前世を確信するプロセス|源経基編〜シンクロニシティからの検証

前世を探求する手がかりの一つで大きいのが、いわゆるシンクロニシティや、私が「出来事メッセージ*」と呼んでいるものを手掛かりにすることもできます。特に歴史を遡るほどに、手に入る史料の量が減ってくるので、こういった要素の出番が増えてき易い傾向があります。

1年ほど前の2019年4月に判明した私の紀元10世紀の前世(源経基)が明らかになっていくプロセスは、いつにも増してシンクロニシティや出来事メッセージが、現時点までに大きなヒントとなっています。

今回は、源経基の存在を知り、前世として明らかになっていく中で起きてきた内容をご紹介します。

*「出来事メッセージ」とは、読んで字の如くです。「出来事」によって、非言語のメッセージが届けられているという視点です。

鹿島玉川神社でのシンクロその1

源経基は、清和天皇の流れを汲む生まれで、皇族として生まれましたが、臣籍降下して源姓を名乗りました。後の清和源氏(鎌倉幕府を興した源頼朝も清和源氏)の始祖とされています。

彼は承平8年(938年)、武蔵介として関東にやって来ています。関東で彼はいくつかの神社の創建に関わっています。その中の一つに、青梅市にある鹿島玉川神社(以下、本稿では「鹿島社」と略します。)があります。

この神社を軸に、シンクロニシティが幾つも見られました。

源経基を前世と認識し始めたのが、2019年4月。それからすぐに鹿島社の存在を知ります。当時の私は、そこから比較的近い所に住んでいたことによります。(そこに移り住んだのも、経基の時の土地のご縁が現れています。)

それから数日経ったある日、時間ができたので、何気なく鹿島社へ足を運んでみることにしました。着いてみると、妙に人出が多く、賑やか。驚いたことに、お祭りの日だったのでした。インターネットで調べる限りでは、例祭日は9月19日。春先にお祭りがあるなんて知りませんでした。知っていたら、意識的にその日を選んでいたでしょう。

ちなみに、鹿島社は地元の方しか参拝しないような小ぶりな神社ですが、お祭りは思いの外、地元の方々で賑わっていました。

何気なく足を運んだら、お祭りの日と重なる。そんなシンクロニシティでした。

鹿島玉川神社でのシンクロその2

今度は、4月の末のことです。

奥多摩にある武蔵御嶽神社(厳密には、青梅市内にあります。)を訪ねました。そこで宿坊を営み、神社の宮司さんでもあるHさんとお話しをする機会がありました。私は、20年近く前の20代半ばから後半にかけて、龍笛という雅楽で使われる横笛の教室に通っていたことがあり、Hさんとは、その時からのご縁でした。

恐らく、10年ぶりにゆっくりとお話をさせていただく機会。その中で、「もし龍笛を吹ける場所を探しているなら、青梅にある神社の雅楽会を紹介してあげるよ」と提案されました。

「青梅といっても広いから、神社も沢山あるだろうけど、もしや」と思いながらも、どこの神社か伺ってみると、鹿島社の雅楽会だということでした。

話の流れから予感はしましたが、やはり、本当に起きると、内心、驚きを禁じえず、鳥肌がゾワゾワと立ちました。まさか向こうのほうから近寄ってくるなんて。

結局、その雅楽会に入ることはありませんでしたが、前項の件と、僅か1ヶ月程の間に、立て続けに鹿島社とのご縁を感じさせる出来事が重なりました。これらのシンクロにより、源経基との関連に、かなり確信を深める出来事でした。

余談になりますが、龍笛は趣味で習いました。習い始めたら、不思議とメキメキと上達して、ある生徒さんからは、「演奏技術だけなら先生より上手いと思う」なんてコッソリ褒められたことがあるくらいになります。こんなに簡単に上達するなんて、前世のご縁もあるだろうと思っていましたが、もしかしたら、この前世で龍笛を嗜んでいたことがご縁かもしれません。

茨城の鹿島神宮の近くに通っていた

この鹿島玉川神社は、名前の通り、あの茨城(常陸)の鹿島神宮から経基が勧請して創建されました。

ちょうど、経基が明らかになった少し前(2018年12月)から、ある方に会うために、月に1〜2回のペースで鹿島神宮のすぐ近くに通っていたのです。東京駅から鹿島神宮行のバスに乗って。このことにも偶然以上のものを感じます。

