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セクシャル〈アロマンティック〉を知ったときー私の場合

深夜のタイムラインを回遊中に流れてきた「anone診断」を、何気なくやってみた。いわゆるセクシャル診断。いかんせん恋愛経験が乏しいので、質問にピンと来ないながらもほぼ直感でサクサク答える。こういう自己分析系は昔から好きだ。

4つに分かれた、私の分析結果はこうだ。

【こころの性】シスジェンダー
【恋愛指向】アロマンティック
【性的指向】ヘテロセクシャル・サピオセクシャル
【表現したい性】ノンバイナリ―

ざっくり言えば、私は女性の身体と女性のこころを持ち、異性に対して性的な欲求を抱く人間で、相手の外見やジェンダーではなく知性に魅力を感じる、とのこと。

ふむふむ、なるほど。シス&ヘテロであることは自認していたし、椎名林檎の『幸福論』よろしく、相手の言葉遣いや哲学に惚れた覚えのある身としては、知性を愛する〈サピオセクシャル〉というセクシャルがあることに驚きながら納得した。というか、「知性に性的興奮を覚える」ってちょっと変態っぽくて、我ながら最高に好きだな。

この4つの結果のなかで、私が一番読み込んだ項目は【恋愛指向】だった。勉強不足で〈アロマンティック〉という単語の意味を知らなかった私は、診断の説明文を読み進めながら、妙な安堵感と感動と、深夜特有の謎のテンションがあわさってちょっと泣いた。

〈アロマンティック〉とは、愛に恋愛感情がない、他人と恋愛をしたいという欲求がないセクシャリティのこと。ちなみに、よくアロマンティックと混同されがちな〈アセクシャル〉は、性行為をしたいという欲求がないことを指す。このふたつは似て非なるもの(というか、全くにてないのだけれどなぜか一括りにされがち)だから要注意。

なんのこっちゃと思われそうだが、ちょっと聞いてほしい。「まだあなたは”そういう人”に出会ってないからだよ」とうっかり言っちゃう人には特に。

私は、おしどり夫婦ここに極まれり!という両親のもとで育った。おかげさまで結婚に対するリスクを考えることはあっても、特に負のイメージはない。非常に仲の良い5人家族だ。なにが言いたいかというと、私のセクシャルの話をしたときに聞かれがちな「家庭環境は?」という質問に対しては「全く問題ない、否、非常に良好」ということだ。そもそもセクシャルに関して家庭環境が影響するとは私には全く思えないけれど、なかなかよく聞かれるのでここで断っておく。

友人も、多くないけれど恵まれた。あえて男女で数えるのであれば、ちょうど半々くらい。

さて、本題の恋愛についてはどうだろうか。中高生時代、周囲が男女を強く意識し始め、あのふたりは付き合っているだとか、あの子は彼が好きだとか、はたまた3年のバスケ部の先輩が…とか、そういった類の話に花が咲き始めた頃、私は正直恋愛に対して興味はなかった。ただ、友達同士できゃっきゃするのは好きだったので、それなりにおままごとのような恋愛の話もしていた。この頃は、私もそのうちに夢中になれる好きな人ができるのだろう、くらいに思っていた。

しかし、大学生にもなると興味がないとは言っていられなくなる。いかんせん、''男女のカップルでしか行けない場所”が増えてくるし(おかげで大学生時代は水族館や夜景の見えるレストランには行けなかった。友人を誘っても変な顔されるし)、こちらにその気はなくとも相手から、有か無しかの物色も含め、”恋愛の対象”として見られるからだ。私が女として存在するだけで、いろんな物事が絡まってくる。

ここでちょっと違和感を覚えはじめる。私が「人間として好き」という感情であっても、気がつけば周囲に「異性として、恋人候補として好き」にすり替えられるのだ。

あれあれ、こんなはずじゃ。「だって、〇〇と仲良いじゃん」。そうだね、でも私は彼のことを恋愛として好きなんだっけ?「やだ、天然?笑」「恋愛経験が少ないから分かってないだけだよ、それは好きってことだよ」。なるほど、これが好きってことなのか。………あれ?そうだっけ?

