我が子の発達障害を受け入れるまでの6年間
発達障害の人の苦悩や生きづらさって、よくテレビで取り上げられたりしますよね。
合理的配慮という言葉も今は、よく知られる言葉になったのではないでしょうか。
たくさんの苦労や苦しみがあるのは、私も放デイのスタッフとして働いている中で、本人さんから直接、打ち明けられることもあります。
では、その子達の親御さんの気持ちって聞いたことがありますか?発達障害であると診断が下りるまでの数年間。
周りの子どもがすくすく育つ中、感じる違和感、孤独、寂しさ、不安を打ち消すために湧き上がる怒りを聞いたことがありますか?
私自身が経験した10年を発達障害の子に関わる教員やスタッフ、関わりのない人、にも知ってほしい。孤独と不安の中で、いかに葛藤し今日を迎えているのか。
これは一個人の経験であり、全ての人に当てはまるものではありません。
◆私という人
私が結婚したのは20歳で、いわゆる授かり婚だった。
きょうだいに男の子がいなかった私は、長男を妊娠したことをとても喜んだ。
男の子を育てるなんて未知の世界だ!なんて楽しみなんだろう!
元々、誰も私を知らない所に行ってみたいとか冒険心に溢れているタイプだったので、実家から遠く離れた場所で生活することも、少しも不安にならなかった。
「日本語が通じるからいける!」と持ち前の楽観さで生きていた。「子どもを育てる」という、経験したことのない感情と期待に胸膨らませた私から生まれた長男は、3500g越えの大きな子で、家族、親戚みんなから祝福され可愛がられた。
未来に不安を覚える瞬間など、あの時の私には少しもなかった。
◆はじまり
この話をする時、1番最初に思い出すのは、病院で友人の腕の中に倒れ込み、泣き崩れる私だ。
人生のどん底だと思っていた私だ。
世界が180度、変わってしまったと慌てる私だ。
病院の中にある売店の前にいた友人は、私を見て、とても不安そうな顔をした。私の悲壮な表情は、かける言葉も見つからなかっただろう。
「自閉症だった」
そうぽつりと呟いた私を、友人は何も言わずに、抱きしめてくれた。
自閉症とは、正式名を自閉スペクトラム症といい、個人差はあるが、主に言葉や発達の遅れ、コミュニケーションの困難、対人や社会性の苦手さ、行動のパターン化などを特徴として持つ発達障害の一つで、生まれつきの脳機能の異常によるものだ。
最近、テレビなどでもよく耳にするようになった言葉であると思うが、3人いる私の息子の1人、ジローがその自閉スペクトラム症だと診断を受けたのは、6歳の冬、1月17日のことだった。
忘れもしない。この日は、私の母の誕生日でもあった。
その1月17日までの話を聞いてほしい。
私が歩んだ31年の人生の中で、1番重く、苦しく、もう二度と立ち上がることなんてできやしないと思ったあの日の話を。
◆青空広がる日に生まれたジロー
遡ること10年前、ジローは我が家の次男としてこの世に誕生した。
体重は3400g台で問題なく、体も決して小さくはなかったが、生まれつき哺乳力が弱く、1つ上の兄とは正反対だった。
ミルクを飲むのに、20分も30分もかけて飲む。途中で疲れて飲むのをやめてしまうこともあった。
それでも、彼はすくすく育ったし、最初は体重が増えないと言われてたことも4ヶ月の検診を受ける頃には、なんの心配もなくなっていた。
首も座り、おそばせながら6ヶ月になるころには寝返りもうった。
長男より、少し遅いな。
その程度の感覚だった。
10ヶ月検診の日、私は混むことを予想して、予定時間よりも早めに家を出た、受付番号は3番。いい番号だ。私の好きな数字だ。
問診を渡され、記入する。
ここで初めて、あれ…と私の中に引っ掛かりを覚えた。
【はいはいをしますか?】
【お座りをしますか?】
全て、【いいえ】に丸がつく。長男は9ヶ月でつかまり立ちをしていた。
遅くないか?