「917」という数字とのご縁から

少し視点を変えて、数字のシンクロについても書いておきましょう。

経基の生年は諸説あるようですが、その中に917年(延喜17年)生という説があります。真偽のほどは別として、この「917」という数字とにも私はご縁があります。ずっと、何故その日になるのかを不思議に思っていましたが、経基のことを調べているうちに納得してきました。

私は自分史を付けているのですが、そこから9月17日に節目を迎えることが多いことが分かってきています。このブログに繋がるような前世探求のきっかけになったのが1999年9月17日でしたし、以前、海外に留学した時も9月17日付でビザが下りたりということもありました(もっと早く下りるように申請していたにも関わらず、詳しい方も首を傾げる程に遅れ、結局この日になりました)。その他、内面的な変化がこの日に起きることが多い。

例えば、東京・麻布に、経基が創建したという麻布氷川神社があります。ここの例祭日が9月17日。先程、ご紹介した鹿島社も9月19日と、ほぼ同じ日程です。

また、麻布氷川神社の祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)ですが、八雲神社などの素盞嗚尊が祀られている神社も、調べてみると、例祭日が9月17日のことが多いのです。

さらに付け加えると、八雲神社は現在の私の産土神社でもあります。経基も自ら創建する神社に素盞嗚尊を選んでいますが、私個人も、何かと素盞嗚尊とのご縁を感じることが多く、このことは、個人的に非常に立体的な繋がりを感じさせる内容になっています。

経基の府中の拠点とのご縁

冒頭にも少し触れましたが、経基は承平8年(938年)、武蔵介として、現在の府中に赴任します。当時、府中には国府、今でいう県庁所在地のような施設があり、そこでの役職の一つが武蔵介です。赴任中に経基が住んだ屋敷があったとされる場所は、現在はお寺(諸法山称名寺)になっています。

称名寺は時宗のお寺なのですが、私の実家のお寺も時宗のお寺なのです。実家のほうについては、私の祖母が亡くなった時に、お墓を作るにあたり、最寄りのお寺さんを選んだだけのご縁でした。それだけに、経基の屋敷跡地が時宗のお寺であることにシンクロを感じます。

また、経基が赴任してきた頃、国府の建物は、現在の大國魂神社の場所にあったそうです。この神社は私が経基のことを知る前から、何年もの間、初詣その他で、多い時は毎月のように足を運んでいましたし、この神社でインスピレーションを得た体験から大きく人生の方向性が変わるという体験もありました。

称名寺と大國魂神社、これらの場所とのご縁から、経基とのことにも繋がっていくのです。

興世王が前世の人物とシェアして暮らしていた

さて、経基が自分の前世であると気がつくきっかけは、私と同じように自らの前世を探求する友人からの指摘がきっかけでした。彼は、経基が発覚する数ヶ月前に、自分が経基と同じタイミングで武蔵権守として府中に赴任してきた興世王という人物であったと判明していました。

彼とは、府中からほど近い国立市内でシェアハウスをして、同じ屋根の下で暮らしていた期間が2年ほどありました。お互い、シェアして暮らすことが何故か実現してしまったというような感覚があり、これは前世でのご縁もあるであろうという予測をしていました。

彼が興世王であることが判明し、私が経基であることが判明したことで、そのことに納得ができるようになったのでした。

他の前世でのご縁もあるという予感もあるのですが。(本稿を書いている頃には、14世紀ドイツの前世と、明治大正から昭和にかけての日本で、共に活動した可能性が見えてきています。)

いずれにせよ、転生はグループで起きます。毎回、同じ顔ぶれになるわけではないのですが、やはり身近な人は、前世でも、今と全く同じではないにせよ、やはり身近な存在であることが多いです。そのため、身近な存在の前世が判明すると、芋づる式に判明して来ることがあります。ここでは、それが典型的に起きています。

まとめ

源経基の判明に到るまでに続いたシンクロなどをご紹介しました。もう少し近代の前世であれば、もっと史料なども多く揃っていたりして、更に立体的な確証が得られるのでしょうが、とは言え1000年前。まして、そもそもの史料の少ない人物です。

代わりに、これだけシンクロニシティが重なったことに説得力を感じざるを得ません。

ところで、余談で触れた龍笛の件ですが、その教室は源博雅という人物の遺した雅楽の譜面を主な教材として扱っていました。博雅は918年生で、917年生説のある経基と近い世代であり、同じく皇族に生まれ、臣籍降下している点で境遇が似ています。きっと近い関係だったのではないかと思われます。

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