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少し前のことだが、プロの総合格闘家・青木真也選手(以下、敬称略)のことを書かせてもらった記事が、「思いのほか」読まれた。

ここでいう「思いのほか」とは、あくまでも「想像以上に」ということであって、つまり、掲載されるまでは、ここまで読まれるとは想像していなかった、当初の想像を超えるほど読まれたという賞賛の意が込められている。だからこその「思いのほか」である。

では、僕はなぜ、ここまで読まれることが想像できなかったのか。

青木真也の持つストーリーとは

青木真也は、これまで、数多くの批判を浴びてきた人間である。中でも、2009年の大晦日に行われた廣田瑞人との試合で、躊躇なく廣田の腕を折った上、倒れている廣田の顔の前で中指を突き立てた時は、さすがに僕も嫌な気分になった。そのシーンは、全国に生放送され、物議を醸し出した。この時、青木真也は、完全にヒールのイメージが世間に植え付けられたのではないかと思う。

この内容からもお分かりの通り、青木真也は、多くの人が共感するような男ではない。

だけど、僕は、なぜか青木真也をいつも応援していた。いや、むしろ、青木真也が負けた時に感じてきた寂しさは、いまでも強烈に僕の心に刻み込まれている。それくらい、僕の感情に何かを残してきた格闘家だった。

青木真也が負ければ、「ざまぁみろ!」という声が飛び交う。中でも、長島自演乙雄一郎選手との試合でKO負けした時は、テレビ解説者までもが、青木真也の敗北を喜んでいるのをみて、「さすがにそれはないだろう」と、解説者の人格を疑ったりもしたものだ。

青木が負けるのが寂しかった。まるで社会の不適合者のように扱われ、それを一切許さない風潮や、それを助長するメディアに対して、違和感を覚えていた。だから、たくさんの「ざまぁみろ!」が僕の胸には、虚しく響いていた。そう、少なくとも僕は、青木真也に心を揺さぶられていたのだ。

ストーリーが届いたのは、格闘技ファンだけではなかった

実は青木真也の記事が掲載された後、読者の方から僕の元に、SNSを通じて1通のメッセージが届いた。そこには

「私も長い間、孤独を味わいました。今まで青木真也選手のことは知りませんでしたが、記事を読んで勇気づけられました。また明日から頑張ろうと思います」

と書かれてあった。

そのほか、Twitterでは、

「この格闘家の生きざまと考え方が共感できる。うちに関わる役者さんにはぜひ読んで欲しいなぁ。」

「鬼かっこいい・・・・・・やっぱ嘲笑を引き受けられる人はかっこいいな・・・・・・」

といったように、青木真也のストーリーを自分の人生に重ね合わせて読んでくれたと思われるツイートが見うけられた。

いい記事って何だ?

青木真也の記事は、OCEANSというアラフォー世代のファッション・ライフスタイル媒体で掲載されたものである。当然ながら、格闘技ファンがたくさんついている媒体ではない。

それにも関わらず、たくさんの人に読まれたのは、青木真也という格闘家の人生が、格闘技ファンという狭い世界を超え、現代社会の中で苦しむアラフォーの男性読者に届いたからだ。

そして、この時、改めて思い知らされたのは、「伝えたい人に伝わる」ことの大切さだった。

僕は、アラフォー世代で執筆をはじめた後発の書き手である。ただ単にスポーツのことを書くだけなら、僕よりスポーツに詳しくて、僕より若くて経験豊富なライターの方が世の中にはたくさんいる。その中で、僕にしかできないことを探すのは難しいが、少なくとも僕にできることは、スポーツをスポーツから遠い人に対して届けること。それこそが僕の生存戦略なのだ。

その意味では、まさに「伝えたい人に伝わった」のが、今回の青木真也の記事だった。

取材から2ヶ月以上がたった今でも、青木真也のしゃがれた声が僕の頭の中に響く。

「俺らは、勝ち負けの商売をしているんじゃない。感情を揺さぶる商売をしているんだよ」。

作品のストーリーが、読者の感情とシンクロした時、その作品は作家の想像を超えて、様々な世界に飛び立っていくのだ。

瀬川泰祐の記事を気にかけていただき、どうもありがとうございます。いただいたサポートは、今後の取材や執筆に活用させていただき、さらによい記事を生み出していけたらと思います。