あまりの恋愛への興味のなさに、私はいま世間で話題になっているマイノリティというやつなのでは?と思ったこともあったが、LGBTにはどれもピンと来なかった。そして、やはり勉強不足な私は、LGBT以外にも複雑で繊細なたくさんの区分けがあることを知らず、周囲の言う通り「まだ出会っていないだけだろう」くらいに思っていた。

そんなこんなで、デートしてみたり、友人に先輩を紹介してもらったりで恋愛っぽいネタをこさえ、たまに私の「人間として好き」という感情を相手に読み間違えられて男友達を失ったりもしながらも、私なりに女子大生然としようと過ごした。

ごくたまに、無駄に考え込んで人生を悲観してしまう眠れない夜に、私はやっぱり人と違うのではないか?両親以外に私を”一番”に据えてくれる人はこの世にいないのではないか?いや、そもそも私自身が自分本位で自己愛が強すぎる冷たい人間なのでは?人を好きになれないと言うのは、どこか人間として欠如しているからでは?なんて思いが頭を離れず、「人 好きになる方法」「好きな人 出会う方法」と不毛な検索をしては一切具体性を持たないまとめサイトや怪しい恋愛応援サイト、果ては占いまで手を出す、ということもあったが、次の日になれば忘れた。私はこれを必殺忘却術!と呼んでいる。

そんな私にも、ついに「これがいわゆる運命というやつなのでは?!」という出会いが訪れる。これがまた、笑ってしまうくらい〈サピオセクシャル〉らしい惚れ方なのだが、彼の持つ哲学にものの見事に落ちてしまった。その瞬間、ズキュン!ドボン!という音が聞こえたくらい。

〜~あたしは君のメロディーやその哲学や言葉、全てを守り通します。君が其処に生きているという真実だけで 幸福なのです♪〜〜

まさにコレ。出会ったその日の帰り道は、バスに乗りながらイヤホンから流れる『幸福論』にニヤニヤして、これから始まるであろうことに思いを馳せたし、実際そうなった。

そんな夢心地状態と同時に、私ははたと気付いた。彼がたまたま男性の姿をして現れたから恋愛に発展しただけで、例えば女性の姿で現れたのならばどうなっただろう。やはり、その哲学にべたべたに惚れて大好きになり、親友になっただろう。今、私が彼に対して持っている大きな愛と同じものを彼女にも渡したくなったはずだ。つまり、私の好きという感情には恋愛という必然性がなかった。

その後、運命の人だと思った彼とはサヨナラをした。相変わらず恋愛感情はわかないし、彼に夢中で仕事が手につかない!という友人の気持ちには全く共感できないどころか愚かしさすら感じたし、大切な人は例え恋愛関係になくても又は異性でなくてもやはり大切なままだった。

年齢と共に結婚の話も増えてきた。人生を共にするパートナーがいるのは羨ましい。できれば私もそんなパートナーが欲しい、けれどやはり恋愛はしたくない。出会って恋に落ち、紆余曲折を経て結婚するという流れが一般的な世の中で、矛盾した感情を持て余したまま、私はパートナーを欲する一方で、ひとりでいる時間を十分に楽しみ、豊かに生きていた。

そうして、冒頭に戻る。

なにげなくやってみた診断で、〈アロマンティック〉という「愛はあるが、そこに恋愛はない」セクシャルがあることに私は驚愕し、続いて私の頭はおかしくないということに安堵し、容認してもらえたことにちょっぴり泣いた。名前があるというのは、世間に認めてもらえたということ。知るということは悩みや不安からの解放だという当然のことを、身をもって知った。

幸い友人には恵まれていたので「長年悩んでたけど悩む必要なかった!そういうセクシャルだった!」と私が喜べば、友人たちも「そうかそうか」と喜んでくれた。両親に「恋愛はできないが愛はあるから交際ゼロ日で人生のパートナーを連れてくるかも。結婚は、ごめん、今はあまりしたいと思ってない」と説明すると「そうだろうね、いいんじゃない?」と返ってきた。(「そうだろうね」とは?)

そんなこんなで、長いこと私に絡まっていたいろんな物事は、スッキリサヨナラとはいかないまでも、名前が付いたことで「私はこういうタイプの人間です」と言えるようになり、なんだか生きやすくなった。少なくとも眠れない夜に不毛な検索を続けることはなくなった。悩むとするならば、恋愛無しで人生のパートナーとして歩んでくれる人を探す方法だろうか。

ちなみに、セクシャルというのは状況や診断当時のメンタルによって変化するらしい。つまり、私が死ぬまで〈シスジェンダー〉〈アロマンティック〉〈ヘテロセクシャル・サピオセクシャル〉〈ノンバイナリ―〉であるとは限らない。もしかしたら心境の変化と共に変わるかも。セクシャルには柔軟性がある、それを知っただけでも世界の解像度は変わる。

私は専門家でもなければ勉強をしたわけではなく、本を数冊読んだだけのちょっとセクシャルに興味がある人間というだけなので、これは全て「私の場合」であることをここで念を押したい。ただ、いろんな「私の場合」があって、それらが認められる世の中だといいなとは思っている。

▼私が試した「anone診断」


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