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職場とゾンビ

オフィスをゾンビの群れが徘徊している。かれらはカタカナことばを好み、枕詞のように「逆に」「とはいえ」「それで言うと」を多用し、尻上がりのイントネーションで「御社」と言う。定時を迎えてもそれが定時だと気づかないで、夜の十時ごろにぞろぞろと会社を出てゆく。見ためは人間と変わらない。それでもかれらはれっきとしたゾンビである。なぜならかれらは一度死んでいるからだ。

企業カルチャーとはウイルスだ。ひとたびそれを違和感なく受け容れれば、それまでのかれはたちまち葬られて、ゾンビとなる。感染はあっという間に完了する。定時という概念を忘れ、独特の語法に走る。ゾンビとは、企業のカルチャーに侵されきって、それをどうとも感じない身体になってしまった憐れな死者たちのことなのだ。

このウイルスが厄介なのは、噛まれたり触れられたりすることによって感染するのではなく、かれらがただそこに存在するという事実だけによって感染が済んでしまうことだ。多ければ多いほどその威力は強い。生き残った側に対抗する手段はほとんど用意されておらず、ただ耐えるほかない。どんなにゾンビの数が増えて帰りづらい雰囲気が醸成されても断固たる意志を抱えて帰ること。プライオリティやフィックスなどということばが飛び交っても、優先度や確定という日本語を使いつづけること。それを諦めれば、たちまち感染ははじまる。

ところがゾンビ映画とは違って、生き残った人びとは応援される主人公ではいられない。会社という場にあってはゾンビたちこそが主人公だ。逃げ惑うことは心身にはげしい負担をもたらすというのに、感染を拒む人類はもはや悪役でしかないのだ。

そうであるならば、悪役にまで成り下がって逃げ続ける必要などあるのか。このためらいは、ゾンビ映画を観ているときのもどかしい思いにも通ずる。生き残って逃げ惑うよりもさっさとゾンビになったほうが苦しくないのに、どうしてそうまでして人間の側に留まろうとするのか。一度ゾンビになってしまえば、観ているほうだってそれ以上ハラハラしなくて済むので助かる。無論それじゃあ物語が成り立たないし、こういう人間はゾンビ映画を観ないほうがいい。

とにかく、それでもかれらはゾンビに抗い続ける。それはきっと本能によるものだ。あっち側に行ってはいけないという本能の呼びかけだ。ゾンビが悪か人類が悪かはどうでもいい。自身の本能が感染を拒み続けるのなら、それに従うほかないのだ。

逆に、本能が拒まないのならばそれはそれでいい。ゾンビのなかにはもはや感染という経路すら飛び越して、そうあることを望んだ者もいるのだ。企業カルチャーへの憧れからフルコミットを誓うことは正しい選択に相違なく、そういう者は確実にバリューを発揮するだろう。ただ、そのようにあることを望まない人間にとっては、やっぱり凶悪な存在である。

置かれた場所で咲きなさいという言葉が流行ったが、あれはゾンビだらけの地域にゾンビとなることを望まない人間を放りこみ、おまえもはやくゾンビになれと暗示をかけるおそろしいソリューションでしかない。そこで耐えるのはよほど難しいことだ。完璧な悪役として生き延びることはきっとつらいことだろうし、はっきりいってサスティナブルではない。それならばそこを抜けだすことのほうがプライオリティは高いだろう。

とはいえ、この世にゾンビの存在しない企業などあろうはずがない。企業がある限りそれぞれのカルチャーがあり、それゆえにゾンビは生まれる。映画とは違う、現実の悲しい性だ。ゾンビに囲まれた生活を辛抱し、やがて逃げ出した先に待つのはまた別種のゾンビの群れなのだ。

だとすればゾンビになるのを望まない人間はどうすればよいのか? それでいうと、逃げ道はないのだと思う。何十年も耐え忍ぶ日々を送るか、諦念を掲げて感染を受け容れるかのいずれかだ。孤高を保てないのなら、もう仕方がない、すこしでもマシだと思えるウイルスに感染することだ。いま眼の前でうごめくゾンビたちは醜悪かもしれないが、企業の数だけゾンビの種類はある。そこで人生をフィックスさせる必要などまるでない。我われは新たな地平を、まだ見ぬウイルスを探し求めるのだ。そうして心安らかに、ゾンビとなるのだ。

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