いや、でも大丈夫。
きっと、ゆっくりさんなのだ。
問診を提出して、名前が呼ばれるのを待った。
その時の周りの光景は、今でも鮮明に覚えている。
大きな広間に集められた同世代の赤ちゃん。
座布団の上に寝転ぶのは、ジローだけだった。
おかしい、何かがおかしい。
そう思った頃には、名前が呼ばれ、保健師さんの前へジローを連れていく。
隅々まで体をチェックし、そこで言われた言葉は
「お座りしないね」
「はいはい、しないね」
「お母さんの方へ、行こうとしないね」
全てがネガティブで、私の中に突き刺さる言葉だった。
その日までに、わずかに芽生えてた心配という芽が、急激に大きくなった。
結局、3番でスタートした検診は、帰るころには、1番最後になってしまっていた。
小児科の先生がジローを持ち上げて、床に足先をつけてみたり、離してみたりして反応を見る。
何がおかしいのか私にはわからない。
けれど、先生は、ときどき首をかしげている。その姿が恐ろしかった。
「1歳半までに歩かなかったら、別で検診受けてくれる?」
先生の言葉に、ただただ、頷き、帰り支度をした。
ベテランの保健師さんが「変に心配しなくていいからね」と母子手帳を手渡してくれたが。
そんな言葉は、もう響かなかった。
不安と、心配と、恐れしかなかった。
そして、わずかに怒りもわいた。
それは、漠然とした不安から自分を守るための怒りだったのかもしれない。
その帰り道、車で迎えに来てくれた主人に、ジローのことを「少し遅いけど、心配ない」と話したと思う。
あれは、私の願望でもあったのだろう。
◆周りの子はできて、うちの子はできない。
検診からのショックを癒せないままに、その日から、ジローの成長のすべてに疑いを持つことになる。
つかまり立ちをさせても、机に体重をかけて、ほとんど自分の足では立とうとしない。
なにも、年齢にそぐわないことをさせようとしたわけではない。
彼の名前を呼んで振り返ってもらおうとしただけだ。
彼の目を見て話しをしたかっただけだ。
周りの子のように、親が視界から消えれば、不安がり、寂しがってほしかったのだ。
けれど、成長すればするほど、周りの子との差は広がるばかり。3歳になる頃には、その差は歴然だった。
【名前を呼んでも返事をしない】
【手を繋ぐことができずに、どこかへ消えてしまう】
【目を合わそうとしない】
【目があったとしても、こちらに関心を向けない。】
【周りの人に興味がなく、自分の世界】
周りの子より多い検診の回数。
こなせばこなすほどに、最初に思っていた【そのうち、追いつく】という気持ちは薄れていった。
そして、ある日、私は玄関でジローに「バイバイ」と手を振った。「行ってくるね」と手を振る長男とともに、玄関まで父と見送りにきたジローに手を振った。
その瞬間、彼は自分の目の前に手のひらを広げ、逆手バイバイをしたのだ。
あぁ…してしまった。
なんとなく、そう思ったことを覚えている。
主人は驚いていた。なにしてるの?と、いいたげな目だったが、私は説明をせずに家を出た。
発達障害があるのかもしれないという言葉を口にしたくなかったのだ。
◆幼稚園へ入園、同時に療育施設へ…
翌年、ジローは地元の幼稚園へと入園する。兄と同じ幼稚園だ。入園にあたって、園側から提出を求められた書類に、私はつらつらと現実を書き綴る。
【オムツが外れていません】
【発語が少なく、無口です】
【手を繋げません】
【お友達と遊ぶことはあまりありません】
その頃には、私はジローを療育施設へ通わせることも提案されていて、すぐに同意した。
成長が遅れてるなら仕方ない。やるしかないと思っていたが、この時も、まだ、追いつくのでは?と淡く思っていたことを覚えている。
週の3日間を幼稚園で過ごし、残りの2日間を療育施設で過ごした。
彼との生活は違和感だらけだ、服の着脱が一人でできず、毎回、着替えさえなければならないし、幼稚園の用意なんてできるはずがない。
親である私がいなくなっても泣いて探すこともなく、発語も極端に少なかった。
ボールペンを握れば壁に落書きをして、何度注意されてもやめようとしなかった。お風呂が大好きで、お風呂の時間だけはやけにお利口だったし、玄関の施錠は昼間でもチェーンまでかけておかないと、勝手に外に出ていってしまう。
違和感しかなかった。
