か月以上は居候させてもらった。トシが親友であるだけでなく、トシの家族が自分の家族のように思えてならない。

そう思わせてくれたご家族の皆さんに深く感謝している。

さて、ぼくには大阪に来て、トシに出会ったら必ずやろうと心に決めたことがあった。それは心斎橋で路上ライブをすることだ。

トシに会うのに逃げてばかりはいられない。どのみち「歌わないの?」と聞かれるのはわかっている。だからドキドキするけど、歌いにいくと心に決めていた。

トシはインドも感じていたけど、「攻め」の人だ。果敢に挑戦する。人の目を気にしてなんていられない。やりたいと思ったことをやる。下手でもやる。

ぼくが居候していた時はトシはスケボーに熱中していた。決してまだうまくはないけどそれでも練習するその姿勢がやはりまぶしかった。

そしてそんなトシとともに過ごすのだからその目を気にせずにはいられない。ぼくは自分もどんどん攻めなくてはと思ったのだ。友達とはすばらしいものだ。その存在だけで背中を押してくれるのだから。

トシの家からは心斎橋まで結構ある。トシに自転車を借りて大阪の街探検をたくさんさせてもらったから大阪の土地勘はけっこう身についた。

心斎橋まで5km。まあ歩いていけなくもないけどギターを持って歩いて、それから路上で歌って帰ってくるというのはしんどい。

自転車だとギターを持てない。

(じゃあどうする?電車?歌いに行くのに電車というのはこの旅の掟に反するのでは?そんなことない?初めてのシチュエーションでよくわからん。いや、そもそもお金使うのもったいないからやっぱり電車はなし。)

ぼくは結局心斎橋までヒッチハイクすることにした。

「おれヒッチで行ってくるわ。」

ぼくは大阪弁が好きだからか、それもきっとダウンタウンが東京で売れてくれた影響だと思うけど、毎日大阪人に包まれているとにわか大阪弁になってくる。

そのにわか大阪弁でトシに宣言して、ぼくはトシの秘密基地を出て、一人中央大通りからヒッチハイクをした。

つづく

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