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【プロポ2】ブリコラージュな人生手法

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

ブリコラージュな人生手法

「bricolage(ブリコラージュ)」。フランス語で「寄せ集めてつくること」。「繕う・ごまかす」を意味する動詞「bricoler」の名詞形。僕がこの言葉の出会ったのは、テレビでフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの代表作『野生の思考』についての特集番組を見たときです。僕自身が大学で文化人類学のゼミで学んでいたこともあってか、非常に興味深い解説を食い入るように観ていました。レヴィ=ストロースは各地の部族に「在りもの」を組み合わせることで、それぞれの部品の本来の用途とは異なるけれど、全体としては生活に必要な機能を満たす道具を作る知恵があることを発見しました。彼はこれを人類の普遍的な能力と考え、「野生の思考」の一部を担う「ブリコラージュ」と呼びました。

ブリコラージュの手法は、設計書があって計画的にすべてを組み立てていく近代的な手順とはまったく異なります。設計に合わせて部品を準備していくのではなく、目的に合わせて在りものを組みあわせるのです。音を奏でたいのに楽器がないなら、鍋とおたまでリズムを刻むのがブリコラージュ。鍋に水を張って音域や音質を変えるのもブリコラージュ。大き目の洗濯ばさみでスマホを挟んでスタンドにするのがブリコラージュ。角度の調整のために下に文庫本を挟むのもブリコラージュ。

 僕たちは高度に近代化した社会に生まれ、それに合わせて設計された教育機関で学び、その秩序で機能的に働く仕事をして生きています。ゆえに設計的な思考が脳に染みついている。一方で、ブリコラージュ的な思考はあまり強調されることがありません。古代ギリシアの思想と準えて、前者をノモス的思考(ノモス=人為・慣習・規範)、後者をピュシス的思考(ピュシス=自然・本性)と呼ぶと綺麗な二項対立に落とし込めて整理しやすい(このように物事を単純に二元化する癖は軽率であり誤謬のリスクもあるので、慎重になりたいところでもありますが)。

 ブリコラージュ的な思考をピュシス的なものと捉えなおすと、自然・本性という概念との結びつきが見え、レヴィ=ストロースがこれを人類の普遍的な知恵と考えたのにも頷けます。しかし、この自然で普遍的な知恵が軽視される現代とはこれ如何に。現代美術なんかを見ていると、僕たちが日常的に何かの「道具」として、その「目的」を意識して固定的に捉えてしまっているモノを、まったく別のモノとして捉えなおした作品によく出会います。ノモスの破壊、設計の無視。同時にそれを別の目的に昇華して面白おかしくしてしまう。ここに芸術性があるのだと思います。設計的な思考の産物を、ブリコラージュの思考でRecreateする。まさに「re-create(再創造)」であり、レクリエーション(遊び)です。そしてこれが自然の知恵でもある。

 ブリコラージュという言葉を始めて聞いたときは、ここまで書いたような内容が、言葉になる前の真っ新な状態で脳内を駆け巡ったのだと思います。それで、ワクワクした。そのことだけはハッキリ覚えています。そういえば、僕たちが普段から使っている「言葉」なんてブリコラージュの最たる例なのではないでしょうか。もちろん新しい発明や新しい概念には新語が作られ、意味を割り当てられます。「クラウド」「SDGs」「映える」「黙食」など、例は考えれば考えるだけ出てきます。一方で、僕たちは普段の言語活動においては、自分の既知の単語や表現の組み合わせだけで、考え・意思・気持ちなどの捉えどころのないものを表現しようとしています。まさに在りものを組み合わせて目的を満たすというブリコラージュの手法そのものではないか。

 僕がブリコラージュを生活のもっと増やすべきだと思うのは、人生というのがそもそもブリコラージュ的なものだと考えるからです。ゼロから最終的な完成形を決めて、すべて設計してから人生を歩むなんてことはできませんし、できたとしても、設計時には計算に入れられない不確定要素が多すぎて現実味がありません。そして、そのような設計づくの人生は面白いものかなぁと疑問にも思います。僕たちは生まれながらにひとりひとり異なる条件を背負っています。異なる環境を与えられています。異なる出会いを通して異なる経験をします。一定の年齢に達するまでは、これらの外的要因は自分ではコントロールできません。そして残りの人生を、これらの在りものを使って生きていきます。もちろん後から自分で武器になるものを追加設計したり、楽しい娯楽を選んだりすることはできます。しかし、すべての「在りもの」を無視して生きていくことは困難です。そこでブリコラージュの知恵の出番。

 短期的でも長期的でもいいので、自分の達すべき目的を定め、そのために自分の在りものをブリコラージュしていきます。在りものには、自分の技術、身体、道具、経験、価値観、好み、性格、健康、時間、財産、人間関係など、あらゆるものが含まれます。僕がこのようにプロポを書いているのも、考えるのが好きという「好み」があり、パソコンやブログのドメインという「道具」があり、アラン『幸福論』を読んだという「経験」があり、思考を文章に落とし込む「技術」があるという、在りものをブリコラージュした結果なのかもしれません。決してこのプロポを書くために、たくさん考え、たくさん書き、パソコンを買い、ブログを開設し、本を読んできたわけではありません。そこに「設計性」はないのです。きっと、ほとんどの人生のほとんどの行動も、設計性はないと思います。

 これらはほとんど、意図されぬブリコラージュ。意図されぬからこそ、人生はブリコラージュ的だと思うのです。しかし、もし僕たちがブリコラージュ的思考にもっと慣れて、意識してブリコラージュ的創造をするようになったら、人生はどうなるのでしょうか。僕はここで、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った有名なスピーチを思い出します。設計図どおりに準備して点と点を繋いで将来を作っていくことはできないが、現在僕たちが打っている点は、人生のどこかできっと別の点と繋がって線になる、という話です。例として彼が自分の経験を引用しています。大学を中退した後に大学に居座って好きな講義に潜り込んでいたらカリグラフィーと出会い、文字の美しさに関心を持ち、これが10年後に開発されるマッキントッシュに様々なフォントが搭載されるきっかけになった、と。コンピュータを作るという目的に、カリグラフィーという一見なんの関係もない分野が組み合わされています。とてもブリコラージュ的だと思います。しかし、これが実現したのは、ジョブズその人に、自然の知恵であるブリコラージュの思考が備わっていたからこそです。もし設計的な思考だけで取り組んでいたら、過去にカリグラフィーの講義を受けていても、それがコンピュータ開発に組み込まれることはなかったかもしれません。

 このようなことは、僕たちの人生にも起きえます。いや、きっと大なり小なり起きている。そう考えると、僕たちがこれまでの人生で残してきた乱雑な足跡は、どれもまだ次のブリコラージュの潜在的な素材なわけで、どれも無駄と決めつけることができなくなります。世の中には、経験しないで済むなら経験しないほうがいい失敗や後悔や痛みもあるので、「無駄の経験なんてない」みたいな綺麗ごとを言うつもりはありません。しかし、起きたことは起きたことで、それは変えられないことです。ならば、それらがすべてこれからブリコラージュの素材だと考えて「どう組み合わせて何を作ってやろうか」考えるのは、ちょっと楽しい人生手法なのではないか、と思います。

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