長男と違う、周りと違う。
なぜ、ここまでしっかり違和感を感じながらも、追いつくかもしれない…と思っていたのかというと、【療育施設にくる子どもの中で何割かの子どもは、なんの問題もなく卒業することがある。】と聞かされていたからだ。
それが、まだ、私の希望を繋いでいたのだと思う。実際、そういう子も少なからずいた。
けれど、この施設を卒業する時には、ジローには発達障害の診断がでた。
療育施設で過ごす中で、うちの子はもう追いつかない。追いつかせるのは、彼が辛い思いをすることになる。と私が冷静になっていくのがわかった。
あんなに焦っていたのに、卒業する2年後には「支援級への在籍を希望する」と書類を提出したのだ。
個別療育の中で、担当の心理士の先生と親が話す時間があった。私はその時間いっぱい、自分の中の不安をぶつけ、話を聞いてもらった。
その中で、担当の心理士さんにこう尋ねた。
「発達障害だと思いますか」
心理士の先生は、診断をすることはできない。
いつも、当たり障りない返事をしていたが、6歳を迎えた年、療育施設も卒業に近づいてきた頃、私の心は大きく揺れていた。
最後に背中を押して欲しかったのだ。
心理士の先生は言った。
「私の口からお伝えすることはできませんが、疑いはあると思います」
この回答が心理士の先生として正解なのかは、私はわからない。
本当は、疑いがあることも助言してはいけないのかもしれない。
けれど、私は、この時の先生にとても、感謝している。
その言葉で、私は診断してもらおう。この子と私の中にある違和感の理由を知ろうと思ったのだ。最後に、背中を大きく押してもらい
「診断をとるために、予約を取るので、病院を教えて欲しい」
と、初めて自分から行動した。
◆2015年1月17日 診断当日
そして、1月17日。
私と主人は、当時住んでいた市から1時間ほど車で行った先にある病院で、ジローの診断をしてもらった。
最初の1時間は、ジローの診察、絵を描いたり、先生がする簡単な質問にジローが周りの助けなしにどこまで答えれるのかなど、時間いっぱいに診察をしてもらった。時々、私の方を見て「ママ…」という姿に、これが本当に必要なことなのか、胸が締め付けられた。
次の1時間は、私達、親へのヒアリングだ。もちろん、2年通った療育施設からの資料、3年通った幼稚園からの情報も手渡して、判断してもらった。
ヒアリングの間、私は、妙に落ち着いていた。
赤ちゃんの頃からの彼をすべて話した。
首の座りから、寝返り、発語まで今まで【そのうち、追いつく】と思って、追い付かなかった全てを話した。
その間、主人は真っ白な顔をして、私の隣にいた。
1時間、検査の説明とヒアリング、幼稚園からの情報と療育施設の見解、いろんな話を聞いた最後、優しそうな男の先生は、白いメモにこう書いた。
軽度知的発達障害
自閉スペクトラム症
「知的には軽度。でも、語彙は少なくて、今で2歳半くらいかな(当時6歳)」「自閉症の方は、軽度から重度まである中で、重度に近い。」
先生の言葉に、私は、肩の荷がどっと降りた気がした。同時に、足元から急激に這い上がる悲しみと「やっぱり」と漠然と納得する気持ちが混在した。
この子が生まれて6年、苦しかった。
何度も足止めされる検診、できないに印をつける時は、いつだって憂鬱だった。
幼稚園に行けば周りの子は戦隊ごっこやおままごとをして、小さな社会で生きているのに、うちの子は、いつでも担当の先生の膝の上で興味なさげにその子たちを見ている。
可愛い可愛い我が子なのに、いつも、いつも、どうしてあげたらいいのかわからなかった。
今までのことは、無駄な心配だと言ってほしかった。
ネットとは便利だ。少し調べればいくらでも情報を提供してくれる。
ここに来るまで、何度も何度も検索した。
【2歳 歩くのが下手 よくこける】
【2歳 しゃべらない】
【1歳半 指差しできない】
【3歳半 喃語】
どれだけ調べたかキリがない。
けれど、いつも最後は「自閉症」という言葉に行き着いたのだ。だから、やっぱりと思った。
彼と私の間にあった違和感の正体を知ることができたのだ。彼は、自閉症だった。
たくさんの冊子をもらい。大まかな説明を先生から受けた。
視覚支援が有効なことや、構造化支援をしてあげることが好ましいことなどを教えてもらう。
その中で、「将来、つけない職業がある」との説明に、私の目から涙が溢れそうになった。まだ、6歳、6歳で彼は「なることが叶わない職業」を突きつけられたのだ。夢に溢れ、希望に溢れる子どもなはずなのに…と、その涙を懸命にこらえた。
その後、私の足は迷わず、同じ病院内で別の診察に来てた友人の元へ急いだ。
ジローの手を引く(正しくは逃げ出さないように手首を握ってた)主人の顔を見る余裕なんてなかった。
廊下を曲がった先、売店の前で彼女は待ってくれていた。
私の姿を見つけ、走り寄ってくれた彼女の腕に泣き崩れた。
「自閉症だった」
何の涙だったのか、安心したのかもしれない。
辛かったのかもしれない。
未来が暗くなったように感じたのかもしれない。
あの時の感情は言葉に表すことができるものではなかった。
彼女と話した後、私たちは病院を出た。
1月の風が冷たく、けれど、空はとても青く晴れた日だった。
ジローが生まれてきてくれた日のように、真っ青な空だった。
◆現在のジローと私
あの日から4年が経ち、ジローは10歳になった。この春、5年生になる。この4年の間に色々なことがあった。
学校で他害を起こし、相手の保護者に謝ったこともあった。
苦手な行事に参加することができず、学校へいけないことも多く、担任から心ない言葉を浴びせられたこともあった。
最終的には1年間不登校になったが、この春には、環境を変えて学校への登校を再開する。
紆余曲折があり、一難去って、また一難、1歩進めば2歩下がるような、そんなジローだが、確実に大きく、そして成長している。
その成長は、ゆっくりだ、とても、ゆっくりだが、確実に彼は大人になっていくのだと感じている。
そして、ジローの診断後、散々落ち込んで、不安で押しつぶされそうになっていた私は、今、放デイのスタッフとして働いている。
毎日、子供たちを学校や家まで迎えに行き、おやつを食べたり、お友達とのコミュニケーションの手助けをしたり、楽しく過ごしている。
中にはビックリする体験もあるが、他のスタッフと共に、子ども達の成長と、親御さんの気持ちの変化を見守っている。
自身の子育てのことも、スタッフに助けてもらいながら、生きている。
あの日の事を私は、忘れることはない。何もわからない未知の世界へ飛び込むしかなかった恐怖、けれど、飛び込んだ世界は広く、深く、とても明るい世界だった。
支えてくれる人は数えきれない。
診断を受けた日、私を受け止めてくれた友人は、今、保育士さんをしている。発達障害の疑いのある子どもと、その子の親のケアをしてくれている。その姿を見て、私は自分の10年を活かすことができるのではないかと思った。
この子達は、まだまだ理解されないことが多いし、傷つくことも沢山ある。
その話は、また今後、お話できればと思う。
ジローは、自閉症。
相変わらず筋肉が弱く、動きはぎこちない。こだわりが故にパニックを起こすし、コミュニケーションも苦手だ。
それでも、日々、新しい世界を見つけては、のびのびと自分の人生を謳歌している。
1月17日の私には想像できなかった未来を今、過ごしている。ジローがいなければ、私は今の仕事に興味を持つこともなく、どんな人生を歩んでいただろうか。
31年の人生の中で、自閉症の子供を育てるなんて思ってもいなかった。
あの日、私は人生の中で、考えたこともないほどの苦悩に襲われていた。
けれど、今は、なんとなく、幸せに暮らしている。
◆最後に、診断名がつくということは、
この話を読んで、どう感じてくれただろうか。
これは、4年前に実際に自分の子供の発達障害の診断を取りにいくのに、覚悟を決めた1人の親の実話。
【少し発達が遅れてるだけかもしれない。】
【そのうち、追いつくかもしれない。】
【この子は成長は遅いけれど、発達障害ではない。】
そんな希望を自らなかったことにして、診断をだしてもらう理由は【適切な支援をしてほしい】という強い願いだった。この子を、この子を支える親の苦悩も理解してほしいという強い気持ちだ。
私の人生はどうなるのだろうか。4年前には考えられなかった世界で生きる今、私は、ジローとの未来を楽しみにしている。
そして、この話が、誰かの気づきになればと密かに思う。
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